30. 夢葉の逆襲
5月末になった。
夢葉はまだ自分の将来の方向性を決めかねていた。
そんな時、たまたま仕事帰りに会う機会があった翠に、喫茶店で自分の将来の方向性について聞いてみると。
「せやなあ。夢葉ちゃんは、コミュ力高いし、人当たりもええし、かわええから、営業とか販売とか向いてるんちゃう?」
堂々と、彼女の目を見て、翠は言ってくれたのだが、面と向かって「かわいい」と言われ、夢葉は照れ臭くなっていた。
「販売はともかく、営業ってキツそうなイメージあるんですよね。ノルマとかありそうですし」
「まあ、そうかもな」
「翠さんはどうです、仕事? 順調ですか?」
ところが、そう聞いてみると、翠の表情はあまり芳しいものではないようで、心なしか沈んだような表情を浮かべていた。
「まあ、何とかやっとるけど、社会人っちゅうのは、思ってたよりしんどいもんやで。ましてや、私は販売員やからな。いちいち難癖つけてくるアホな客も相手せなあかん。ストレス溜まるで」
珍しく真剣な表情で、翠は夢葉に諭すようにそう語っていたのが、夢葉には印象的だった。
(うーん。やっぱ販売かな。でも、どんな会社に入ればいいんだろう?)
何となくの方向性しか定まっていない夢葉は、まだ自分の将来像が見えていなかった。
そんな時だった。
怜からメッセージが来たのは。
「また、翔からメッセージが来たぞ。今度は夢葉。お前を指名してる」
「えっ。マジですか? そっか、きっと私が『翠さんの敵を討ちます』とか言ったからですね」
「ああ。しかも、今度は同じ条件で戦いたいから、ミニバイクのスプリントレースをやりたいらしい。場所は鈴鹿だ」
「鈴鹿? マジでか。ほんなら、私が案内したるで。多少は知っとる」
三重県出身の翠が、グループメッセージに入ってくる。
6月のとある土曜日。場所は三重県の鈴鹿サーキット。そこでミニバイクのスプリントレースをやるから、それに参加して、レースをしようとのことだった。
就職活動の悩みもあるが、息抜きには丁度いいし、何よりも自分が彼を煽った責任も感じていた夢葉は、渋々ながらも承知していた。
当日。
翠の先導で、三人は鈴鹿サーキットに向かう。
新東名高速道路、伊勢湾岸自動車道、そして東名阪自動車道と乗り継いで、向かった先は、鈴鹿インターチェンジ。
そこから降りて、少し走ると、巨大なサーキット場が見えてくる。
鈴鹿サーキット。
F1日本グランプリや鈴鹿8時間耐久ロードレースなどに使われる、多目的サーキット場で、国際レーシングコースを中心とした、一大レジャー施設にもなっている。
つまり、ここにはサーキットだけでなく、遊園地やホテルもあり、「モビリティリゾート」とも呼ばれる、自動車等を題材とした行楽地という位置づけになっている。
その駐車場に各々のバイクを停め、武隈翔に指定された、スプリントレース参加者受付に向かう。
今回のレースは、100cc限定のミニバイクレースだった。
翔が、夢葉と同じ条件で戦いたいと思ったためだった。
「よう、嬢ちゃん」
すでにレーシングスーツに身を包んでいる翔が現れる。
彼の傍らにはカワサキ 緑色のKSR110のバイクがあった。
「武隈さん。今日こそ翠さんの敵を討ちます」
意気込む夢葉に、翔は。
「ああ。ガチで来いよ。その方が倒し甲斐がある」
すでに勝った気でいる彼に、怜は冷たく言い放った。
「お前こそな。夢葉を甘く見てると、痛い目に遭うぞ」
「面白え。やれるもんならやってみろ。スズキのバイクじゃねえってのが残念だが、俺の実力を見せてやる」
挑発的なやり取りの応酬を始める二人を制するように、翠が口を挟む。
「今回のレースは、ミニバイクレースなんやろ。夢葉はNSF100で挑むらしいけど、ええか?」
すでに乗るバイクをエントリーしていた夢葉に代わって、彼女は翔に告げる。
「構わねえぜ。どうせ俺が勝つに決まってる」
そんな自信満々の翔を、夢葉は珍しく闘志むき出しの、力強い瞳で睨みつけていた。
(これ以上、この男を調子に乗らせるわけにはいかない。これで終わりにしてやる)
その後、レース開始までの間、夢葉は三重県出身で、コースに詳しい翠からレクチャーを受けることになった。
鈴鹿サーキットのレイアウトの説明から入る。
今回、このレースで行われるのは、国際レーシングコースで、2輪の場合は、全長が5.821キロ。日本のサーキットの中では最長のコースだった。
コース幅は10~16メートル。コーナー数は20。最大高低差は52メートル。
ちなみに、二輪のコースレコードは、2019年にホンダ CB1000RRに乗ったレーサーが記録した2分3秒874と言われている。
もちろん、ミニバイクレースでそんなコースレコードが出るはずもなく、おおむね3分台前半がいいところだった。
最初に800メートルのメインストレートがあり、1コーナーに向けて下り勾配になっている。
1コーナー、2コーナーはストレートから続く2連続コーナーで1コーナーが100R、2コーナーが60Rになっている。
続いてS字、逆バンクコーナーがあるが、ここは左・右・左・右と続く中速コーナーが連続する。
リズミカルかつ正確に操作を行うことが求められ、「S字を制する者が鈴鹿を制す」とも言われている。
ダンロップコーナー。
大きな横Gがかかる、左の高速ロングコーナー。コーナー中最もきつい7.8%の上り勾配がある。かつてコース上空にダンロップのタイヤの形をした看板が架かっていたことからそう呼ばれ、タイヤのブリッジはなくなったが、現在もダンロップの広告は出ている。
デグナーカーブ。
短い直線を挟んだ2連続の角張った右コーナー。かつてレース中に転倒したドイツ人レーサー、エルンスト・デグナーの名がつけられている。
110Rとヘアピンカーブ。
上り坂の右110Rから急減速して、コース中最もスピードが落ちる左ヘアピンを回り込むコーナー。またの名を「NISSINブレーキヘアピン」とも呼ぶ。
ヘアピンとは、その名の通り、長いU字型のヘアピンのように鋭く折れ曲がっているコーナーを指す。
200Rと250R。下りの緩やかな右カーブが続く。元ホンダ社員でRSC契約選手の松永喬(愛称:マッチャン)が死亡事故を起こした場所で、通称「マッチャンコーナー」とも呼ばれる。最も、ここは4輪レースでしか使われない。
2輪専用の200Rシケイン。
2輪レースでは、200Rの内側に設置された200Rシケインを使用する。
ちなみに、シケインとは、モータースポーツ用語で、円弧の半径が小さく、鍵状の形、もしくはS字状の形状を持つコーナーのことを指す。
スプーンカーブ。
コース西端の折り返しとなる左複合コーナー。名称はコーナーの形がスプーンに似ていることに由来し、60Rから200Rまで5つのコーナーが含まれ、ライン取りの自由度が高い。
西ストレート。
コース最長の1200メートルのほぼ直線。立体交差を渡る手前でコース中、最高速を記録することが多い。
130R。
西ストレートからわずかに減速して飛び込む超高速コーナー。度胸試しの名物コーナーとも言われる。元々は130Rコーナーだったが、2003年の改修後は、340Rの複合コーナーになり、難易度は上がっている。
シケイン。
130Rからスピードに乗った状態で急減速する右・左のシケインコーナー。ブレーキング勝負の仕掛け所でもあり、かつてF1日本グランプリでアイルトン・セナやアラン・プロストの接触など、数々のドラマを生んでいる。
そして、最終コーナー。
メインストレートに向けて加速する緩い右コーナー。ダンロップコーナーとは逆に急な下り坂になる。
ようやく翠の長い説明を聞き終えた夢葉は、不安な気持ちになっていた。
(鈴鹿サーキットって、こんなに大変なんだ。大丈夫かな)
だが、翠は自分の敵を取ると言ってくれた、夢葉を精一杯応援してあげたい気持ちでいっぱいだった。
「夢葉ちゃん。慌てへんで、確実にコーナーを抜けることを考えるんや。抜き所はS字やシケインやからな」
「わかりました。がんばってみます」
だが、実際に鈴鹿サーキットは、世界屈指のテクニカルレースコースと呼ばれ、高い技術力が要求されると言われている。
コースの2/3はコーナリングに使われ、いかにコーナリングを上手くこなすかで勝敗は分かれる。
特にS字コーナーは世界から絶賛されるほどだと言われ、プロのレーサーの中でも鈴鹿を愛するレーサーが多いと言われている。
そして、いよいよ始まるレース。
20周で競われ、時間は約1時間30分ほど。
茂木の時よりも時間はかかるが、それだけにテクニックが高い方が勝つ確率は上がる。
夢葉がまたがるホンダ NSR100は乾燥重量が73.6キロ。空冷4サイクル単気筒で、最大出力が8.4PS、最大トルクが7.4M・n、5速のバイクだった。
一方で、翔がまたがるカワサキ KSR110は、乾燥重量が95キロ、空冷4サイクルの単気筒で、最大出力が8.6PS、最大トルクが8.6M・n、4速のバイクだった。
他の参加者と共にスターティンググリッドに並ぶ夢葉を、二人の先輩は緊張した面持ちで見つめる。
エキゾーストノートが高まり、サーキットに緊張が走るスタート前の一瞬。
そして、ついにレースがスタートした。
最初から翔は飛ばしていた。
彼もまた実は鈴鹿サーキットで走るのは初めてだったが、あらかじめ、鈴鹿サーキットのレイアウトを頭に叩き込み、勉強して、イメージトレーニングをしていた。
その差が最初から顕著に出てしまった。
翔は順調にトップを走り、S字からダンロップコーナー、デグナーカーブを抜け、立体交差からヘアピンカーブを難なく越えて、スプーンカーブから西ストレートに至る頃には、夢葉とはかなりの距離がついていた。
(マズい)
そう思いつつも、慎重に走る夢葉は、まずはコースの位置取りを確実にこなし、特にカーブのコース取りを頭に叩き込もうとしていた。
1周目が終わって、すでに翔のラップタイムは3分15秒前後。夢葉は3分30秒前後とかなりの差がついていた。
「あちゃー。やっぱ夢葉ちゃんがいきなり鈴鹿に挑むんは無理があったか」
翠は、大げさに頭を抱えるが、怜は、
「いや、そうでもない。あいつの速さは、単純な走りの速さというよりも、『修正力』にある」
と、妙に冷静な視線を送っていた。
その夢葉の「修正力」が徐々に発揮され始めたのは、3周目を終わった辺りからだった。
(だんだんわかってきたぞ。S字とデグナーとヘアピン、そしてスプーンカーブでラップタイムを縮められる!)
ほとんどレーサーの顔つきに変貌していた彼女。
冷静な判断力で、あっという間にこれらのテクニカルなコーナーの要点を掴んでいた。
元々、サーキットで走るには向いていない性格だと、彼女自身は思っていたが、彼女は長くバイクで走ることによって、自然とコーナーリングのコツを掴んでいた。それに加え、「コーナーリングが命」と語る翠にもテクニックを教えられ、それにさらに「峠のクイーン」と呼ばれた母の血を受け継いでいた。
確かに翔は速かった。
正確なコース取りによって、ラップタイムを伸ばし、ストレートで一気に引き離す。だが、彼にも欠点があった。
それは「自信がありすぎる」ことだった。
自分よりも速い奴はそうはいない。ましてや素人に負けるはずがない。という自尊心が強すぎた。
やがて、半分の10周を終える頃。
夢葉のラップタイムは、翔とほぼ同じ3分15秒にまで縮まっていた。
しかもその時の翔のラップタイムは3分20秒と、最初に比べ少し落ちていた。
「お、迫ってきたで、夢葉ちゃん。すごいな」
翠が感心する中、怜は、
「やっぱりな。あいつには天性のコーナーリングの才能がある。何しろ、『峠のクイーン』の娘だからな」
と自分のことのように嬉しそうに微笑んでいた。
「『峠のクイーン』? 何やそれ?」
「知らないならいい。彼女の母親のことさ」
15周目。
残り5周になって、ようやく夢葉は翔に追いつき始めた。
S字コーナーで翔にほぼ並ぶが、追い越すには至らず。
しかし、続くデグナーカーブで一気にアウト側から勝負に出ていた。
クロスラインを狙い、コーナー出口の立ち上がりで、一気に追い抜く夢葉。
「何っ!」
意外な展開にむしろ翔の頭はパニックに陥る。
続くヘアピンカーブ、2輪シケイン、スプーンカーブでも夢葉を抜けなかった翔だったが、長い西ストレートから続く130Rから急減速する、最終コーナー手前のシケインで勝負に出ていた。
「やるなぁ」
イン側からあっさりと抜き返される夢葉。
だが、彼女は冷静で、むしろ焦っていたのは、翔の方だった。
「この俺がこんなド素人に抜かされるとは」
この焦りは、冷静な判断力を失わせる。
本人は、焦っていないとは思っていても、その内面から来る焦りが、冷静な判断力を徐々に削ぎ落し、翔のラップタイムは徐々にだが落ちてきていた。
残り3周、2周。それでも翔がわずかながら先頭を走っていた。
残り1周。
夢葉は勝負に出た。
1、2コーナー後の連続する70RのS字コーナーで一気に翔を追い抜き、ダンロップコーナーに入る。
ところが、デグナーカーブで再び翔に抜かされる。
ヘアピンカーブで再度抜き返そうとするも失敗し、2輪シケイン、スプーンカーブでも抜き返せない夢葉。
西ストレートでは最高速度を叩き出す両者。まさに一進一退の攻防だった。
その熱い攻防戦を観客席で眺めながら、翠は、
(夢葉ちゃん。がんばってくれ)
と祈るような気持ちで願っていた。
怜は、
(最終コーナー前に仕掛ける気だな)
すでに夢葉の心中を予想していた。
そして、その通りになり、西ストレートから続く130Rをほぼ減速せずに突っ込む夢葉。恐怖心もあって、わずかながら減速していた翔に追いついていた。
まさにここで両者の「度胸」が試されていた。
そして、最終コーナー前のシケイン。
両者のブレーキング勝負になった。
わずかながら翔の方が減速していた。そのわずかな隙間を夢葉は見逃さなかった。
(このスピードで行ける!)
ブレーキングをしつつも、タイミングを見計らって、膝をすりながらもギリギリの態勢で一気にイン側から強引に切り込んで行った。
イン側から切り込むと、通常なら立ち上がり後に不利になるのだが、実は夢葉は翔の後ろにぴったりとくっついている時に、彼の苦手なコーナーを掴んでいた。
それがこのシケインコーナーだったからだ。
立ち上がりにわずかに時間がかかる翔の癖を見抜いた夢葉は、クロスラインを狙い、立ち上がりでも翔に抜かせなかった。
(何だと!)
そんなことを読まれているとは思ってもいなかった翔が焦るも、残るは最終コーナーとメインストレートだけだった。
そのまま夢葉が先頭でゴールイン。ラップタイムはその日最速の3分12秒だった。
歓声に包まれる場内。
怜と翠が夢葉に近づく。
「やったやないか、夢葉ちゃん。すごいな!」
飛びつかんばかりの勢いで、彼女に迫り、思わず抱き着いていた翠。
「翠さん。恥ずかしいですよ」
照れながらも、満更でもない笑顔を浮かべる夢葉。
「さすが『峠のクイーン』の娘だな。これも血か」
怜は、最初から夢葉は潜在的に速いと見抜いていたが、彼女の予想の上を行く夢葉の活躍に目を見張っていた。
そして。
「くっそー。何でこんな嬢ちゃんに負けるんだ」
ヘルメットを脱いで、いかにも悔しそうな表情を浮かべ、天を仰ぐ翔。
夢葉は彼に近づき、一言、
「そういう態度ですよ、武隈さん」
と言い放っていた。
「何だと?」
「あなたは確かに速い。でも、レースに必要なのは、冷静な判断力と、的確な情報分析、そして大胆な仕掛けなんです。あなたは自分に自信がありすぎるから、そこが欠けているんです」
そう言われた、翔はぐうの音も出ないほどに、落ち込んでいた。
怜はそんな夢葉を眺めながら、自分の判断力、予想は間違っていなかったと再認識していた。
(こういうことを言えるのが、『峠のクイーン』の娘らしいな。粗削りだが、こいつは成長したら、もっと速くなるかもしれん)
自分と比べても遜色がないくらいに速いと感じて、彼女が空恐ろしい気すらしていた。
こうして、二人の勝負はようやく決着がついた。
そして、これ以降、武隈翔が彼女たちに勝負を挑むことはなくなった。
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