1-9 推理①
急いで着替えて、自転車をかっ飛ばした結果、ものの五分ほどで例のファミレスへ辿り着いた。
時刻は二時二十七分。昼食とも夕食ともつかない微妙な時間ゆえか、店内に客の姿はほぼないが、窓側の真ん中の席に、チワワを思わせる小柄な少年がいた。雪野さんの弟、遼介君だ。複雑そうな顔つきで、窓を背に座っている。カナもだが、随分と早い。まだ、約束の時間まで三十分もあるというのに。
とりあえず、店の一番奥、厨房に近い席に陣取る。ここなら、カナの視界に入らない。
運ばれてきたお冷にちびちびと口をつけていると、「いらっしゃいませ」の声が聞こえてきた。席の
ふとカナの左耳に目が留まった。雪野さんからもらった青いイヤリングをつけている。自分でつけたのだろうか。
いや、今はそこではない。窓側の席に近づくカナ。さあ、うちの美少女の反響はどうだ。
期待の眼差しを投げる。が、しかし。
「……え?」
遼介君の表情は、見ていられないほどに険しかった。いっそ敵意すら感じるレベルに。
あたしの頭は完全に混乱していた。いくら初対面の相手と言えど、あの態度は流石に不自然だ。
その混乱が終わらない内に、さらに混乱する事態が発生する。
カナが遼介君の向かいに座ったのだ。伝言だけなら座る必要はない。
こちらに背を向けているので、カナの表情は見えない。さらに言えば、距離があるので、何を言っているのかも聞こえない。が、ほんの少しして遼介君の目が大きく見開かれるのが見えた。
一体何が起こっているのだろう?
*****
何が起こっているのか分からないまま一時間ほど経った頃、入り口に息を切らした雪野さんが姿を現した。
席に近づく雪野さんもあたしと同じように思ったらしい、カナを見て目を少し見開く。
そんな雪野さんの様子は気にせず、カナは立ち上がると、きゅっと背伸びをして、雪野さんの耳に何かを囁き、席を離れた。
そして、向かった先は、
「ゆーいーちゃんっ」
あたしの席だった。バレてたのか。
「あー、えっとー」
意味のない言葉を発するあたしを気に留めず、カナは向かいのソファ席にすとんと座り、にこりと笑った。野次馬根性でここまで来たことに怒って……はないようだ。
でも、気まずいものは気まずい。それにさっきまで何が起こっていたのかも気になる。
「そう言えばさ、さっき雪野さんに何か耳打ちしてたけど、何言ってたの?」
気まずさの誤魔化しがてら問うと、カナはああ、とうなずき、さらっと言った。
「遼介君、女装コスには全く気付いてないですよって。そのことを知らないまま話し合っても、こじれちゃうから」
「へー……え?」
今なんて?
女装コスに気付いてない?
「どういうこと? だって、衣装もコスプレしてる写真も見られたって」
「それが本当のことだったら、遼介くんも気付いてたかもね」
驚きから強めに問い詰めると、カナが落ち着いた口調で言った。
「じゃあ、雪野さんが嘘吐いてたってこと?」
「そうじゃないよ。雪野さんは嘘吐いてない。いや、嘘吐いてる自覚はない、の方が正しいかな」
「どういうこと?」
ますます訳が分からない。あたしは少し語気を強めて訊く。
カナははっきりと言い切った。
「先週の土曜日に聞いた話は全部雪野さんの憶測で、本当はクローゼットも写真も見られてなかったんだよ。ほら、覚えてない? 雪野さん、一回も断定的なこと言わなかったんだよ」
言われ、記憶を反芻してみる。
——恐らく遼介は俺のクローゼットにしまってたコスプレの衣装を見たんです。
——遼介は服を借りようと思ってクローゼットを開けた時に衣装を見つけたんだと思います。
——スマホに入れてたコスプレの確認用写真を見られてしまったみたいで。
——多分その時に。
——女装コスの事実が遼介の中で確定したんだと思います。
思わず、口からぽつりと溢れる。
「……本当だ」
「まあ、私も気付いたのはついさっきだから、偉そうなこと言えないんだけどね」
カナは恥ずかしそうに微笑んだ。それから、しかし、すぐさま真顔に戻って続ける。
「つまるところ、雪野さんはコスプレの事実を隠してるって意識があったからこそ、遼介くんの態度の変化をそこに無理やり結びつけちゃったんだよ」
「なるほど……。でも、雪野さんの憶測が当たってる可能性だってあるんじゃない?」
「その可能性も低いと思うよ」
「何で?」
「えーっと。雪野さんが話してた内容は二つ、あったよね」
カナが細い指を二本立てる。あたしはうなずいて答えた。
「高三の時の話と、去年の話?」
「うん。今回はややこしいから、クローゼット事件と写真事件って呼ぶね」
カナはそう前置きしてから、今度は人差し指だけを立てる。
「まず、クローゼット事件。
遼介くんは雪野さんから服を借りようとしてたって話だったよね。でもね、よく考えるとおかしなことがあるんだよ」
あっただろうか?
考え込むあたしを見て、カナは続ける。
「遼介くんは強豪のバスケ部所属で、毎日毎日夜遅くまで練習してるんだよね? 自主練もしてて、家にいるのはお盆とお正月くらい。そんな子が、お兄ちゃんから服を借りてまでおしゃれしなきゃいけないような用事なんて、最初から入れないと思うんだ。練習続きで、時間がないんだもん」
「……あ」
確かにそうだ。
あたしも中高六年間、それほど強豪ではないものの部活に入っていたが、そこそこ休日は潰れていた。強豪じゃなくてもこれなのだから、強豪校かつ自主練にも向かっているのならもっと時間がなくても不思議ではない。
ふと、雪野さんが昔の服を入れたケースをクローゼットに入れたという話を思い出した。うっかり入れてしまった、というようなことを言っていたが、この件もカナの話を聞けば頷ける。
中学に上がった途端、出かける余裕の無くなった遼介君が服を借りに来なくなったから、急にケースが邪魔に感じられて、クローゼットの中に入れようと思ったのだろう。もし、以前のように頻繁に遼介君が服を借りに来ていたら、入れようだなんて思わなかったに違いない。
「それに、遼介くんは今まで『兄ちゃん借りるよ』って言ってくれてたのに、クローゼット事件の時は、雪野さん、何も声を掛けられてないよね?」
「うん」
確かに、声を掛けられたという話はしていなかった。現に、雪野さんは、遼介君の態度の変化から、クローゼットを覗かれたという可能性を推測していた。クローゼットの中を見る、と事前に声を掛けられていたら、そうはならない。
「クローゼット事件の時だけ、声を掛けられてないっていうのは不自然だよね。
もし、直接伝える時間がなくても、LINEとかで伝えれば良いだけ。雪野さんは、『クローゼット事件の後から、LINEの文面も素っ気なくなった』って言ってたから、クローゼット事件の前から遼介君とLINEで繋がっていたことは確実だし」
「……なるほど。でも、もう一個の方は? 写真事件。あれ、結構決定的だと思うんだけど」
クローゼットの件なら、遼介君が見ていなかったと言うこともできる。が、写真は別だ。後ろに立てば、写真は自然と視界に入り込む。見ていなかったというのは無理がある。
それでもカナはきっぱりと言った。
「あれも、よく考えてみれば、不自然だよ」
「どこが」
「遼介くんは、果たして写真を見て一発で『お兄ちゃんが女装コスしてる』って認識に辿り着けるのかな」
「どういうこと?」
「雪野さん、コスプレの時は二重にしてるけど、普段は一重だよね。目って、結構容姿の印象を大きく変えると思うんだ」
思わず黙り込む。それは、あたしが前髪を切ったカナに対して思っていたことだから、何よりも説得力があったのだ。
「それに女性用の服を着てるってバイアスもかかってる。お兄ちゃんとは違う二重の女の人だろうなって思って、自分のお兄ちゃんだって思わない可能性の方が高いよ」
「……」
「もし、写真の人がお兄ちゃんかもしれないって遼介くんが疑ったとしても、まだおかしいところはあるよ」
カナはまだ続ける。
「雪野さんは一人暮らしの家でも、漫画とかラノベの類はベッドの下で厳重に管理してた。きっと実家ではもっと厳重に管理してたはずだよ」
「それがどうしたの?」
確かに、雪野さんはベッドの下にラノベ類の入った段ボールを入れていたし、現に一見しただけでは、オタクの部屋だと分からないほどシンプルだった。しかし、それが何だと言うのだ。
「遼介くんは、お兄ちゃんがオタクだとは一ミリも思ってないってことだよ。そんな遼介くんが、写真を見ただけで、『オタク文化の一つであるコスプレを、お兄ちゃんがしてる』って結論付けるかな? ちょっと飛躍しすぎな感じがするよ」
「うぅん……」
言われてみれば、そうだ。少し過程が乱暴な気がしなくもない。
「女装も一緒だよ。
雪野さんは普段から女装してる訳じゃない。それなのに遼介くんが、いきなり『お兄ちゃんが女装してる』って結論付けるのは飛躍しすぎてる。やっぱ別の人かなって思うのが自然だよ。
だから、写真の人がお兄ちゃんかもって疑っていようがいまいが、『お兄ちゃんが女装コスしてる』って遼介くんは考えないと思うよ」
カナの言う通りだ。いくら雪野さんの部屋で撮られた写真とは言えど、オタク趣味も女装趣味もないであろう一重の兄と、写真に写る二重のコスプレ美女が同一人物だと、遼介君は思わない可能性が高い。そもそも兄だと思うまでいかないか、似て見えるだけの別の人だと思うのが自然だ。
ならば、どうして態度が急変したのか?
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