34. 能登の里山(後編)

 禄剛崎灯台から道の駅狼煙に戻り、


「怜。次はどこへ行くんや?」

 翠が口を開く。


「そうだな。輪島の朝市、と言いたいところだけど、この時間じゃもう閉まってるな。そのまま私のオススメを回ることになるけど、いいか?」

 腕時計を確認しながら、怜は呟く。時刻は昼の12時を回っていた。


「いいですよ。途中で適当にご飯食べて行ければ」

 夢葉もうなずく。


 三人は出発する。

 ここからは速かった。


 天気は曇り空だが、雨は降っていなかった上に、平日なので、道は空いていて、交通量も少ないし、田舎ゆえに信号機も少ないからだ。


 やがて、県道から再び国道249号に入る。

 右側にずっと海を見ながら、ひたすら快適な道を走るこの辺り。別名「奥能登絶景海道」と呼ばれるように、海と山に挟まれた快走路だった。


 約40分後。怜は「道の駅 千枚田せんまいだポケットパーク」にたどり着き、駐車場に入って、バイクを停めた。


 そこから歩いてすぐのところに、その風景はあった。


 白米千枚田しろよねせんまいだ


 輪島市にある、棚田である。


「うわぁ! 何、これ。すごいですね」

 感動屋の夢葉が、その絶景を前に大きな声を上げていた。


 国道249号と日本海に挟まれた、わずかな崖に作られた、この棚田は世界農業遺産「能登の里山里海」の代表的棚田と言われ、「日本の原風景」とも呼ばれ、昔ながらの農法が今でも行われている。


 傾斜状の土地に築かれた、緑色の段々畑は、天気がいまいちのその日でも、十分に美しいと思えるくらい、濃い緑色と薄い緑色が際立つ、美しいグラデーションを地上に描いたような姿で、悠然と横たわっていた。


「なかなかの絶景やん」

 初めて見る風景に、翠も満足そうに微笑み、


「農業はいいものだ」

 怜は、夢葉には理解しがたい、謎のセリフを吐いていた。


 三人は、ここで休憩し、ついでに道の駅にあるレストランで昼食を食べてから再度出発。


 そこからは、国道249号をそのまま走ると思っていた夢葉の予想に反して、怜は、輪島の中心部から国道を外れると、人気のない、細い県道に入って行った。


 30分ほど、くねくねとした細い山道を走り、やがて、海と山に挟まれた、小さな漁港に降り立つと、怜はバイクを停めた。


 目の前には不思議な風景が広がっていた。


 集落の家の周りに、人の背丈よりも高い、家の軒先くらいまである、竹の垣根が覆っている。

 どの家も、その大きな竹の垣根にすっぽりと包まれており、古い瓦屋根の日本家屋と相まって、まるで異境に迷い込んだような感覚すら抱かせる。


 間垣まがきの里。


 そこは、そう呼ばれる土地だった。

 「間垣」とは、長さが約3メートルのニガ竹という細い竹を、びっしりと隙間なく並べて作った垣根のことを言う。


 これは、日本海から吹き付ける、冬の強風から家屋を守るために作られており、冬は暖かく、夏は陽射しを遮ってとても涼しいそうだ。


 この不思議な街並みは、厳しい自然と共存してきた、奥能登の先人たちの生活の知恵がもたらした、「技術」だった。


「なんか、すごい不思議なところですねえ。まるで日本じゃないみたい」

 夢葉は、その初めて見る不思議な光景に、目を奪われ、写真を撮るのも忘れて、ただただ食い入るように、見つめていた。


「ホンマやな。私もこないな風景、初めて見たで」

 翠もまた、その見たことも聞いたこともない、不思議な光景に見入っている。


「ここ大沢と、もう少し先に行ったところにある、上大沢にも同じような風景があるらしい。『間垣の里』って言ってな。これは……」

 と歩きながら、調べてきた知識を披露している怜。

 彼女は、なんだかんだで、知らない物事を調べることが好きな性質たちだった。

 ようやくそのことをわかってきた夢葉は、心の中で微笑を浮かべながらも、怜の説明を黙って聞いていた。



 間垣の里を歩いて写真に収めた後、怜は県道から国道に戻り、そのまま南下。

 40分ほどで着いた先は。


 琴ヶ浜ことがはま


 と呼ばれる海岸だった。


 その駐車場にバイクを停めた怜に従う二人だったが。


「怜さん。こんな何もない海岸に何かあるんですか?」


「せやな。見たところ、普通の海水浴場やろ」


 そんな二人に対し、海岸に向かう怜は。


「ここはな。『鳴き砂』って言われててな。砂浜を歩くと、音が鳴るらしい」

 とだけ答えていた。


「へえ。面白そうですね」

 目を輝かせる夢葉。


 実際に、砂浜に降りて歩いてみると、確かに「キュッキュッ」と小さな音が鳴る。こうした鳴き砂の海岸は全国にいくつか存在するという。


「確かに、音が鳴りますね。何だか不思議」


「せやけど、思ったより、大きく鳴らへんのやな」


 初めて体験する鳴き砂に、夢葉は感動を覚えていたようだったが、一方で翠は彼女の想像とは少し違ったようで、微妙に渋い表情を浮かべていた。

 人によって、その辺りの解釈は異なる。



 休憩後、「金沢を目指す」と言っていた怜だったが、出発してから15分ほどですぐにバイクを停めた。


 そこは「道の駅 とぎ海街道」と呼ばれる場所で、怜によれば、ここの海岸に面白い物があるのだ、という。


 ついて行く二人。


 そこにあったのは、海岸線を前に広がる、長いベンチだった。というよりも、長すぎる。海岸線を前にどこまでも続くベンチ。


 見ると、「世界一長いベンチ 全長460.9メートル」と書かれてあった。


「おもしろーい」

 夢葉は嬉しそうに微笑んでいたが、翠はやはり渋い表情を浮かべていた。


 そこからは、「のと里山海道」と呼ばれる無料の高速道路のような道を走り、夕方、彼女たちは再び海岸線にたどり着く。


 そこには、夢葉にとっては不思議な光景が広がっていた。


 どこまでも続く、砂浜の海岸線。なのだが、その上を車やバイクが盛んに走っていた。


 千里浜ちりはまなぎさドライブウェイ。


 そう。そこは日本で唯一、「砂浜を車やバイクで走れる」という有名な観光名所だった。


 その北側の入口、千里浜IC口から真っすぐ海岸線を約5.5キロ。南側の入口、今浜口まで行くのだが。


 途中で停まって、愛車と砂浜の写真を撮ろうと思った、夢葉だったが。

 サイドスタンドをかけて、バイクを降りた瞬間、サイドスタンドが砂に埋もれて、倒れそうになっていた。


「うわぁ。ヤバイヤバイ」

 必死でバイクを支える彼女。


「夢葉。ここじゃ、これを使うんだ」

 と怜は、助けもせずに、自分のバイクのサイドスタンドの下に、木の板を敷いて、写真を撮り、得意げに微笑んでいた。


「怜。助けたれよ」

 翠はそんな怜の様子を笑いながら見て、夢葉に手を貸していた。


 確かに、この砂浜の道はオンロードバイクには辛い部分がある。怜のようにあらかじめ、支えとなる木の板を持ってきて、サイドスタンドの下に敷かないと、すぐに砂浜に足を取られ、バイクは倒れる。


 それ以外にも、出入口になっている部分は、砂がわだちを作っており、それに足を取られて、転倒しそうにもなる。


 ただ、確かにここからの夕陽は見事なものだという。


 もっとも、曇り空のこの日、彼女たちはわずかに雲の隙間から覗く夕陽を見れたに過ぎなかったが。


 その後は、そのまま宿に向かう三人だった。


 金沢市中心部にある、一般的なビジネスホテルがその日の宿だった。

 運良く、バイクは車と違って、エントランス横のスペースに駐車できたし、駐車料金は無料だった。


 ただ、雨で濡れた衣服を洗濯し、乾燥させようと思っていた彼女たちだったが、あいにくここのコインランドリーは、他の宿泊客が既に使っており、近くのコインランドリーまで歩くことになった。


 三人でコインランドリーの狭い室内で携帯を見ながら、仕上がりを待つ時間。


「なんか、私たちって、毎回のようにツーリング先で洗濯してません?」

 夢葉が、溜め息混じりに呟く。


「せやな。言われてみれば、房総半島でも九州でもそうやったな」

 翠が携帯から顔を上げずに答える。


「まあ、夢葉が雨女だから仕方ない」


「もう、怜さん。しつこいですよー」

 そんな怜に笑いながら軽口を叩けるようになった夢葉。

 

 なんだかんだ言っても、彼女たちは成長していたし、三人の不思議な関係は深まっていたのだった。



 翌日、3日目。

 朝から雨だった。


 ホテルで朝食を取りながら、恨めしそうに空を見上げる夢葉。

「はあ。また雨か……」


「まあまあ、夢葉ちゃん。前向きにな。せや。せっかくやから、このまま兼六園と金沢城を見て行かへん? それなら、傘差してゆっくり歩けるやろ?」

 そんな彼女を気遣う翠。


「そうだな。雨でも楽しめる場所で言えば、ついでに近江町おうみちょう市場に行って、海鮮丼でも食うか?」

 怜は怜で、自分自身が雨の中で走るのが嫌いだったのもあって、色々と考えていた。


 その日の朝、とりあえず宿のチェックアウトの時間があるので、仕方なく雨の中、バイクを走らせた三人だったが、すぐに兼六園近くの無料駐輪場にバイクを停めて、傘を持って歩きだした。


 早速向かったのが、兼六園と金沢城公園だったが。


 夢葉はそれらの有名な風景を歩いてみながら、心の中で思っていた。

(確かにキレイだよ。いいところだよ。でもね……)


(有名すぎるんだよ。平日なのに、この観光客の群れ。団体バスの群れ。遊園地のアトラクションじゃないんだから。落ち着かない)


 彼女の目には、絶え間なく続く人の波、観光バスの群れ、そこから吐き出される無数の人、そして引っ切り無しに辺りを行き交うタクシーや車。


 つまりは、そういういかにも「観光地です」という雰囲気が落ち着かないのだった。


 長く色々なところを旅してきた彼女は「観光地です」と自己主張し、それに応じて全国から人が集まるところよりも、無名の里山の風景や、人もまばらな間垣の里のような不思議な風景、なんでもない畑、山、川、海。


 そういった物に心を動かされるのだった。

 それは言ってみれば「旅人」の心境だった。

 ツアーで行くようなのは「旅」ではなく「旅行」。夢葉はその二つに明確な違いを抱いていた。


 そして、そういう気持ちが、後ほどまで彼女の感性を磨くことになる。


 その後、金沢城公園の先にある近江町市場に向かう三人。


 近江町市場は、「金沢市民の台所」とも呼ばれる巨大な市場で、アーケードに覆われており、雨の中でも自由に見ることができる。


 大小約170の店が並び、新鮮な海鮮、地元産の野菜や果物などが並び、市民はもちろん、観光客の間でも人気がある場所だ。


 そんな中、彼女たちは店先を冷かしながら、アーケードに覆われた市場を歩き回る。


 ちょうど、昼頃になっていたので、怜がネットで調べた、美味しい海鮮料理の店に行くことにした三人。


 寿司屋のようにカウンターがあり、テーブルもある、その小さな店は、しかし平日にも関わらず繁盛していた。


 テーブルに座って、メニューを眺める夢葉。


 彼女の目を引いたのは、金箔に包まれた海鮮丼だった。


 それを注文し、待っていると。


「お待たせしました」

 ウェイターが持ってきた海鮮丼を見た夢葉が、面食らうくらいの量だった。


 上には文字通り「金箔」で飾られ、その下には「これでもか」というくらいの海鮮。

 ノドグロ炙り、カニ、ウニ、白子、トロ、イクラ、サーモンなどなど。そしてそのさらに下にようやくご飯が乗っている。


 彼女の想像以上に大きな海鮮丼だった。


「うっわ。デカいなあ。でも、美味しそう」

 恍惚とした目で、目の前の山盛りの海鮮丼を眺めて、写真を撮る夢葉。


「太るで」

 横から、意地悪く翠が声をかけていた。


「大丈夫です! その分、カロリー消費しますから」


「よく食うな」

 そんなやり取りを横目に、怜は、むしろ普通より小さい、ある意味で「女子」らしい小振りな海鮮丼を食べていた。


「怜さん。小食ですね」


「いや。ちゃうで。こいつは『食』より『タバコ』の方が大事なんや。値上げしとるんやから、ヤニやめればええのに」


「うるさい。黙って食え」


 二人のやり取りを見て、何だかおかしくて笑顔がこぼれてくる夢葉。ある意味、この二人と出会えたことが、彼女自身の幸運でもあり、人生を変えるきっかけになったのだ。


 食後、近江町市場のアーケードから出ると、雨は上がっていた。


 帰り道。

 

「行きと帰りは、違うルートで帰った方が面白い。あと、疲れてるから高速使うぞ」


 という怜の提案で、帰りは新潟県、長野県を高速道路で経由し、関越自動車道経由で帰ることになった。


 その途上、バイクを走らせながら、夢葉は考えていた。

 バイクというのは、究極的には「孤独」な乗り物だ。つまり、友達と行っても、走っている時は常に一人だ。


 だが、その「一人」ゆえに考える時間を与えてくれる。


 考えるのは、「将来」についてだった。

 バイクに乗り、旅を続け、これまで旅の魅力を感じてきた夢葉。


 漠然とだが、彼女は、


(旅に関わる仕事がしたい)


 そう思い始めていた。


(でも、旅に関わる仕事って何だろ? ツアーコンダクター? キャビンアテンダント? うーん。なんか違うな)


 まだ自分の将来の道について、明確な答えが出ない、悩みがちな夢葉。

 ただ、彼女は彼女で、「営業」や「販売」のような、ありふれた就職先は嫌だ。というよりもきっと続かない。


 たった一度の自分の人生だから、「好きなこと」を仕事にしたい。


 そう薄っすらっと考えていた。

 大学3年生の、彼女の「夏」はこうして終わった。


 卒業まで残り1年半。


 夢葉の「夢」はまだ「葉」をつけていなかった。

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