4-15 簡易留守録リスト 優衣

 その後、カナの呼びかけに従い、祐也、雪野さん、蓮君の三人は消化不良の顔で解散していった。その場にはカナとあたしだけが残る。


 カナはあたしの腹部に目を遣ると、慌ててポケットからハンカチを取り出した。

「ごめん、優衣ちゃん! 今拭うね! って、もう染み込んじゃってるよね、どうしよ」

「別に大丈夫。替えも持ってきてる。最初からある程度掛けられるのは覚悟してたから」


 「良かった~」とふにゃふにゃした声を上げるカナに、あたしは「ねえ」と声を掛けた。


「さっき、蓮君に何であんなことしたの?」

「あんなこと、って深呼吸とか牛乳飴とかのこと?」

「うん」

「ああ、あれはね」


 カナは柔らかく微笑んだ。

「今苦しいなー、って思ってる人に『そんなことないよ。大丈夫だよ』なんて無責任に言っても、本人がその状況を受け入れられないことには何も変わらないと思って。だから、ちょっとだけ視界を広げて、落ち着いて、自分の状況を受け入れるための準備ができればいいなーって。私に全て解決できる力があるかも、なんておこがましいから。でも、もし蓮君が『ほんの少し力を貸してほしい』って言ったなら、全力で手助けしたいなって思ってるよ」

「そう、なんだ」


 蓮君にこれと言った説教をせず、これから何をするかについて話をしたのも、精神論や根性論では問題が片付かないと考えていたからなのかもしれない。


 ああ、と思った。目の前に現れた現実を拒絶するわけでも、無理やり飲み下すわけでもない。相手の意思を大事にして、必要な時はがむしゃらに頑張る。カナは誰に対してもいつもこの姿勢を崩さない。こんなふうに、自分の信念に沿って、常に言動に芯を通せることを強さと言うのだろう。あの日、歯を食いしばるほど羨ましいと感じたものはこれだったのかもしれない。


 カナの強さを再度浴び、あたしは頷くように唾を飲み下した。……あたしも、自分自身の問題を受け入れなければならない。そろそろ前に進みたい。


「あのさ」

「うん?」


 投げかけた声にカナが首をかしげる。自分でも分かるほど情けなく震えて、たどたどしい声で言った。

「今日は、その、バイトが終わったら、カナの家の方に帰ろうと思うんだけど」

「! うん」

「その時に、話したいことがあるから、その」

「……うん。分かった。待ってるね」

 カナは優しく笑った。



 *****


 バイトを終え、カナの家に帰ると、カナは一冊の文庫本をめくっていた。その手を止め、見上げてくる。


「おかえり、優衣ちゃん。今飲み物入れるね。紅茶でいい?」

「うん。ありがとう」

「いえいえ。私もついでにミルクティー作っちゃおっかな」


 リビングのローテーブルの前で正座して待っていると、カナが盆の上に二つマグカップを戻って来る。それをテーブルの上に置くと、あたしの隣に座った。


 思いがけない位置に戸惑いつつ、マグカップを手に取る。カナは別段促しもせず、鼻歌を歌いながらミルクティーをちびちび飲んでいた。


 その歌声に紛れてしまうような弱々しい声を喉から無理やり送り出す。

「……あのさ」

「うん。どうしたの?」

 カナが子供を相手にするような柔らかい声で言った。


「あたし、さ。小さい頃は、泥まみれになりながら遊ぶのが、好きだったんだ。擦り傷を山ほど作って。特に野球はするのも見るのも好きだった」

「うん」


 それから、あたしは幼いころにあった出来事について順に話していった。父の言葉、自分の行動、思ったこと。


 話し始めはつっかえていたのに、だんだんとこぼれるように話していた。そうして、ここ最近の行動の理由までを話し終えると、カナの方を向いて頭を下げた。

「ごめん。お父さんに言い返せなくて」

「ううん。優衣ちゃんが謝らなきゃいけないことは、絶対に、ないよ」

「自分の感性は正しいんだって言い切るのが怖い。誰かに馬鹿にされたら、また逃げてしまうかもしれない自分が嫌。でも、このままではいたくない。お父さんに自分の大切なものは恥ずかしいものなんかじゃないって言いたい。ちゃんと好きなものを自分の手で守れるようになりたい。……どうしたらいいと思う?」


 強くなりたい。十八歳の頃抱いた目標の最終形は、こうなった。自分の弱いところも情けないところも直視して、受け入れる。


 今までは弱いところも情けないところも見ずに、蔑みの言葉を取り下げさせたいとだけ思っていた。しかも、ずっとそつなくこなせる人生を送っていたら、他人への頼り方も忘れてしまっていた。でも、もう自分一人ではどうにもできなくなっているのだから、自分は弱いので助けてほしい、と言うしかないのだ。


 心臓がうるさい。慣れないことをして、身体が我慢できないと言っている。

 唇をぎゅっと噛むと、カナの肩が少しだけあたしのそれにぶつかった。


「私はね、別にお父さんに面と向かって反論する必要ないと思うんだ」

「え?」

「真正面から向き合うことがすべて正しいとは限らないから。

 一方的に傷つけるようなことを言う人は、自分の意見が正しいと思ってるから、反論すると、自分の正しさを証明しようとして、さらに言葉を重ねて来るよ。正誤の判断基準なんて人から言われたくらいじゃそうそう変わらないし。だったら、この場合はそもそも相手にしない、話し合わないっていうのが一番いいんじゃないかな。自分のことも大事にしていい。私はそう思うよ。優衣ちゃんは、私の正面突破しか見たことないから真正面から向き合わないと! って思うのかもしれないけど」

「そう、なんだ……」


 想像もしない答えだった。呆けていると、カナがおかしそうに笑った。

「というか、これ教えてくれたのは優衣ちゃんなんだよ?」

「え?」

 何も覚えがない。そんなこと言っただろうか。


「好きなもの、大切なものを守るのに、方法なんて関係ないんだよ」

 カナは天井の白い電球を眺めながら、柔らかい声で言った。そうして、こちらを向く。


「好きなものを守りたい、って言っても、いろいろあるし。好きなものそれ自体を否定されたくないって人もいれば、好きだって思う感情を否定されたくないって人もいる。私は前者で、赤月さんは後者かな。……優衣ちゃんはどうしたいのかな? 私が言ったのは私の意見でしかないから、優衣ちゃんの意見を聞きたいな」

 あたしはどうしたい、か。



 どれほどの時間がたっただろう。多分そんなに時間は経っていないが、やたら長く感じた。


 口を開く。

「カナ」

「うん」


 カナは前を見たまま答えた。

「あたし、お父さんに電話とか対面とか、直接言い返すのは止めることにした」

「うん」

「でも、自分の中で一つ踏ん切りを付けたいから、お父さんの留守電に言いたいことを残そうと思う。それで、もし返事があったら、どうしようかな」

「私が先に聞こうか? もしひどいこと言われてないかどうか、先に確認する、とか。もし、電話で直接返事が来たら、一緒に聞くこともできるよ」

「じゃあ、お願いしてもいい? それで、もしひどいことを言われたら、もうお父さんには期待しない」

「うん。分かった」

 カナは穏やかにうなずいた。



 *****



『あー、もしもし、お父さん。優衣です。突然留守電なんか残して、びっくりさせてごめん。

 とりあえず、ここまで育ててくれてありがとう。今の時代に、子供を大学まで行かせるのが大変だって分かってるから、ありがとう。ちゃんと言ったことなかったから。

 でも、お父さんはもう覚えてないかもしれないけど、小さい頃にお父さんに外で泥だらけになって遊んだり、同級生と野球したりするのを、『女の子は普通そんなことしないよ。みんな優衣がおかしな子だって思っちゃうよ』って言ってたでしょ。あれ、すごく嫌だった。お父さんがそう言う度、自分の好きなものが目の前で否定されて苦しかったし、何回も言われて自分の感覚に自信がなくなって、それでまた嫌になって。

 お父さんの感性を否定する権利は、あたしにはない。あたしの好きなことがはしたなくて恥ずかしいことだって思うこと自体は止められない。でも、あたしはそうは思わないから、あたしの前では二度と言わないでください。それと、あたしの好きなもの自体は否定してもいいから、好きだって思う感情自体は否定しないでほしい。今まであたしが選んで、歩いてきた先にあるものだから。

 あと最後に。あたしの大切な友達を蔑んだことを謝ってほしい』

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