15. 峠のクイーン

 4月。それは新しい季節の始まり。

 そして、夢葉は大学2年生になり、怜と翠は4年生になった。

 そろそろ本格的に就職活動をしないといけない時期のはずだが、夢葉は二人の進路については、何も聞いていなかった。


 そんな4月頭。

 桜が散り始め、ようやく本格的な春の暖かさが身に感じられる頃、その出来事は起こった。


「私、怜さんの家に行ってみたいです」

 この日、翠は用事でいなかったため、以前のように二人で、講義後に大学構内のカフェで会話していた夢葉と怜。夢葉の口から洩れた言葉に、怜は驚きを隠せなかった。


「何でだよ。ウチに来ても何もないぞ」

 そう不満そうに漏らしていたが、


「いいんですよ。バイクのことを教えてもらいたいし、怜さんの家を見ておきたいんです」

 いつになく、目を輝かせ、強硬に訴える後輩に、怜は困ったような表情を浮かべていたが、ふと思い出したように、


「そうか。今日はいないから……。まあ、今日ならいいぞ」

 と言ってきたので、夢葉は、


「いないって誰がですか?」

 当然のように聞いていた。


「まあ、大した問題じゃない。気にするな」

 怜はそう言って、お茶を濁していたが、どうにも気になる夢葉だった。ただ、せっかく了承してくれたようだから、とりあえずその日のうちに行ってみることにした。



 授業が終わった後、早速、バイクで怜の後をついていく。大学からバイクで30分ほどもかかり、ようやく着いたそこは、昔ながらの瓦屋根が特徴的な一軒家だった。


 玄関の外に車1台分の車庫があり、その脇にちょっとした駐車スペースがあったので、そこに怜はバイクを停め、夢葉のバイクを隣に導く。


 玄関は、インターホンはついているが、モニターなどはなさそうな古いタイプの物だった。


「ただいま」

 ボソっと、ほとんど聞こえないように呟く怜とは対照的に、


「お邪魔します」

 元気に言い放つ夢葉だった。


 中は、外とは対照的に、リフォームしてあるようで、外観の古さとは裏腹にキレイな造りをしていた。


 早速、リビングルームに入る怜。

 そこには、厳つい顔をした50代くらいの男がいた。


 怜の後についてリビングに入った夢葉は、その男が少し怖く思えた。

 角刈りの頭に白髪が混じっており、鋭い切れ長の眼が特徴的で、口元は引き締まっている。皺の多い顔で、こちらを睨むような無遠慮な瞳を向けてきた。


「おう、怜。帰ったのか」


「ああ、オヤジ」


(お父さんなのか。やっぱり怖いな)

 と思っていた夢葉だったが。


「今日は友達を連れてきた」

 そう、怜に言われ、何だか照れ臭いな、と思っていた夢葉だったが。


「珍しいな、お前が友達を連れてくるなんて」


「は、はじめまして。黒羽夢葉です」

 緊張しながら、そう挨拶をする夢葉に対し、男は、


「黒羽?」

 彼女の苗字に興味を持ったようで、立ち上がって、夢葉の顔をまじまじと見てきた。

 威圧感すら感じるその視線が怖いと思って、思わず視線をそらした夢葉だったが。


「もしかして、お前の母親の名前は、『絵美』じゃないか?」

 不意にそう言ってきたこの男に、夢葉は驚いて、目を向け直した。


「お母さんを知ってるんですか!」


 大げさに驚く夢葉に、男は、ソファに腰かけることを勧め、夢葉は従った。

 男は、夢葉とテーブルを挟んで向き合って、ソファーに腰かけた。怜はその隣に座って、意外な二人のやり取りを見守っている。


「怜の父、市振誠だ」

 そう、少し照れ臭そうに、自己紹介した誠の目が、怜にそっくりだ、と夢葉は思った。


「『峠の女王クイーン』にこんな大きな娘がいるとはな。俺も年を取るはずだ」


「『峠のクイーン』? 何ですか、それ?」


「お前の母さんの昔のあだ名だよ」


「ええっ!」

 そのことに一番びっくりして、目を丸く見開いていた夢葉。


 誠は、ゆっくりと語り始めた。



 話は過去へと遡る。約30年前へと。

 1988年4月、東京都。

 奥多摩有料道路。

 現在、「奥多摩周遊道路」と名付けられ、無料開放されているが、この時はまだ「奥多摩有料道路」という名の、有料道路だった。無料になるのはこの2年後の1990年からだった。


 1台のレーサーレプリカタイプのバイクが、月夜見第二駐車場に停まっていた。

 そのバイクの名前は「ホンダ NSR250R」。型式MC18。

 そう、通称「88ハチハチNSR」と呼ばれた、当時最速と言われた2ストの250ccレーサーレプリカだった。

 1987年に発表され、この年、1988年1月から発売された。


 市販二輪車としては、世界初となるコンピュータ制御のPGMキャブレターを採用し、点火系・排気デバイス・オイルポンプもコンピュータ制御していた。

 そして、何と言ってもその圧倒的な速さが話題だった。当時のライバルだったヤマハ TZR250R、スズキ RGV250Γガンマとの三つ巴の開発競争の末に生まれたバイクで、最高出力は45PS(馬力)だったが、簡単にリミッターを解除できて、リミッターを外すと、70PSは出たと言われた、当時の化け物バイクだった。


 その白い車体に赤いラインが入ったNSRの近くに、若い女がいた。


 女の名は、深川絵美ふかがわえみ。まだ結婚する前の旧姓の夢葉の母だった。

 当時、22歳。

 まだ世間の怖さを知らない彼女は、その界隈では有名だった。


 ストレートロングの黒髪、整った目鼻立ちを持つ美人だが、とにかく速い。勝負を挑んでくる男たちを何人もぶっちぎって、ついたあだ名が「峠の女王クイーン」。

 特に、この奥多摩有料道路において、彼女は一度も負けていなかった。


 NSR250R MC18は、確かに速かったが、姿勢はツラいし、ミラーも見づらいし、ライトは暗いし、すぐプラグはかぶるし、低速トルクもスカスカだった。それを彼女は、いとも簡単にその性能を最大限に引き出していた。


 また、当時はバイクブームだった上に、今のように携帯電話もないし、娯楽があまりなかった時代だったこともあり、若者はこぞってバイクに乗っていたし、おまけにバブル最盛期で、日本自体に金があった。


 そして、その日も彼女に勝負を挑む若者が現れたのだ。


 カワサキ 500SS MACHマッハⅢ(以下マッハ)。

 1969年発売のこのバイクは、並列3気筒搭載で、各気筒ごとに配置されたキャブレターはVM35SCを3連装し、圧倒的な加速性能を持ち、最高出力は60PS。


 そのバイクにまたがっていた男は、若き日の市振誠だった。彼もまた今のように皺の多い中年ではなく、髪がふさふさの、切れ長の眼を持つ、ちょっとしたイケメンに見えた。


 誠が絵美に近づく。


「深川。今日こそ勝たせてもらうぞ」

 今よりイケメンだった、若き日の怜の父、誠がライダースジャケットを着て、絵美に対抗の炎を燃やすように、熱い目を送っていた。


 対する絵美は。

「あら、あんた。確かこの前、TZRで負けた人じゃない?」

 と、微笑みながら誠を見るが、その目が笑っていなかった。内心、鬱陶しいと思っている目だ。


 そう、前回の戦いで、誠はヤマハ TZR250 3MA、つまり今、怜が乗っているバイクで彼女に挑み、負けていた。

 もっとも、TZRの最高出力は45PS、対するNSRはリミッター解除すれば70PSもあるので、当たり前といえば当たり前だったが。

 そこで、誠は60PSあるマッハを手に入れて、再度彼女に挑んだのだった。


「今度こそ、俺が勝ったら付き合ってもらう」


「勝てたらね」


 誠は「勝負に勝ったら付き合って欲しい」と絵美に言っていた。バイクに乗る女子は少ないし、彼女は美人だったから、同じように「付き合う」ことを賭けて、勝負を挑む男子が多かった。


 絵美は、若い男に何度も挑まれ、そういうことにはうんざりしていた。


「こっちのマッハの方がノーマルでの出力は上だし、排気量も違うから、ハンデを与えてやる。こっちは少し後にスタートする」

 ところが、そう言った誠の一言を絵美は遮り、


「必要ないわ」

 と、だけ言った。


 もちろん、絵美はNSR250Rのリミッター解除をしていたし、勝つ自信もあったためだ。


 苦々しい表情を浮かべ、誠は続ける。

「勝負は、ここから川野ゲート手前の川野駐車場までだ」


「いいわ」


 自信満々にそう言って、絵美はフルフェイスヘルメットをかぶり、バイクにまたがる。彼女は、いつも赤いレーシングスーツを着ていた。

 ちなみに、川野ゲートとは、川野料金所と言って、有料道路の当時、川野駐車場から三頭橋みとうばしの間に存在した。


 お互いに駐車場入口までバイクを持っていき、一緒に来ていた、絵美の友人がスタートの合図をすることになった。


 エンジンをキックしてかける二人。

 NSRからは「ブルンブルン」という、マッハからは、「ドルンドルン」という特徴的な音がそれぞれ響き、互いにこれ見よがしにエンジンを空吹かしし始める。


「では、位置について」

 この段階で、すでに絵美は、勝利を確信したように不敵な笑みを浮かべていた。


「よーい。スタート!」


 2台のバイクから一斉に爆音が轟き、猛烈な白煙がもうもうと舞い上がる。

 轟音と共に、2台のバイクが坂道を走って行く。


 最初は明らかに誠のマッハが押していた。出力性能的にはマッハの方が勝っているはずだからだ。

 だが、このバイクは「元祖じゃじゃ馬」と呼ばれたように、とにかく扱いが難しいことでも知られていた。

 今のバイクとは違う。曲がらない、真っすぐ走らない、そして止まらないのだ。


 それでも、誠は精一杯のライディングテクニックでそのハンデをカバーしていた。


 だが、坂道が下りになる頃。

 エンジンの回転数を一気に上げてきた、NSRに並ばれていた。

 焦る誠に対し、マッハと同じように扱いにくいNSRを、手足のように扱って、絵美は恐れずにコーナーを曲がっていた。


――ビィィィィーーン!


――ガァァァァーーン!


 山々に、爆音と2スト特有の白煙をまき散らしながら、コーナーを攻める二人。


 だが、絵美の方がコーナリング・テクニックは上だった。


「峠の女王」と呼ばれた、その二つ名の通り、コーナーにおいて、バイクを高速で保ちながら、決してコーナーから外れない走りをする。

 おまけに、レースのように、アウトインアウトという、コーナーリングにおいて最も速いと言われる理想的なコーナーリングを寸分の狂いなく忠実に再現していた。


 一方、焦る誠は、普段よりもスピードを上げていたせいか、途中のコーナーでライン取りを間違えて、横にズレてしまい、中央線をはみ出していた。


 その瞬間、絵美は一気に勝負をかけて、追い抜いていた。


 後は、ズルズルと距離を離され、最終的には絵美のNSRがそのままゴールイン。


 誠は負けたのだった。

 しかも、二度、勝負を挑み、二度とも負けていた。


 誠は決して遅くはないのだが、絵美が速すぎて、焦ってしまった分だけ、後れを取ってしまった。


「くそっ。また負けた」

 ヘルメットを脱ぎ、悔しがる誠。


「あんた、こういうの、もうやめなよ。走り屋には向いてないわ」


「なんだと。勝ったからって偉そうに」


「いやいや。そういうんじゃなくてね。私は走ってみて、そう思っただけよ」


 そう言われた誠は、納得がいかない、と言った表情のまま、すごすごとマッハで立ち去るしかなかった。

 ちなみに、誠が負けた場合、つまり絵美が勝った場合にどうするかは、そもそも考えていなかったようだ。



 話は再び現代に戻る。

 誠の話を聞いていた夢葉には信じられなかった。今は温厚なあの母が、昔はそんなに強気な走りをしていたなんて。


「嘘ですよね、あのお母さんが……」


「いや、本当のことさ。怜が乗ってるTZRだって、あいつに勝ちたくて乗ったようなもんだ」


「マジか……」


 怜もこの話は知らなかったらしく、あまりの驚愕の事実に言葉を無くしていた。


「絵美さんが結婚して、『黒羽』姓になったのは知っていたが、まさか娘の友達が絵美さんの娘とはな。絵美さんの旦那はどういう人だ?」


「ええと。普通のサラリーマンですよ」

 父の顔を思い浮かべながら、夢葉は答える。


「バイク乗りか?」


「いいえ、全然。それどころか、車の運転も下手です」


 そう告げると、誠は驚き、


「そうか。まさかあの絵美さんがな。まあ、そもそも勝負ごとで交際相手や結婚相手を決めるのもおかしな話だし、そういうのとは無縁の普通の男が良かったのかもな」

 そう、独自の解釈をして、夢葉の母の結婚観を評していた。


「まあ、せっかく来たんだ。ゆっくりしていけ」


 誠はそう言って、少しだけはにかみながら、微笑んだ。

 その様子が、不器用な怜によく似ている、夢葉は思った。

 特に目元が怜にそっくりだと。

 娘というのは、よく父親に似ると言われるが、そうかもしれないと思った。


 同時に、昔とはいえ、母親のことが好きだったと思われる男性が、友達の父親と考えると複雑な気分だった。


 その後、怜の部屋に招待されて、話を聞くと。

 どうやら、彼女の家は、誠、つまり父が母と離婚しており、再婚して継母が来たそうだが、怜はこの継母とあまり上手くいってないらしい。

 その辺りが、彼女を暗く、冷たい道へと進ませた原因かもしれない。

 だからこそ、怜は「今日はいないから」と言っていたのか、と納得する夢葉。


 夢葉はそう思ったが、これ以上、他人の家のプライベートな問題に口を突っ込みたくはなかったので、遠慮した。



 怜の家から帰宅した夢葉は、母に向かって、

「ねえ、お母さん。昔、『峠の女王クイーン』って呼ばれてたんだって?」

 といたずらっぽい笑みを浮かべて、わざとらしく聞いてみたら。


 ―ガシャンッ!


 母・絵美は、いきなり手に持っていた食器を落として、割っていた。

 明らかに動揺している様子がわかる。


 割れた破片を拾うのを手伝う夢葉に。

「ど、どこでその名前を?」


「怜さんっていう友達のお父さんから。市振誠さんって知らない?」


 しかし、絵美は、考え込む様子をしながらも、首を傾げた。

「市振誠? うーん、誰だっけ?」


「えっ、マジで。覚えてないの?」


 さすがに驚いた夢葉だったが、勝負事というのは、意外と負けた方はいつまでも、しつこく覚えているのに対して、勝った方はあまり覚えてなかったりもするものかもしれない、とも思った。


 絵美は笑いながら、照れ臭そうに口を開いた。

「あははは。だってあの頃、私、しょっちゅう勝負を挑まれてたから。いちいち顔と名前なんて覚えてないのよ」


「お母さん……」

 呆れながら夢葉は、母を見つめる。


 このお茶目な母が、昔はバリバリのレーシングスーツを着て、峠で何人もの男との勝負に勝って、たくさんの男を振ってきたとは。

 バイクに乗るのは、楽しいけど、こんな母みたいに自分もなってしまうんだろうか、と思うと、少し憂鬱な気がする夢葉だった。


(でも、私はあまり『速さ』は求めてないからなぁ)

 そう、こんな母のように、スピードとスリルを求めてバイクに乗っているというより、のんびり風景でも見ながら走る方が夢葉は好きだった。

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