44. 究極の対決

 その日、那古翠は苛立っていた。

 彼女が務めていたのは、いわゆるアパレルショップで、彼女はそこの店員だったが。


 偉そうな態度をする上に、毎回のように文句を言ってくる客がいて、しかもそういうのもお客様として相手にしないといけなかったからだ。


 その客のせいで、一日中イライラしていた彼女は、退勤後に自宅で少し休んだ後、ストレスを発散するように、愛車のカワサキ ニンジャZX-10Rに乗って、深夜の首都高へと繰り出していた。その日は、水曜日の夜で、サービス業で不定休の彼女は翌日が休みだった。


 これは、その過程で起こった出来事である。


 時刻は深夜23時を回っていた。


 首都高速4号線、永福パーキングエリア。


 かつて、翠が夢葉を誘って、ナイトツーリングの時に待ち合わせをした場所だった。

 そこで、彼女は思いも寄らない「再会」を果たす。


 それは、深紅のスポーツカー、トヨタ86がきっかけだった。

 元々人気のあった、トヨタ カローラレビン・スプリンタートレノのAE86型、通称「ハチロク」に倣って過給や専用ハイグリップタイヤに頼らない設計で開発され、「86」と命名されたスポーツカーだった。

 SUBARUと共同開発されたFRレイアウトのスポーツカーで、トヨタとしては、1960年代のスポーツ800(通称ヨタハチ)以来となる、水平対向エンジンを搭載していた。


 その86の脇に立つ男が、まるで睨むように、ZX-10Rから降りて、ヘルメットを脱いだ翠を見ていた。


 そして、彼はおもむろに近づいて声をかけてきた。

「お前。もしかして、那古翠か?」


「はあ。あんた誰や?」

 気が立っていたことにより、自然と怜のような、挑発的とも取れる答え方をしていた翠に対し、男は、


「俺だ。小松こまつだ」

 と名乗ったが。


「小松? 誰や?」

 じろじろと、無遠慮な視線を翠は向けていたが、やはり思い出せないのであった。


 小松と名乗った男は、年齢的には20代前半から後半くらいで、翠と変わらないと思われる。

 茶髪のぼさぼさ頭に、革ジャン姿、そして所々に穴が空いているダメージジーンズ姿。

 まさに翠が嫌いな「武隈翔」を思わせる男だった。


「覚えてねえのかよ。ほら、高校で同じクラスだったろ? 車好きの小松だ」


 そう言われて、ようやく翠の脳裏に、思い浮かぶ姿が、男と重なった。

 高校時代、すでに上京して一人暮らしをしていた彼女が通っていた高校の同級生にそんな奴がいた、と。高校生のくせにやたらと車好きで、将来はあの車に乗るんだ、と「捕らぬ狸の皮算用」をしていたように思う。


 ただ、そいつが本当にスポーツカーに乗っているとは予想外だったが。

「ああ、おったな、そんな奴」

 仕事のストレスでイライラしていた翠は、つまらなさそうに返していた。


「小松雅人まさとだ。ようやく思い出してくれたか」


「で、その小松が何の用や?」


 尚も、不機嫌な翠に、小松は挑発的とも取れる発言をしてくるのだった。

「お前がZX-10Rに乗っているとはな。ちょうどいい。俺の86と勝負してみないか?」

「勝負?」


「ああ。ここから大黒パーキングまでな」


 普段なら、こんな挑発には乗らないはずの、翠だったが、その時ばかりは違った。ムカつく客の顔が頭に浮かんでおり、何かでスカっとしたい気分だった。


「まあ、ええで」


 その言葉に、小松は勝ち誇ったように頷き、こう告げるのだった。

「よし。車の方がバイクより速いってところを見せてやるぜ」


「なんやと」

 その言葉に、翠もまたカチンと来たのか、普段は見せない怒気を発していた。

「その言葉、そのまま返してやるで」


 こうして、車とバイクによる、勝負が始まることになった。


 だが、ある意味で、これは「究極の対決」で、「永遠のテーマ」でもあった。

 つまり、昔から言われたことだが、「車乗りは車の方がバイクより速い」と言うし、「バイク乗りはバイクの方が車より速い」と言うからだ。


 しかも、期せずして、スペックは両者とも似通っていた。

 翠が乗っている、カワサキ ニンジャZX-10Rは、水冷の998cc、最高出力が203PS(馬力)、最高出力回転数は13500rpm。最大トルクは114N・mニュートン・メートル、最大トルク回転数は11200rpmと言われている。


 一方、小松が乗るトヨタ86は、彼が乗る2015年マニュアル車ベースで、水平対向4気筒の1998ccのエンジン、最高出力が200PS、最高出力回転数は7000rpm、最大トルクは205N・m、最大トルクは6400~6600rpmと言われている。


 つまり、トルクや回転数にこそ差はあるが、出力で言えば同程度にも見える。


 勝負は、永福パーキングエリアから、都心を通り、横浜市にある大黒パーキングエリアと決まった。


 その日の天候は、曇りだったが、雨が降る予報はなかった。


 翠は考えていた。

(バイクが一番速いのは、スタートから数百メートルの間。その間に、一気に引き離したる!)

 つまり、加速性能で言えば、バイクの方に「利」があると見ていた。


 事実、「バイクの方が速い」という論者の中では、この加速性能を理由に挙げる人が多い。


 実際、交差点などでも、信号が青になってから数百メートルまでの加速ではバイクの方が車よりも圧倒的に速いことが多い。


 一方で、車に乗る小松は、

(車の性能は、日々進化している。バイクごときに負けるか!)

 こちらも、ロングランで言えば、総合的には車の方がバイクに勝っていると信じて疑わなかったし、何よりも小松という男は、「車を愛していた」。


 永福パーキングを出てすぐのところにETCのゲートがあるため、そこをくぐった先で、2台はぴったりと鼻を合わせるように並んだ。


 まるで、競馬の出発を待つ、二頭の競走馬にも見える車とバイク。


 23時を過ぎ、すでに首都高は閑散としていた。


 そして、ついに運命のスタートが切られた。


 両者が奏でる、重低音のエキゾーストノートが響き、ついに発進する2台。


 予想通りというべきか、翠はマシン性能を最大限に生かすように、最初から一気に加速する。

 ZX-10Rは、理論上では、最高回転数まで上げれば、1速で156キロくらいまで引っ張れるほどのスペックを持つ。


 やや遅れて、後方からトヨタ 86が続く。


 トヨタ 86が奏でる音と、カワサキ ニンジャZX-10Rの奏でる音が、深夜の首都高にこだまする。


 ――ブォーーーーーン!


 ――クァーーーーーン!


 一方は低く唸るような排気音、一方は甲高い排気音が特徴的だった。


 永福パーキングエリアから、大黒パーキングエリアまでは、最短距離で約38キロ、時間にして通常なら30分程度だが。


 夜の摩天楼と無数のネオンサインが見える、西新宿ジャンクションから右折し、首都高速中央環状線に入ると、しばらくは山手トンネルというトンネル区間に入る。


 そのトンネル区間で、一気に後方から抜き去ろうとしていた小松だったが、抜くタイミングを逸してしまい、そのまま翠がしばらくはリードを保っていた。


 だが、その後ろからぴったりとマークするようについてくる小松が、翠には不気味に思えていた。


 実際のナビでは、首都高湾岸線の分岐線から羽田線に入り、神奈川1号横羽線に入った方が速いが、両者ともに選んだのは、道幅の広い、湾岸線だった。


 そして、この辺りには、実はオービスがない。

 両者ともにその情報を知っていたからこそ選んだ道だった。


 共に、6速ミッション、4気筒を装備している両者の本当の意味での、戦いはここからだった。


 小松のトヨタ86が一気に加速して、羽田空港を越えた、多摩川トンネルで翠のZX-10Rを追い抜いていた。

(こいつ、やるやないか)

 だが、翠もただでは譲らない。


 203PSを誇り、最高出力回転数が13500rpmにも達する、レーシング仕様のZX-10Rの底力を発揮するように、スピードをどんどん上げて行った。


 時速は、120キロ〜140キロ近くは出ていた。

 同様に、トヨタ86も同じくらいの速度域だった。

 両者の果てのないような戦いが、深夜の首都高で繰り広げられる中、運良く覆面も含め、警察車両に出会わなかったのが幸いした。


 やがて、再び、翠が追いつき、東扇島あたりで追い抜く。

(ちっ。意外と速え!)


 小松にとっては、計算外のZX-10Rのスペックと翠のライディング・テクニックに驚かされていた。


 それでも何とか食らいつき、扇島から鶴見つばさ橋に入る頃、再びわずかに追い抜く小松。


 残るは、大黒パーキングエリアへと続く、ストレートのみとなった。


 両者は、ここで限界に挑戦するように、互いにスピードをギリギリまで上げる。もはや何キロ出ているとか、風景を見ている余裕はなかった。


 やがて大黒パーキングエリアへ入る案内看板が見えてくるが、ここで小松は、わずかに減速していた。それは習性とも言えるもので、パーキングに入る分岐点で、あまりのスピードに恐怖心が湧き上がってきたからだった。


 だが、その隙を翠は見逃さなかった。

 分岐点の縁石ギリギリのラインを、ほとんど車にぶつかりそうな勢いで、強引に右側から抜いて行った。


(なんだと! この野郎!)

 まさかここで抜かれるとは思っていなかった小松。


(危なかったわ。せやけど、何とか抜けたで)

 一方で、翠にしてもこれは一種の「賭け」で、ぶつかる可能性すらもあったから、冷や冷やしていたが、ようやく胸を撫で下ろす。


 残りは、もうパーキングへの連絡線となっている細い道路だけだった。この狭路ではそもそも車でバイクを抜くのは困難だった。

 勝利は、翠の物になった。


 内心、納得がいってないのは、小松の方だった。


 急いで車を降りると、バイクを停めてヘルメットを脱いだ、翠に近づく。

 セミロングに近い翠の髪の毛が風に揺れる。

 この頃、翠は大学生時代のような、ショートカットではなく、セミロングに近いくらい髪を伸ばしていた。


 傍から見ると、少しオシャレにも見える、20代の女性に向かって、小松は、

「この野郎、あんな抜き方は卑怯だぞ。こんな勝負は無効だ!」

 とブチ切れていた。


 だが、この日の翠は、最高に「機嫌が悪かった」。


「なんやと、このボケ! 勝ちは勝ちや! 勝負に卑怯もクソもあるかいな」

 まるで、関西の、特に大阪の南方面あたりのヤンキーか、暴走族のレディースのように、思いきり吠えていた。


「ちっ。次は絶対勝つ」

 そう言って、足早にパーキングエリアのトイレに入っていく小松の背を見送りながら翠は、


「アホか。次なんかあるかいな」

 と毒づいていた。


 その様子を、一人見晴らしのいいペデストリアンデッキの2階部分から見ていた女がいた。怜だった。


 彼女は、ゆっくりと翠に近づいた。いつもとは違い、長い黒髪を後頭部の後ろ、というよりも背中に近い部分で束ねていた彼女は、おもむろに声をかける。


「何やってんだ、お前」

 振り向いた翠は、面食らった顔で、


「怜か。お前こそこないな時間に何やっとるん?」

 と聞いており、二人は建物前の喫煙所へと歩きながら会話をする。仕方がないので、怜の喫煙タイムに付き合うことになった翠。


 翠がレースを挑んだという話を聞いて、珍しく怜は、相好を崩していた。

「公道でのレースなんて嫌うお前がねえ。珍しいこともあるもんだな」


「私にだって、ストレスが溜まることがあるんや。ホンマ、ムカつく客やわ、あの野郎」

 いつになく、胸の中を吐露するかのように、毒づいている翠に、怜は少し楽しそうにも見える笑顔で、

「まあ、気持ちはわからなくはないがな。私もお前ほどじゃないが、ストレス溜まると、よくこうして深夜にツーリングしてるんだ」

 と反応していた。


 同時に、翠がこんなに「怒り」の感情を露わにするのは、高校時代以来ではないか、と過去を思い出していた。

 基本的には、温厚で人当たりもいい彼女にしては珍しい、と思っていた。


 すでに深夜0時を回っており、建物の中にあるフードコートや売店は営業を終了していたため、二人はパーキングの外れにある、24時間営業のコンビニへと向かった。


 歩きながら、会話は続いた。

「そういえば、夢葉の奴、まだ進路を決めてないらしいぞ」


「ホンマか。この大事な時期に何やっとるんや、あのは」


「さあな。けど、あいつには、私たちみたいな、普通の、ありふれた職業なんて似合わないかもな」


「せやけど、生きるためには、何かはせんとあかんやろ?」


 コンビニに着いて、二人はコーヒーを買って、近くのベンチに座る。時期的には6月の頭くらいで、それほど寒くもなかったし、まだ梅雨に入っていなかったため、天気も崩れていない、気持ちのいい夜だった。


 二人は、気がつけば、気になる後輩の話ばかりしているのだった。

「それはそうだがな。このまま行くと、あいつ就職浪人になるぞ」


「まあ、あの娘は、温厚そうに見えて、奔放なところもあるさかいな。意外と、『普通』の枠には収まりきらへんとも思うんやけど」


「それは私も思う。可愛い顔してる割には、彼氏ができないのもその辺りが原因かもな。いや、そもそも私があいつをバイクの世界に引き込んだからか」

 少し自虐的にも思えるセリフを吐く怜に、翠は、ようやく胸のつかえが取れたように、いつものような穏やかな表情に戻っていた。


「なんや、怜。こないだ九州に行った時に、夢葉ちゃんとなんかあったんかいな?」


 その一言に、怜はドキッと胸が高鳴るのを感じ、同時にあの時、咄嗟に夢葉に膝枕をしてしまったことを思い出して、顔を赤くしていた。


「お前。いつだったか私に『そっちのでもあるのか』って聞いとったけど、お前こそ、どうなんや?」

 翠に言われて、少し顔を赤らめたまま、怜は俯いていたが、


「お互い様だろ? 夢葉は、純粋でどこか放っておけないって言ったのはお前だろ?」


「そうやったな。まあ、私は兄貴しかおらんさかいな。ああいう妹が欲しかったのかもな」


「妹ねえ。どっちかというと、お前の夢葉を見る目は『母親』に近い気がするけどな」

 そう言って、いつになく楽しそうに笑い出す怜に対し、翠は顔を赤くしながら、


「なっ。私はまだそないな年やあらへんで。まだ若いんや!」

 と怒りを露わにしていた。


 なんだかんだ言っても、結局は、「夢葉」のことを心から心配している先輩たち二人であった。まるで夢葉の「みさお」を守るかのように、二人はいつでも彼女の心配をするようになっていた。


 その頃、肝心の夢葉は。

 将来のことを決めずに、就職活動もロクにせずに、自宅のベッドで呑気に眠っていた。

 だが、もうすぐ彼女は、己の人生を大きく左右する出来事に遭遇することになる。

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