2-12 regret(カナ視点)

「え、っと、愛理?」

 軽く息を弾ませて登場した佐々木さんは、ザ・好青年といった風貌だった。短く切った黒髪と、水色の襟付きシャツといった清潔な装いで、一見しただけでは仁藤さんの恋人と思わない人が多いだろうな、と思った。しかし、胸元のあたりに見えるウサギのモチーフが付いた銀色のネックレスだけが少々異質に光っていた。


 一瞬の沈黙が落ちる。仁藤さんは「えっと、その……」と煮え切らない反応だ。それもそうだと思う。既にかなり落ち着いているし、今更どうすればいいのか分からないのだろう。


「これは……うーん、どういう状況?」

 佐々木さんは困った笑顔で、私たちにも目を向けたところで、

「あの」

 赤月さんが地を這うような低い声で口火を切った。


「さっき、ここの三人で先輩から話を聞いたんですけど、佐々木さん、浮気してるってマジですか? 先輩、ずっと不安がってるんですよ」

「え? いや、そんなことはしてないよ?」


 見ず知らずの学生にいきなりそんなことを言われて、佐々木さんが困惑の声を上げる。赤月さんは怒っている振りをしながら、なおも重ねた。


「じゃあ、五月八日の予定を教えてくださいよ。潔白だったら、言えますよね?」

「あ、その、ごめん。不安になって、その手帳を……」

 仁藤さんが申し訳なさそうに言う。しかし、瞳は、真実を確かめたい、大切な人が裏切ったりなどしていないと縋るようだった。


 私ははらはらしながら見守る。どうか、上手くいきますように。

 佐々木さんは、見逃しそうなほどほんの少しだけ眉根を寄せた。かと思うと、何のためらいもなく言った。

「欲しい漫画の予約を忘れないように書いてたんだよ。今まで言ってなかったけど、俺、漫画とかアニメとか好きでさ」


「……へ?」

 仁藤さんが呆けた様子で溢す。佐々木さんは今まで隠していたとは思えないほど、さらりと続けた。

「ちょっと前に愛理にも言ったことあると思うけど、最近仕事が上手くいってなくてさ。そんな時に、深夜にテレビでたまたまアニメ放送してたのを観て、ハマっちゃって」


「え……ウチ、今まで」

 続きは言わなかったけれど、「ひどいことを言ってしまっていた」と言おうとしていたのかもしない。一緒にいる期間が長くなればなるほど、物の見方は大体同じだと思い込んでしまい、簡単に「あれ、おかしいよね」と共感を求めてしまうことが多いからだ。

 別にそこまで悪いことではないと思う。見方が同じだと思い込むのも、ある種不幸な事故だ。けれど、人によっては苦しいだろう。


 愕然とした様子の仁藤さんに、佐々木さんは穏やかな顔で言った。

「愛理。ずっとここで話すわけにはいかないから、場所変えようか」

 佐々木さんは伝票に目を通し、財布から出したお金をテーブルに置くと、ふらふらとした足取りの仁藤さんを伴って店を出ていった。


 テーブルには沈鬱な空気が残された。

 優衣ちゃんはガラス窓から外を見て、二人の背中を目で追っている。

 私は溢すように疑問を口にした。

「どうして……どうして、逃げ道があったのに佐々木さんは趣味のことを仁藤さんに言ったのかな」

 ここだけがどうしても分からなかった。隠そうと思えば、充分隠せたはずなのに。


「今後も愛理先輩と一緒にいたいからじゃねえかな」

「今後も一緒にいたい?」

 赤月さんの言葉に私は首をかしげる。赤月さんは自分自身に向かって話すように、落ち着いた調子で話し出した。


「佐々木さんが黙ってたのって、好きになったことを後悔したくなかったからだと思うんだよ。愛理先輩を好きになったことも、マンガとかを好きになったことも。誰だって後悔なんてしたくないだろうし」

「後悔」

 今度は優衣ちゃんが、言葉の意味を確かめるように声に出す。


「だって、もし愛理先輩に自分の趣味を話して、露骨に嫌な対応されたら、こんな人と付き合うんじゃなかったって後悔するし、それと同じぐらい、自分がマンガとか好きにならなかったら、愛理先輩は嫌な面を出さずに済んだんじゃないかって後悔しちゃうじゃん? そういうふうに後悔したくなかったんだろうし、実際そんなふうに後悔するようなことがあっていいはずがない」


 赤月さんがうつむいて、何かに対するいら立ちをぶつけるように硬い口調で言い切った。しかし、その後は幾分か口調をやわらげて、

「でも、今後も一緒にいたいって思うなら、ずっと自分の好きなものを秘めたままってなるとしんどいだろうし、これを機に話そうって思ったのかも。話して、理解してもらって、自分の“好き”を後悔する必要のないものだって肯定したかったのかも」


 そして、ぽつりと呟いた。

「趣味って何なんだろうな」

 趣味、とは何か。

 優衣ちゃんも私も、これといった答えを口にすることはできなかった。


 その後、優衣ちゃんはバイトに向かうため、店を出ていった。

「じゃあ、私たちもそろそろ出ましょうか」

 コップのジュースを飲みほしてしまおうと引寄せると、赤月さんが少し腰を浮かせながら、口を開いた。


「待って。……ちょっと高倉さんに話したいことがあるんだけど、時間ある?」


 赤月さんは私の目をじっと見つめながら言った。真剣なまなざしに押されるように、

「だい、じょうぶです……」

 私は頷いた。

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