2-5 良い子
バイトが終わると、外はすっかり暗くなっていた。五月に入り、日暮れがかなり遅くなったと思っていたが、この時間に明るさを求めるのはまだ無理があるらしい。
真っ直ぐ帰りたかったが、生憎明日以降の食糧が少々心許ない。コンビニで買うと費用がかさむので、若干遠いけれど、スーパーに寄ってから帰ることにした。
割引シールが貼られたものを選んで必要な分を手早く購入し、外に出る。やや小走りになって帰路を辿ろうとしたのに、いきなり赤信号に引っ掛かった。しかも、ここは待ち時間が長い。
ため息を吐いて、ポケットからスマホを取り出す。待ち時間で、祐也からの伝言をカナに送信することにした。手早く集合場所と時間を打ち込んでいると。
「あれ、優衣さんじゃないですか?」
後ろから声を掛けられた。振り返ると、黒いパーカーを着た少年が一人。
「あ、蓮君」
平島蓮。あたしの遠縁にあたる子だ。今年高校三年生。頻繁に会うわけではないが、幼少の頃からあたしをよく慕ってくれている。とても真面目で賢い良い子だ。
軽く手を振ると、蓮君は「やっぱり優衣さんだ」と嬉しそうに駆け寄ってきた。
「久しぶりですね。二年ぶりぐらい?」
「そうだね。元気だった? というか、今学校の帰り?」
「いや、予備校の休憩中です。お腹空いたので、軽食を買いに出てきました」
「そっか。予備校って田代ゼミ?」
この辺りは、前に後輩の幸ちゃんと出会った場所と近い。だったら、田代ゼミかもしれないと思って問うと、軽く頷き返された。
「そうです。田代ゼミはこの辺で一番進学実績高いですし」
へえ、とうなずく。高校こそ違うものの、幸ちゃんと蓮君は案外面識があるのかもしれない。
信号はとうに青になっていたが、あたし達は立ち止まったまま、ついつい話し込んでしまっていた。
目元、右目の下にある涙ぼくろのあたりを人差し指で掻きながら、蓮君は苦笑いして言う。
「最近、微分積分やりすぎて、夢に出てくるようになっちゃって」
「あはは、それは大変だね」
蓮君はうんざりした様子で、肩を落とした。
「もう早く早く大学生になりたいです。自分で取りたい授業選べるのっていいですよね。全休とかにもできるんですよね?」
「一応できるけど、学部によるかな。理系学部は何とも言えないけど、文学部の同級生は一、二年の間に取れる講義が少ないから、半休も全休もあるって言ってた」
もちろん文学部の同級生とは、カナのことだ。二年生になってからは少しマシになったが、一年生の頃は取れる講義があまりにも少な過ぎたらしく、毎日のように「私、ちゃんと卒業できるのかなあ……」と遠い目で言っていた。
「そんなに文理で違うんですか?」
「大学によるだろうけど、うちのとこは結構違うかな。文系の子は昼過ぎには大学から出ていく子とか、逆に昼過ぎてから来る子が多いイメージだなあ。さっき言った同級生の子も、水曜は午前までだから、十二時半頃には大学出て、家でお昼食べてるよ。うちは二学期制だから、夏休み明けたらまた変わるけどね」
水曜日はあたしも午前が空きコマの半休なので、家に帰ってきたカナと入れ違いになる。カナは大学帰りに近所のトキウマートというコンビニで昼食を買うことが多いようで、よくエコバッグを腕に下げて帰って来ては、スマホでSNSやら動画サイトを見ながら昼食を取っている。あと、ウエハースもよく買ってくる。最初は余程ウエハースが好きなのだなあと思っていたが、何かカードとかが入っているらしい。欲しいものが出たのか、反対に全然出なかったのか、以前一人で踊り狂っているところを見たことがある。あたしは見なかったことにして、大学に向かった。
「……そう言えば、『お昼』で思い出したんですけど」と蓮君が切り出した。
「優衣さんって大学進学のタイミングで家出たんですよね。どんな感じなんですか? やっぱり一人で食費とかやりくりするのって大変ですか?」
少し窺うような調子で言われて、あたしはやや口ごもりながら答える。
「あー、その。あたし、一人暮らししてるわけじゃなくて」
「シェアハウスってことですか?」
「まあ、そんな感じかな」
正確に言うと若干違うと思うが、わざわざ説明するのも憚られて、曖昧にうなずく。
「もしかして、さっき言ってた文学部の同級生の人とですか?」
「そうそう」
あたしの返事を聞いた蓮君は楽しげに続けた。
「どんな人か見てみたいです! 写真とか無いんですか?」
「え? えー、あったかな……」
蓮君の勢いにおされるように、あたしは手に持ったままだったスマホの電源を付けた。カナは写真が苦手で、あたしも頻繁に写真を撮るタイプではないから、カメラロールの中にカナの写った写真はなかなか見つけられない。が、遡って遡ってやっと一枚見つかった。
去年の四月頭、記念に一枚撮りたいとカナが急に言い出して、一緒に撮ったものだ。玄関扉を背に、眩い春の陽光の中、二人で並んで写っている。あたしのカメラロールに入っているのは、カナのスマホで撮ったものを、LINE経由で受け取ったものだ。
「はい、見つかったよ」
スマホを覗きこみながら「シェアハウスかあ」と呟いていた蓮君が唐突に「あ」と声を上げた。
「どうかした?」
「この人の服……」
そう言って、カナの服を指さす。カナが着ているのは、何かの応募企画で当てたという、ピンク色のショートカットの少女がプリントされたアニメTシャツと、いつもの紺色のパーカーだ。
そこで、ようやっと「あ、しまった」と思った。蓮君がアニメや漫画に偏見を持っているかもしれないという可能性を全く考慮していなかった。そうでなくても、カナがこのTシャツを着ていることを一種のネタのように扱われる可能性はある。自分の考えなしの行動のせいで、カナの趣味が無遠慮な視線に晒されるのは忍びない。それ以前に、本人への断りもなく写真を他人に見せるのもあまりよろしくなかったはずだ。いろいろと考えが甘かった。
ここ数分の間の自分の行いを後悔しつつ、蓮君の次の言葉を恐る恐る待つ。が、彼の口から出たのは予想と大きく異なるものだった。
「この紺色のパーカー、いいですね!」
「へ」
「着心地良さそうです。えー、いいなあ」
一人でほっと胸をなでおろす。良かった、蓮君はアニメや漫画に偏見がない子だったようだ。それに、長年弟のように可愛がっていた子が、何かを馬鹿にしたり、偏見をぶつけたりするような子だったなどと思いたくない。
良かった良かった、と頭の中で繰り返し、安堵からか、つい口が普段より多めに回る。
「これ、そこの商店街の服屋で大量に売ってるよ。この子、このパーカー気に入りすぎて同じのが家に四、五着あるし」
「そうなんですか?」
「そうそう。それで、毎日着てる。どこに行く時もずっとこれ」
正確に言うと大学に行く時は着ていないが、そこまで細かく言う必要もないだろう。
「そんなに着心地いいんですね」
「みたいだね。こないだなんか、これの半袖バージョンを二着も買ってきてさ」
流石にあれを見た時は笑った。どれだけ気に入ってるんだ。
「へえ、今度その服屋行ってみます。メンズ用も売ってるかな……あ、じゃあ、僕、そろそろ行きますね。休憩時間終わりそうなんで」
腕時計を見やった蓮君は、軽く手を挙げた。
「そうなんだ。引き留めてごめんね」
「いえいえ、優衣さんと話せて楽しかったです」
にこり、と優等生の綺麗な微笑みを浮かべて、背を向けた。かと思うと、「そうだ」と言って、くるりと振り返る。
「? どうしたの?」
「一つ言うのを忘れてました」
「何を?」
「雅秀さんがこないだ『大学に入ってから一度も家に帰ってきていないから、心配だ』って言ってましたよ」
「……え」
「忙しいかもしれないですけど、顔出してあげたらきっと喜びますよ」
「あーうん……そうだね。考えとくよ」
蓮君は再度腕時計に目をやって、「あ、やば」と呟くと、
「じゃあ、優衣さん、また!」
と早口に言って、今度は本当に背を向け、立ち去って行った。
その後ろ姿が曲がり角に消えたのを見届けると、喉の奥から固くなった息が漏れ出した。気づかないうちに息を詰めていたらしい。
知らず知らずのうちにざわついていた胸を宥める。思わず、首をがりがり掻いてしまって、遅れてやって来たじりじりとした痛みに思わず顔をしかめる。
問題はいつまでも先延ばしにはできない。いずれ必ず対峙しなければならない。
でも、と思ってしまう。
あたしも蓮君のような、生まれつきの”優等生”だったなら、もっと生きやすかったのだろうか。もし、そう生まれていたら、きっと――。
「……いまさら言っても」
気が付けば、独り言が口をついていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます