4-14 心情

 男、もとい蓮君は諦めたようにがくりとうつむいた。祐也はもう大丈夫だと判断したのか、手を放す。拘束のなくなった手で、蓮君はパーカーのフードを脱ぎ捨て、マスクも顎まで下し、ぽつりと呟いた。


「……何で」

「え?」

「何で分かったんですか?」


 何で。

 あたしは少し考えて、低い声で言った。


「……色、かな」

「色……」


 蓮君が虚ろに繰り返す。説明を要求しているようにも、もう納得しているようにも聞こえる言い方だった。蓮君はその一言から黙り込んでしまったので、間を繋ぐようにとりあえず簡潔に説明を口にしてみる。


 ヨーグルトオレとバニラシェイクが売られている場所と被害現場との距離。そこから、なぜ現場近くの自販機で買わなかったのかという疑問が浮かんだこと、その疑問から嫌がらせに使う飲料がヨーグルトオレとバニラシェイクでなければならなかった理由があるのではないかと考えたことをまず話した。


「その理由って何だろうって思った時に、被害を受けた子たちがみんな『目立つ染みができた』って言ってたのを思い出した。人によって掛けられたものが違うのに、みんな『目立つ染み』ができたって言ってるってことは、犯人は、意識的かどうかは分かんないけど、被害者の服の色に合わせて、一番目立つ染みができる色の飲み物を選んでたんじゃないかと思って」


 もし黒いベストの花村君がコーヒーを掛けられていたら、目立つ染みにはならない。反対に、薄緑のジャージの本多君、クリーム色のベストの須永君、白いワイシャツの桐原君がヨーグルトオレやバニラシェイクを掛けられていても、目立つ染みにはならない。服の色と飲料の色が正反対でなければ、目立つ染みにはならないのだ。だから、犯人は服の色と正反対の色の飲料を選んだのでは、という考え方に至った。


 蓮君は何も言わなかった。ただ、少しだけ目線が下がったので、図星だったのだと悟る。


「制服なら、ある程度は着てる服の予想ができる。山吹台の夏服は黒いベストだって分かってたから、前もってバニラシェイクを買っておいたんじゃないかって」


 本多君のジャージは予想しづらいかもしれないが、コーヒーは田代ゼミ近所でいくらでも買える。本多君の時は、本多君の服の色を見てから、買いに行ったのかもしれない。


「……でも、それだけで僕が犯人だとはならないんじゃないですか?」

 現行犯未遂を見られた以上、もう言い逃れはできないと分かっているだろうに、蓮君はちらりと視線を投げかけてくる。


「いいや、そうでもないよ。犯人はカナに掛ける飲み物として、事前にヨーグルトオレを買った。ってことは、カナの服がその反対の暗色系だって思ってたってことになる」

「そうなんじゃないんですか。ずっと紺色のパーカーを着てるって言ってたじゃないですか」

「うん、そうだよ。大学に行く時以外はね」


 ずっと平坦な調子だった蓮君が一度だけ大きく瞬きをした。


 カナは大学に行く時だけは、きちんとおしゃれをするのだ。紺色のパーカーを着ることはない。しかし、あの日は例外だった。


「あの日はいろんな偶然が重なって、たまたま着てただけなんだよ。

 カナが被害に遭ったのは、大学の帰りだった。本来、カナが何を着てるか分からないはずなんだよ。むしろカナが春用に持ってる上着は淡い色の者ばっかりだし。それなのに、前もって白い飲み物を買ってきたってことは、カナがずっと紺色のパーカーを着てるって勘違いしてる人が犯人ってことになる」


 正直この推理、否、推理とも言えないようなこの代物には穴しかない。

 本人に聞くわけにはいかなかったので、蓮君の通う高校がどこか分からなかったし、あたしの知らないところでカナと親しくしている山吹台高校の生徒がいた可能性も充分にある。飲料の件だって、服の色との関係は偶然だと言い切ることもできるし、前もってヨーグルトオレやバニラシェイクを買っていたのも、もとは自分で飲むためだったと言えば、充分通る。けれど、田代ゼミに通っている、カナの服装事情と水曜日の行動予定をあたしから聞いている、などの条件が被ってしまうと、蓮君としか思えなくなってきた。だから、LINEで「今度『BURN UP』好きのオタクの友達と会う約束をしている」とそれとなく伝え、実際におびき寄せることにしたのだ。そして、この試みは成功した。


「……最初は別にそんなつもりじゃなかったんです」

 ぽつり、と蓮君がこぼした。


「え?」

「最初は本当に偶然で。予備校の帰りに、歩きながらコーヒーを飲もうとしてたらつまずいて、前を歩いてた人の背中にぶちまけてしまって。

 最初はすぐ謝って、クリーニング代を出そうと思いました。でも、前を歩いてたのが本多だって分かって、『あ、謝りたくない』って思ってしまって。それで、ついその場から逃げ出しました」

「『謝りたくない』?」

「あいつ、僕のことを馬鹿にしてきたことがあるんです」


 そうして蓮君は事の顛末を話した。

 蓮君は幼少の頃から、女児向けアニメや漫画が好きだったのだという。小学生の頃、一人の同級生から「男のくせに」と酷くからかわれたことを機にずっと隠しながら生活してきたそうだ。


 別にそのことをどうこう思うことはなかったと言う。「まあ、そんなもんだろう」としか思わなかった、と。


 が、ある日、予備校で本多君と昼食を共にすることがあったという。本多君とは以前からの知り合いで、以前本多君と腐男子のLINEグループメンバーが隠れて話しているのを聞いてしまったことがあった蓮君は、本多君たちに密かにシンパシーすら感じていたのだとか。そのため、最初は普通に楽しく食事をしていたが、昼食を食べ終え、片づける際に、リュックの中に隠し持っていた魔法少女のステッキを模したストラップを見られてしまったそうだ。


「いつも通り、『親戚の子のものが紛れ込んでた』って誤魔化したら、『そうなんだ、急に出てきたからびっくりした』って。そこで会話を終えれば良かったんですけどね。あいつ、さらに続けて、『この年で女児向け好きな人が時々いるけど、普通にキモいよな』って。『平島がそういうタイプかと思ってビビったじゃん。そうじゃなくて良かった』って」


 聞いていると、喉がつまりそうだった。あの本多君がそんなことを言ったのか。


 蓮君は冷めた声で言った。

「別に言われて辛いとかは思わなかったです。気持ち悪いのは否定できないし、僕が本多の目の前で『実は女児向け作品好きなんだ』って言ったら、多分あんなこと言わなかっただろうし。まあ、本多は『腐男子は虐げられてる。おかしい!』って言う割に、そういうことを平気で言えるんだなって。被害者面だけして、自分は仲間作って、楽しんでるんだなって、ちょっと軽蔑しただけです」


 だから、お互いのためにも蓮君は本多君とは極力関わらないようにした。しかし、たまたま背中にコーヒーを掛けてしまい、こうなったのだという。


「そこで、やめようとは思わなかった、の?」

 聞いていいのか分からない質問を、ためらいがちに口にする。蓮君は自嘲気味な笑顔を浮かべた。


「完璧じゃなくなったから、もういいかなって。ストレスも溜まってたし、もうどうでもいいやって」


 それから蓮君が話してくれたことは、あたしの全く知らない話だった。

 蓮君の両親は、十四年前離婚している。両親ともに非常に優秀な人で、お互いの自分のやり方を曲げられなかったため、離婚したのだという。いわゆる性格の不一致というやつだ。


 蓮君の母親は、離婚した父親に「自分は間違えていなかった」と示すため、蓮君を女手一つで必死に育て、「あなたは完璧な良い子よ」と言い育ててきたのだという。蓮君はそのことを誇らしく感じ、常に完璧でいようと頑張った。


「プレッシャーを感じることもあったけど、アニメを見て、自分も頑張ろうと思えて、実際に頑張れました。なよなよしてると思われたくなくて、母親には隠れて観てましたけど」


 そうして、周囲の期待に応えることを目標としながら生きていた蓮君は、思いがけず本多君の事件を起こしてしまった。


「自負のあった『完璧』を手放してしまったように感じました」


 今まで目標としていたことが達成できないと感じてしまい、かといって、一度逃げ出した手前、本多君に謝ることもできなかった。また、高校三年生という年齢上、自分の今後の行き先を考えなければならない時期に差し掛かり、今まで周囲の期待に応えることを目標としていた蓮君は、自分のやりたいことが分からなくなったのだという。


「途端に全てが上手くいかない気分になって、今まで信頼していた母親にも恨みのような感情を持つようになりました。

 その行き場のないストレスをぶつけるために、他の本多の仲間にも嫌がらせを続けてました。もう既に一回やらかしてるなら、二回やっても三回やっても大して変わらないだろうと思って。罪悪感はあった、けど。でも、どうしようもできなかった」

「……カナを狙ったのは、どうして?」


 カナは別に本多君たちと知り合いではない。今までの話では説明がつかない。

 蓮君はぎりっと奥歯を鳴らした。


「優衣さんの前で能天気にも好きなものを楽しんでたからです」

「え……?」

 カナが青ざめた顔で零す。


「優衣さんも、ずっと雅秀さん――父親にプレッシャーを掛けられてたんですよ。ずっと見てたら分かります。小さい頃やってた野球も今はやってないですよね。雅秀さん本人から聞きました。そんな状況の優衣さんの前で能天気に」


 行き場のない苛立ちが、ぶつ切れで止まった言葉に見え隠れしていた。

 あたしは蓮君からシンパシーを持たれていたのか。その結果、写真の中で、堂々とアニメTシャツを着ていたカナに怒りが向いてしまった。あの五月の夜の時点で、カナは狙いを定められていたのだ。


「別にカナさんが悪いわけじゃないのは分かってます。でも」

 いろんな状況が重なって、感情がぐちゃぐちゃになってしまった蓮君は、苦しそうな顔をしていた。苛立ちと罪悪感という正反対の感情に飲み込まれて、身動きが取れなくなって、息ができなくなる。そうして、全てを放り投げる。ああ、覚えのある感情だ。


 誰も何も言わなかった。言えなかったのだろう。あたしも何を言えばいいのか分からない。何か言いたいけれど、下手に動くと、余計に傷つけてしまいそうだった。


 と思っていると、しゃがんでいるあたし達の横にカナがやって来た。蓮君の手を取る。

「え」

「ちょっと立ってみてくれませんか?」

 ぽかんと口を開けた蓮君が言われるがままに立ち上がると、カナは蓮君の横に並んだ。かと思うと、今度は腕を横に大きく広げ、空を仰ぎつつ、大きく息を吸い始めた。


「は? 何してんですか」

 蓮君が素っ頓狂な声を上げる。先ほどまで苦しそうに顔を歪めていたことはすっ飛んでしまったようだ。


「深呼吸です!」

「見たら分かりますよ。何でそんなことしてんのか訊いてんです」

「一緒にやりましょう! ほらほら」

「はあ?」


 蓮君は悪態をつきつつも、混乱が勝ったらしい。ぶすくれながらも、カナのペースに乗せられて深呼吸を始める。


 蓮君はこんな表情もする子だったのか。今まできっと自分を偽っていたのだろう。


 深呼吸をする二人を、残る三人は眺め続けた。数回深呼吸をした後、カナは「さて」と言う。

「蓮さん、でいいですか?」

「え、はい」

「全部話すの、しんどかったですよね。だから、まずは、はい、どうぞ。アレルギーとかはないですか?」

「は? え、あ」


 カナはショルダーバッグから牛乳飴を一つ取り出すと、蓮君の手に乗せた。

 戸惑いながらもそれを受け取った蓮君は、おずおずと包みを開き、口に入れる。


「……ありがとうございます」

「いえいえ」


 カナはぱたぱたと手を左右に振りつつ言ってから、蓮君の顔を覗き込んだ。

「えっと、その。差し出がましいかもしれないんですけど……私にできることは、ありますか?

 私、一応他の被害者の子たちと連絡を取ることはできます。話し合いの場を設けようと思えば、設けることはできます。私から話をそれとなく通すこともできます。本多君と、他のメンバーを分けて話し合いの場を設けることもできます。……この中に、何か良いなと思う案があったりしますか?」

「え、その」

「もし今考えるのが難しいなら、あとで連絡することもできます。……どうですか?」

「じゃ、じゃあ、あとで連絡を貰え、たら」


 そう言って、二人は連絡先の交換を始めた。その会話に取り残されたあたしたち三人は黙って見届けるしかなかった。


 連絡先を交換し終えたらしく、カナがスマホをショルダーバッグに戻す。そして、あっけらかんと言い放った。

「じゃあ、帰ろっか」

「え⁉」

 その場にいたカナ以外は全員声を上げていたと思う。何か展開を期待していたわけではないが、あまりにもあっさりとした幕引きだ。


 カナ以外の四人の中で一番動揺していたのは、蓮君だ。慌てた様子で、カナに噛みつく。


「僕に何か説教したりしないんですか? 怒ったりとか」


 カナは人差し指を顎に当てて、「んー」と軽く唸ると、

「そりゃあ、もやもやしてますよ。『関係ないのに巻き込まれたなー』とか、『私、優衣ちゃんに失礼なことしてたんだなー』とか感情は忙しいけど、直接的な被害はほとんどなかったから、クリーニング代とかも関係ないですし」


 そこで言葉を切ったカナは、「それに」と言葉を継ぎ、

「頑張って話したくないだろうことを話してくれた人相手に、垂れる価値のある説教はあいにく持ち合わせてないんです」

 えへへ、ときまり悪そうに笑った。


 そして、ふふふ、と企むような笑いを浮かべ、

「でも、もし罰をご所望なら、トキウマート限定の『アレブル』色紙のアーレちゃんバージョンを代わりに買ってきてほしいですね」

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