1-4 耳飾りと苦悩
yukiNoさんが木陰で白無垢からウインドブレーカーに着替えたその後、あたし達一行はyukiNoさんの家へと向かった。ウインドブレーカーの回収をしなければならないからだ。カナは歩きながら、なおもyukiNoさんに「銀雪」トークをぶつけ、ひたすらにyukiNoさんを困惑させていた。
そうして辿り着いたyukiNoさんの家は大学生向けらしい、ごく一般的なアパートだった。
「すみません、先に着替えてきます。殺風景な部屋ですけど、クッションぐらいはあるんで、どうぞ座っててください」
「いやいや、ウインドブレーカー回収したら、すぐ帰りますから」
そう言うと、yukiNoさんは、
「お茶ぐらい出させてください」
と、綺麗な二重の瞳を三日月のように細めて、綺麗にはにかんだ。自分で男だと暴いたが、女性にしか見えなかった。
洗面所へと向かったyukiNoさんを見送ったあたし達は、リビングの真ん中に置かれた四角い白のテーブルの前に座る。
部屋には、良い意味でも悪い意味でも何もなかった。あるのは、テーブルと折り畳み式ベッド、背の高い本棚。その本棚の中にも専門的な本ばかりが入っている。ベッドの下に白い段ボール箱がいくつか見えるが、何が入っているかまでは分からない。全体的に紺と白でまとめられた、インテリチックな部屋だった。
「ねえ、優衣ちゃん」
「ん?」
服の裾をちょいちょいと引っ張られた。カナを見ると、なぜかがたがたと震えている。
「え、何」
「今どんな気持ちでいればいいんだろう」
「は?」
「だってだって、yukiNoさんのお家だよ? ここでズィマー様が生み出されてるのかって思えば、じっくり目に焼き付けてから帰りたいけど、でも、でもでも、まじまじ見るのは失礼だよね⁉︎」
「……」
無視することにした。
それから十分ほど待っただろうか。扉が開く音がした。音の方に目をやり、思わず目を見開く。
リビングの入り口には、さっきまで白無垢を纏っていた人物とは、全くの別人が立っていた。
少し長めの癖のある黒髪、太い黒縁眼鏡、涼しげな一重の目。青いチェックのシャツにジーンズを履いている。
瞬く間に、yukiNoさんはどことなくインテリな雰囲気を漂わせる青年へと変貌を遂げていた。
「すみません、お待たせしました」
「あ、はあ」
何と言えば良いのか分からず、曖昧な返事をする。カナはと言えば、さっきまでの葛藤を忘れて、ただただ絶句していた。これはまた思考回路が故障したか。
そんなあたしたちを見ているのかいないのか、yukiNoさんは台所へと向かう。
「うち、コーヒーしかないんですけど、大丈夫ですか?」
「あたしは大丈夫です。砂糖もミルクも要りません。……あー、多分
「そうなんですね。紅茶とかあれば良かったんですけど」
少し無言の時間が流れる。キッチンからはインスタントコーヒーの蓋を開ける音や、お湯を沸かすヤカンの蓋がカタカタ鳴る音、蒸気が発生する音だけがまばらに聞こえていた。
まもなくコーヒーカップ一つと瓦煎餅の大袋を持ったyukiNoさんがやってくる。コーヒーカップをあたしの前に置きながら、申し訳なさそうに、
「すみません。茶菓子とかなくて」
ああ。だから煎餅か。
煎餅の袋をカナに寄せて置いたyukiNoさんは、あたしたちの向かい側に座ると、まず頭を下げた。
「本当にありがとうございました。助かりました」
「いえいえ」
それから思い出したように立ち上がると、窓の前に置かれた黒いリュックからカードを漁り、
「身分を証明するもの、すぐ出せるのが学生証ぐらいなんですけど」
机の上に一枚のプラスチックカードを置いた。
少し身を乗り出して見てみる。
そのカードはここからほど近い
「それにある通り、俺の本名は雪野隼介です」
yukiNoさん、もとい雪野さんがそう言い、カナに心配そうな視線を向けた。
「ところで、あの。さっきから高倉さん全然動かないんですけど、大丈夫ですか?」
「あー、もう全然大丈夫です。放置で構いません。……って、雪野さん、カナの苗字知ってるんですか?」
記憶に間違いがなければ、一度もカナの苗字は会話に出てこなかったはずだが。
「ああ、それなら」と雪野さんは答えた。
「前に、サブカルデーで一度だけ会ったことがあるんです。去年の春だったかな。その時、名前を自分で名乗ってらしたので。もともとTwitter上でよく喋ってはいたんですけど、本名を知ったのはその時です」
「なるほど……って、ネット上の知り合いに本名言っちゃ駄目なんじゃ」
あたしはデジタルに疎い方だが、SNSでは基本的にハンドルネームを使うことぐらい知っている。カナもおそらくそのハンドルネームでyukiNoさんと交流していたはずだ。本名を明かすのは非常に危ない気が。
「いやー、最初はハンドルネームで自己紹介する気だったんだけど、緊張のしすぎで、つい本名まで言っちゃって。えへへ」
「俺、高倉さんから本名で自己紹介された時、『この人、危機管理能力大丈夫なのかな』って思いました」
あたしは今、雪野さんが真っ当な常識人であったことに、心から感謝した。
「あ、そうだ」と雪野さんが手を叩く。
「今回白無垢の衣装にしたのも、高倉さんがその時に『八巻の白無垢を着てくれませんか』って言ってくださったからなんですよ」
雪野さんが答え終わった途端、カナがばっと身を乗り出した。
「そうなんですか⁉︎ 嬉しいです……‼︎」
カナが感動に打ち震えているの見て、一つの疑問が浮かんだ。
「というか、その時雪野さんと喋らなかったの? 雪野さん、性別隠してたわけじゃないってことだったし、声で分かんなかったの?」
「いや〜、緊張のしすぎで、ほぼ言い逃げだったから……」
なるほど、カナはどこまでもカナだった。
「あの時は本当に、びっくりしました」
「やっぱり、そうですよね! ほんとにごめんなさい‼︎ あの、ごめんなさい‼︎」
カナがひたすらに謝るのを雪野さんがそっと押しとどめる。
「いや、そういうことじゃないんです。
俺、完全に趣味の領域でコスプレやってたんで、ああやって言われたの初めてで。だから、凄く、嬉しかったです」
「yukiNoさぁん……!」
「あの、これ以上やると泣き始めるんで、その辺で」
「あっ、すみません」
それから、雪野さんはサブカルデーに一緒に来ていたという人に連絡を入れた。固定電話はなかったので、スマホを貸した。家にある電話番号のメモを見ながら番号を打ち込み、雪野さんは電話をかける。
話している内容に、「そっちには戻れないと思う」や「明日も無理」などの不穏な言葉が聞こえたような気がした。
「本当に助かりました」
通話を終えた雪野さんは、あたしにスマホを返すと、ポケットから何かを取り出す。それは、左耳につけていた青い宝石のイヤリングだった。
よく見ると、なかなか凝った作りをしている。大きな雫型のイヤリングチャームは、下から上にかけて濃い青から淡い透明へと変わる神秘的なグラデーションがかかっていて、中には雪の結晶が泳いでいる。
「ふわぁ……!」
机に置かれたそれにカナはこれでもかと目を輝かせる。
「めちゃくちゃ綺麗……! これ、手作りですよね?」
「はい、レジンで作りました。比較的器用な方だと思ってたんですけど、結構難しかったです」
「レジンで! うわ〜、すごいなあ」
レジン? 電子レンジのことか?
よく分からないので、とりあえずコーヒーに口をつける。まだ結構熱い。
「それでこれ、どうしたんですか?」
そのままカップを手で包み込んでいると、カナが顔を上げて訊いた。確かに、急に取り出して何をしようと言うのだろう。
雪野さんは若干沈んだ調子で言った。
「これ、差し上げます。高倉さんに受け取って欲しいです」
沈んだ声に気づかなかったのか、カナは無邪気に返す。
「え、でもこれがないと、次からコスプレできないんじゃ……」
「それなら大丈夫です。もう、コスプレ、辞めるんで」
「あー、そうなんですね……って、え⁉︎ なっ、ななな、何、何を、何を仰ってるんですかっ?」
「落ち着け」
あたしはカナの肩をはたきつつも、訊く。
「でも、何で急に?」
雪野さんは沈んだ暗い目で言った。
「女装コスをしていることが弟に……バレたんです」
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