幕間 問題の輪郭

 二日後の月曜日、午後五時頃。

 大学から帰ろうと商店街を歩いていた矢先、後ろから掛けられた声にあたしは立ち止まった。

「優衣先輩!」


 引っ張られるように振り向くと、そこには見慣れた制服姿の小柄な少女——高校の部活の後輩である山岸幸やまぎしさちが立っていた。

「あ、幸ちゃん」


 ぽろっと返事を溢せば、小走りになって駆け寄ってくる。肩にはフルートのシャイニーケースが掛かっているのが見えた。


 幸ちゃんは満面の笑みを向けてくる。

「優衣先輩、ご無沙汰です! 大学の帰りですか?」

「うん」


 軽く頷くと、幸ちゃんはなぜか少し声を潜めて言った。

「あの、優衣先輩。今、時間あります?」

「え? ああ、うん、あるよ」

 今日はそもそも《ふれーず》が開いていないので、バイト自体は入っていなかった。急ぎのレポートも特にはない。


 幸ちゃんは顔を綻ばせた。

「じゃあ、お茶しませんか? ちょっと相談したいことがあって……」



 *****



 幸ちゃんが連れてきてくれたのは、出会った場所から五分も歩かない位置にある、チェーンの喫茶店だった。店先には小さめの黒板が置いてあり、「四月のおすすめ 苺タルト」の文字と手書きの苺タルトのイラストが描かれている。


 窓側の席に陣取った幸ちゃんは、淡いピンクのリュックと、同じく淡いピンクのケースを隣の席に置くと、いそいそとメニューを手にする。

 その様子を見て、あたしはまず気になったことを口にすることにした。


「幸ちゃんさあ、今日部活は?」

 かつてあたしが在籍し、現在幸ちゃんが在籍しているのは吹奏楽部だ。

 うちの高校は四月の末に文化祭を開催する。そのため、この時期は下校時刻の六時半ギリギリまで練習を重ねるはずだが、現在の時刻は五時を少し回った頃だ。


 幸ちゃんはメニューから目線を上げると、「そのことなんですけど」と、分かりやすく顔をしかめた。

「なんか不審者が出てるとかで、早く帰れって言われちゃったんですよね」

「不審者?」

「はい。何でも背中に飲み物を掛けられるとか。あっ、不審者情報の紙見ます?」


 幸ちゃんはメニューから手を離し、リュックを漁り始める。出てきたのは、B4の藁半紙だった。

 手渡されたそれに、ざっと目を通す。


〈不審者情報

 四月十日と二十二日に、本校の生徒が不審な人物から飲み物を背中に掛けられるといった嫌がらせ行為が発生した。〉


「なんか、二回もあったんなら、うちの生徒が狙われてるんじゃないかって声が保護者から出たらしくて。だから一応様子見で、今日と明日は部活しないで帰れって言われちゃいました」

 その顔には不満がありありと浮かんでいた。


 それから注文を決めたあたし達は、呼び出しボタンで店員を呼び、幸ちゃんが苺タルトとレモンティー、あたしがストレートティーを頼んだ。


 店員が去ったのを見送ってから、幸ちゃんが不服そうに続ける。

「本当、不審者とかやめてほしいですよ。文化祭まであと一週間切ってるのに」

「じゃあ楽器持って帰ってるのも、練習するためなんだ?」

「そうです。うちの吹部、三年生は文化祭で引退じゃないですか。だから、できるだけ、練習したくって。

 本当は家帰ってやりたかったんですけど、この後予備校の授業あるんです。だから、その近くで、練習できる場所ってことでカラオケ探してたんですけど、空きがなかったんですよねー」


 なるほど。高校からやや離れた場所にいるとは思っていたが、そういう経緯いきさつがあったのか。この近くには田代ゼミという予備校があるし、おそらくそこのことだろう。


「部活ある前提で授業入れてたから時間空いてるし、カラオケは見つからないし、暇で暇で。本当優衣先輩、お茶付き合ってくれてありがとうございます!」

 がばり、と頭を下げる幸ちゃん。

 それを見て、ふと思い出した。

「そう言えば、相談したいことあるって言ってなかった?」


 ほぼ同じタイミングで、店員が注文した品を置いていった。店員が完全に戻ったのを確認して、幸ちゃんは再度リュックを漁り始める。そうして出てきたのは、

「……進路希望調査?」

「そうです」


 彼女が出してきたのは、「三年二組 山岸幸」の文字以外は何も記入されていない白紙の進路希望調査表だった。そう言えば、あたしが三年生の時もこのぐらいの時期に配られた記憶がある。

 ぐっと前に押し出されたので、手に取ってみる。全部白紙かと思えば、何度も消しゴムで消した痕が見えた。


「幸ちゃん、進路迷ってるの? 確か、勉強苦手じゃなかったよね? どこでも選べるんじゃないの?」

 去年卒業生で部室を訪れた時に聞いた話ではあるが、頭は良かったはずだ。進学校と言われるうちの高校で、学年二十番以内に入っていたと聞いた記憶がある。


 すると、幸ちゃんは持ち上げかけていたフォークを下ろし、じっと見つめてきた。強い目だった。

「先生にも同じこと言われたんですけど。でも! 大学ってやっぱその先見据えないとダメじゃないですか!」

「……『その先』」

「はい! いくら偏差値の高い大学に行っても、自分が学びたいこととか、就きたい職業に関係ないとこだと意味ないじゃないですか。

 私、将来弁護士になりたいんです! だから、法学部の情報をいろいろ調べてるんですけど、どれも決め手に欠けてて」

「へえ、そうなんだ」


 声が、無意識のうちに硬くなってしまった。誤魔化すように紙から手を離し、紅茶にスプーンを入れて意味もなくかき混ぜる。

 すると、幸ちゃんはぐっと身を乗り出してきた。かき混ぜる手が止まる。


「だから、優衣先輩の話聞きたいんです!」

「……え?」

「だって、優衣先輩の頭ならもっと上の大学行けましたよね? 先生たちも『もっと上の大学を勧めたんだけど、断られた』って言ってましたし。それなのに、もうちょっとレベル下の公立大に第一志望にしたってことは、何か理由があるんですよね? 学びたい教授がいたとか?」


 息が詰まりそうだった。手からこぼれ落ちたスプーンがティーカップとぶつかって、嫌に派手な音を立てる。

 惨めなくらい、顔が引きつっているのだけは分かった。



 *****



 それから、三十分ぐらいして喫茶店を出た。

「ふぁー、苺タルト美味しかったー!」

「良かったね」

「はい! じゃあ、これから予備校に行って参ります!」

「うん、いってらっしゃい」

 敬礼の後、満面の笑みを見せて大きく手を振る後輩に、小さく手を振り返す。その背中は、すぐに深い藍色に溶けていった。


 背中を向けて、帰路を辿り始める。

 我知らず溜息が溢れた。

 忙しい日常の中では輪郭を失っていく。そのことに密かに安心していた最中さなか、今日の出来事は攻撃力が高すぎた。


 幸ちゃんが「お代は先輩の分も払います」と言った時、あたしの顔はどれほど硬直していただろう。まさか幸ちゃんがあたしの現状を知っているのか、と勘繰った。

 ただ単に、無理やりお茶に誘ったからというのが理由だと分かった時、また密かに安心した。


 いつまでもぬるま湯に浸かってはいられない。そのことは、自分が一番よく分かっている。分かっているけれど。


 幸ちゃんは「その先」と言った。

 忙しい日常の中では輪郭を失っていく。

 あたしはいつまで先延ばしにするつもりなのだろう。

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