47. 怜の帰省

 市振怜は、父のことが嫌いではなかった。

 それは、少なくとも「母」よりはまともに見えることが原因だった。と、いうよりも父には「女運」がなかった。


 10月の、とある土日。サービス業の彼女には珍しく、土日共に休みだった怜は自宅でのんびりしようと決めていたが。


「怜。おじいちゃんとおばあちゃんのところに行ってくれ」

 リビングで朝食を食べていると、いきなり父にそう言われて、驚いていた。


「はあ? おじいちゃんとおばあちゃんの家って、確か群馬県だよな?」

「ああ、群馬県桐生きりゅう市だ」


「なんでまた?」

 怪訝けげんな表情を浮かべて、コーヒーを飲みながら、父の顔を睨むように見ている娘に対し、その不愛想な父は、


「これを届けて欲しい」

 と、狭山さやま茶の袋を差し出すのだった。

 狭山茶。怜たちが住んでいる、埼玉県西部や東京都西多摩地域を中心に生産されている日本茶であり、入間いるま市が全体の6割程度の生産量、次いで所沢市、狭山市と続く。


 その歴史は古く、鎌倉時代にまで遡ることができ、静岡茶、宇治茶と並んで「日本三大銘茶」と言われている。


 その特徴は、寒冷な気候で育つため、茶の葉が厚くなり、濃厚な香味とコクを有すると言われている。


「そんなの宅急便で送ればいいだろ?」

 至極まっとうな返事を返す娘の怜に対し、しかし父は、何かを悟ったような笑みを浮かべていた。


「いいから、お前が持っていけ。その方が二人とも喜ぶ。どうせ暇だろ。ツーリングだと思って行ってこい。そのまま泊まってから帰ってくればいい」

 父の有無を言わせないような口調が、怜には珍しいと思ったが。


 同時に、久しぶりに祖父母に会える口実が出来た、とも思っていた。


「仕方ないな。わかったよ」

 狭山茶を受け取った怜は、早速準備をする。


 準備をしながら、彼女は思い出していた。

(そういえば、最後に行ったのは大学入学くらいの頃か)


 大学の入学祝いを、祖父からもらったことを思い出していた。かなり久しぶりの祖父母との再会となる。

 そして、ある意味でのそれは「帰省」だった。


 早速、リュックに着替えや洗面用具、狭山茶を入れ、彼女は愛車のヤマハ TZR250 3MAにまたがって、キックしてエンジンをかける。


 その走り去るエンジン音を聞いて、父の市振誠はほくそ笑んでいた。


 高速道路経由で、群馬県桐生市を目指す怜だったが、彼女の脳裏には、過去の様々な出来事が浮かんでいた。


 それは、忘れられない過去の「忌々いまいましい記憶」と「穏やかな記憶」の両方だった。



 市振誠は、最初、若菜わかなという女性と結婚した。それが怜を産んだ母親だった。

 ところが、この「若菜」がとんでもなかった。


 結婚してしばらくしてからはまともだったが、怜がある程度、成長した小学生高学年くらいから、浮気を始めた。というよりも、元々、年齢が誠よりもかなり若かったこともあり、「男あさり」を始め、多感な時期だった娘の怜は完全に放って置かれることになった。


 ついに、浮気が発覚し、父の誠が怒って、離婚を言い渡したのが怜が中学1年生の頃。


 次いで、中学3年生の頃。誠は再婚した。それが現在の「母」である「美鈴みすず」という名の女だったが。


 これもまた「異常」なのだった。

 自分が元・ホステスだったための変なプライドか、自分には似ていない娘の怜には冷たく当たるのだった。

 おまけに、美鈴も若菜と同様に、夜遊びをしたり、女友達と出かけたりということが多く、家事を顧みなかったため、家事一切は父の誠が行い、怜も自然と手伝うことになった。


 そんなことがあったためか、彼女はいつの間にか家事も、料理全般も出来るようになっていた。


 誠は、美鈴に浮気の証拠がないことや、多感な時期の怜の心境も考えてのことか、離婚こそしなかったが、怜は内心では「離婚すればいい」と思っていたほど、彼女の心は「美鈴」からは離れていた。


 怜にとっては、多感な中学生から高校生のその頃。

 この再婚した母に関するストレスもあってか、怜もまた夜遊びをするようになり、ガラの悪い連中と付き合い、酒もタバコも覚え、バイクの免許を取って、バイクにも乗り始めていた。

 一言で言えばその頃の怜は「心が荒れて」いた。


 そんな時。

 いつでもどんな時でも、優しかったのが、父の両親、群馬県桐生市に住んでいる祖父母だった。

 母方の両親は、どちらも冷たく、そもそも交流自体がほとんどなかったが、父に連れられてたまに訪れた群馬県で、彼女は「心が癒される」思いを体験した。


 学校の夏休みなど、長期の休みには、毎年のように桐生市に行っており、そのまま夏休み期間のほとんどを過ごすこともあり、その間に群馬県内をツーリングしたりしており、いつの間にかすっかり群馬県の地理に詳しくなっていた。


 父の誠にとっては「故郷」の桐生市が、怜にとっても「第二の故郷」になっていた。


 祖父母にとって怜は、何の「掛け値」なしに可愛いと思える、血を受け継いだ「孫」だったのだ。


(それにしても、オヤジは女運がなさすぎる……)

 圏央道から、関越自動車道に入りながら、バイクを飛ばす怜はそう思って、苦笑していた。


 怜自体が、どちらかというと「男」を嫌う傾向にあったが、その原因を作ったのは、あまりにも不甲斐なく、男関係にだらしない二人の「母」の影響だった。


 だが、父のような「不器用」な男を小さい頃から見てきたからか、世間一般で言うところの、いわゆるチャラい男には興味がなかったし、同時に女運がない父に同情し、せめて自分だけは父の味方でいよう、という気持ちを怜は常々持っていた。


 やがて、高崎ジャンクションから北関東自動車道に入り、太田藪塚おおたやぶづかインターチェンジで降りる。


 この辺りからは、特に父に連れられたり、自分自身が高校時代にバイクで走ったりしたので、

(懐かしいな、この風景)

 と彼女自身が思っていた。


 俗に「上州のからっ風」とも呼ばれる「赤城颪あかぎおろし」の北風は、10月のこの時期にはまだ吹いていなかったが、遠くには赤城山の高い峰が見え、埼玉県とも東京都とも違う、桐生市の、少しレトロで昭和の風情が漂うような街並みが、彼女には心地よかった。


 群馬県桐生市は、人口が約11万人の小さな街。同県の前橋市や高崎市のような都会と比べると、小振りなこの街は、群馬県民の間では有名な上毛じょうもうかるたで、「桐生は日本のはたどころ」と読まれるように、古くから絹織物の産地として知られている。


 やがて、懐かしい渡良瀬わたらせ川を越えると、桐生市の中心街に入るが、怜は両毛りょうもう線の線路を渡り、桐生川に沿うように県道66号を真っすぐに山の方に向かって走っていく。


 梅田うめだ町と呼ばれる地域に入り、県道から一本外れた脇道に入って、一軒の古い瓦屋根の家の前でバイクを停めた。


 表札には、父や自分と同じ姓の「市振」と書いてある。所詮は、他の家から嫁いで入ってきて、元は姓が違う二人の「母」と違う、この姓に怜は誇りと愛着を持っていた。


 付近からは、懐かしい肥料の匂いが漂っており、山間の小さな集落のこの辺りには、都会にはない静寂さが辺りを覆い、空は高い建物がないため、広く感じられる。

 例の祖父母は、ここで農業を営んでいた。


 久しぶりのためか、緊張した面持ちでインターホンを押すと。

「はいはい」


 中から直接、人が出てくる気配があった。

 扉を開けて出てきたのは、皺が多く、腰が曲がった老婆だった。懐かしさで胸がいっぱいになる怜。


「おばあちゃん、久しぶり」


 同時に、祖母の顔が、夏の太陽のように一気に明るい色に変わった。

「まあまあ、怜ちゃんじゃないの! いきなりどうしたの?」


 その口ぶりから、父からは何も連絡が行ってないことを知る怜だったが。

「いや、実はオヤジから頼まれて、土産を届けに来たんだ」

 そう言って、狭山茶を差し出す。


「わざわざありがとう。ほら、上がって上がって」

 彼女の祖母は、明るい声でそう言って、奥にいる夫の名前を呼んだ。


 居間に向かいながらも、しかし怜は。

(おばあちゃん。元気そうだけど、年取ったな)

 そう実感せずにはいられなかった。

 中学生や高校生の頃によくお世話になってから、数年。怜は自分よりも年を取るのが早いのではないか、と感じるほどだった。実際、彼女の祖母は85歳に近かった。


 居間は、和室が多いこの家には珍しい、洋風のリビングになっている。

「おお、怜ちゃん。久しぶり。元気だったかい?」

 今度は、白い頭がだいぶ後退した、祖父が出迎えてくれたのだが、祖母に比べると祖父の方がまだ少し元気そうに見える怜であった。祖父の方が祖母よりも若いが、それでも80歳前後であった。


 そんな中、親切な祖母は、疲れた様子も見せずに、怜が持ってきた狭山茶を淹れて、ついでに煎餅を持って、彼女に差し出した。


「いきなり怜ちゃんが来るなんて、ビックリしたよ」

 と、祖母は明るい声でそう言って、怜と机を挟んだ向かい側のソファに座り、祖父もまたその隣で微笑んでいた。


「いや。実はいきなりオヤジに言われてさ」


「誠か。相変わらずだな、あいつも」

 祖父がそう言っては、おかしそうに笑っている。


 そこには、笑顔が満ちていた。少なくとも、「母」が向けるような「冷たい」視線はなかった。

 そのことが心地よく思ったのか、怜の表情は自然と明るくなっていたが。


「怜ちゃん。何かいいことでもあった? 前より明るい顔になったんじゃない?」

 不意に、祖母にそう言われ、怜自身が驚いた。


(私が明るい顔? この私が?)

 同時に、思い浮かんだのは、夢葉の顔だった。


 彼女に出会ってから、早くも3年あまりが経過していたが、その間、怜自身が不思議と彼女のことを放っておけなくなっていた。彼女の持つ純真さ、屈託のない笑顔、そして時折見せる可愛らしい姿や、芯にある優しい心。


 怜自身が思っているよりも強く、彼女は怜に影響をもたらしていた。人は、付き合った人から知らず知らずのうちに影響を受ける。

 それが彼女の表情に現れており、祖母は敏感にそのことを感じ取っていた。それは相手をよく見ていないと気づけない変化だったが。


「そうかな。そんなことないと思うけど。でも、そう見えるなら、きっと友達のお陰かな」

 少し照れ臭い気がして、怜は否定しながらも、夢葉のことを考えていた。


「ううん。明るくなったよ。きっといい友達に恵まれたんだね」

 祖母は、そう言って微笑み、


「そういえば、就職決まったんだってな。おめでとう」

 一方で祖父は、怜の就職に対して、祝いの言葉を述べていた。


 その日の夜は、怜にとっては久しぶりに心から笑えて、心から落ち着けるような穏やかな時間を過ごすことができた。


 祖母が作る料理に舌鼓したつづみを打ち、祖父が出してくれた、群馬県の地酒であり、ほのかな甘みがある「水芭蕉みずばしょう」を飲んで、何とも言えない幸せな時間を過ごし、風呂に入って、暖かい布団で眠りに就いた。



 ところが翌日。

 そんな穏やかな時間を、打ち破る「事件」が起こる。


 昼頃だった。

 昼食後、畑から戻ってきた祖母の顔色が悪いと感じた怜が、心配そうに祖母の顔を覗き込んでいると。


「うっ」

 突然、居間で祖母が胸を押さえて苦しみだしたのだ。


「おじいちゃん!」

 慌てて、自分の部屋にいた祖父を呼ぶと。


 祖父はすぐに台所から、薬を持ってきて、水と一緒に祖母に飲ませていた。


「おじいちゃん。おばあちゃんは、どこか悪いのか?」

「心臓だ。たまに発作になる」


 そんなことを知らなかった怜が、驚いて様子を見ていると。

 だが、しばらくしても祖母の様子が変わらない。それどころか、先程よりも苦しそうに胸を押さえ、さらに顔色が青くなってきており、呼吸も荒くなっているように感じた。


 これは緊急を要する、と思った怜に対し、祖父は電話を手に取り、病院にかけようとしていたが。

「おじいちゃん。ここから病院までどれくらいかかる?」

 と、その前に聞いていた。


「ああ。車で15分くらいかな」

「救急車を呼ぶより、直接運んだ方が速い!」


 咄嗟に判断した怜は、祖母を連れて、そのままバイクまで走った。

「怜ちゃん。どうするつもり?」

 慌てて追ってきた祖父に、怜は、ヘルメットをかぶり、予備に積んでいるジェットヘルメットを祖母にかぶらせ、


「私が直接バイクで連れていく。私なら10分で行ける!」

 と、早くも祖母をバイクの後ろに乗せていた。


 さらに、苦しんで、力も入らないと思ったためか、祖父に荷物を縛るのに使うロープを用意させて、自分の腰と祖母の腰をロープで巻き付けると、


「おばあちゃん。苦しいだろうけど、捕まってて!」

 と、叫ぶと同時に猛烈な勢いでバイクを走らせていた。

 祖父は、後からタクシーで追ってくるという。


 祖父から教えられた病院は、市内にある総合病院で、約8キロほどの距離。通常なら車で15分はかかる。


 だが、怜はバイクの機動性を生かして、どんどんスピードを上げて、車を追い抜き、あるいはすり抜けて行き、気がつけば、本当に10分で病院に着いていた。


 周りの奇異の視線など気にならなかった。


 慌ててロープをほどき、「救急専用」と書かれた出入口に入って、看護師に、

「お願いします、急患です!」

 と、切羽詰まった声を上げていた。幸い、祖母は弱いながらも、きちんと息をしていた。


 看護師によって、慌ただしくストレッチャーに乗せられ、祖母は奥に運ばれて行った。


 ようやく胸を撫で下ろした彼女は、一般病棟にある待合室に向かい、椅子に座って、天を仰ぐ。


(おばあちゃん。どうか無事で)

 心の底から、祖母の無事を願って、祈るような気持ちだった。


 やがて、祖父がタクシーで病院に駆けつけて、怜の姿を見つけると。

「怜ちゃん!」

 慌てた様子で駆け寄ってきた。


「おじいちゃん。とりあえず無事に届けたよ」

 安心したのか、怜が弱々しくも見える笑顔を向けると、


「ありがとう。助かったよ」

 祖父は、安堵の表情を浮かべていたが。


「いつから心臓を?」

 それが怜にとっては、気になることだった。


「ここ一、二年くらいかな。あいつは元々、心臓がそんなに強くない。心筋梗塞しんきんこうそくかもしれないな」

「心筋梗塞。それは怖いな」


「ああ。だが、年を取るとどうもな。俺だって、いつかかるかわからない」

「……」


 怜には、返せる言葉がなかった。

 心筋梗塞は恐ろしい病気で、突然死を招く、という程度の知識しかなかったからだ。

 この病気の原因は様々で、動脈硬化が直接的な原因だが、そこに至るまでにはストレス、喫煙、運動不足、肥満、そして加齢などもその動脈硬化の危険因子と言われている。


 一般に、心筋が酸素不足になって、壊死を起こしてしまうと言われ、胸をえぐられるような強烈な痛みが生じ、それが20分以上継続すると、この病が疑われる。


 祖父と共に、祈るような気持ちで、生きた心地がしないまま、待つこと1時間近く。


 ようやく、担当の医師と見られる中年の男性が急患口から現れ、

「ご家族の方はいらっしゃいますか?」

 と呼ばれる。


 まずは。

「無事なんですか、おばあちゃん!」

 怜が、まるで噛みつくような勢いで、医師に迫ったため、彼は面食らった顔をしていたが。


「落ち着いて下さい。大丈夫です。処置が早かったので、無事です」

 それを聞いて、二人はようやく、安堵の溜め息を漏らす。


 祖母に会う前に、詳しい話を医師から聞くことになった。医師が、心電図を見せながら説明する。

「残念ながら、心筋梗塞ですね」


 その一言に、怜以上に祖父は衝撃を受けているようだった。

 医師の説明によると、心電図に心筋梗塞特有の波形が見られるという。通常の波形とは違い、心筋梗塞特有の「異常Q波」、「STの上昇」、「冠性T波」が見られるのが特徴だという。


 そうは言われても、素人の彼らには、何が何だかわからないのだが、とにかく治療には、足や腕などの血管からカテーテルという管を差し込んで、冠動脈を治療するか、緊急の場合は冠動脈バイパス手術を行うという。


 ただ、心筋梗塞では発症から6時間以内というのが「鍵」らしく、今回はそこまでの急は要さない、とのことだった。


 ひとまず入院して、カテーテルによる治療を行うため、祖母は入院となったことを告げられた。


 もろもろの準備が整った頃には、夕方になっており、怜は祖母に、病室で対面することになった。


「ごめんねえ、怜ちゃん。せっかく来てくれたのに」

 ベッドの上で申し訳なさそうに謝る祖母を見て、怜は胸が痛む思いがした。泣きそうな顔で、


「何、言ってるの、おばあちゃん。無事で良かったよ」

 そう言った孫娘に対し、祖母はいつもと変わらない笑顔で、


「怜ちゃんのお陰だよ。やっぱりあなたは優しいだね」

 そう言って、ベッドから手を伸ばし、怜の手を握ってきたので、怜は自然と胸を打たれ、目頭が熱くなって、その頬を薄く涙の筋が伝っていた。


「おばあちゃん……」

「私にはわかってたよ。怜ちゃんは、いつもお母さんから冷たくされて、辛かっただろうに。それでも、本当の意味で人に迷惑をかけるようなことはしなかったじゃない」


「そうかな……」

「そうだよ」


「誠は頼りない男だけど、怜ちゃんが支えてくれたのは知ってる。不愛想な奴だけど、これからもよろしくな」

「うん……」

 今度は、祖父にもそう優しい声をかけられ、言葉にならないように、怜はただ静かに頷くだけだった。


 病室を去った後、未だに涙の跡を残すように、涙ぐんでいる孫を見て、祖父は笑顔に戻って、


「ほら、怜ちゃん。せっかくの美人が台無しだ。俺たちのことは心配しなくていいから、もう帰りな。明日も仕事だろ?」

 と声をかけ、怜の頭を撫でてていた。


 身長が170センチもあり、祖父よりも背が高い怜は、下から撫でられることに、不思議な違和感と、おかしさを感じたが。

「うん……」

 ただ、されるがまま、そう頷くだけだった。


 だが、このまま帰るのも、それはそれで寂しい。そうも思った彼女は。

「おじいちゃん。せっかくだから、ご飯食べてから帰るよ」

 ようやく泣き笑いのような顔を見せた。


「よし、それなら、とびきり美味い店に連れて行ってやる」

 祖父はそう言って、よく行くという焼肉店の場所を彼女に紹介した。


 今度は、バイクの後ろに祖父を乗せるが、さすがに気遣ってゆっくりと走って行く怜。

 市内中心部にある焼肉店で、豪勢な肉を鉄板で焼きながら、祖父は、

「俺もいつ死ぬかわからないからなあ。他人事ひとごとじゃない」

 と笑っていたが、


「そんなこと言わないで、おじいちゃん。おばあちゃんもだけど、二人には長生きして欲しい」

 そう呟き、潤んだような瞳を向ける彼女が、高齢の祖父の目から見ても、可愛いと思えるものだった。


「じゃあ、せめて怜ちゃんが結婚するまで長生きするか」

 と、祖父は笑いながら言っては、肉をつついて楽しそうに口に運んでいた。


「いや、私が結婚って。何年先の話?」

 逆に、戸惑いながら返していたのは、怜の方だった。

「ははは!」

 ようやく心からの笑顔を見せる祖父と、それに釣られて笑う怜。


 こうして群馬県での一件が終わり、短かった怜の「帰省」が終わる。


 家にバイクで送った後、最後に、祖父は、

「これ、お土産。誠と二人で飲みな」

 そう言って、昨日味わった地酒「水芭蕉」とは違い、封を切っていない状態の、真新しい群馬県の地酒「尾瀬の雪どけ」を瓶ごと手渡してくれるのだった。


「ありがとう」

「あまり飲みすぎるなよ」

「うん。じゃあ、おばあちゃんによろしく。また来るよ、おじいちゃん」


 別れを告げて、明日からまた続く、現実の辛い世界へと戻る怜。

 ここは、怜にとって、「第二の故郷」であり、「心が安らぐ」土地だった。


(また来よう。おばあちゃんの見舞いを兼ねて)

 怜は、すでに交通量が少なくなった、桐生市の小さな街並みの、小さな明かりを見ながら、心の中で決心していた。


 その胸に去来していたのは、恐らくは自分に「優しさ」のきっかけをくれた、年下の友達と言える女の子の顔だった。

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