3-9 プリムラとアマリリス

 そっと生徒会室の扉の隙間から中を覗き込むと、岸井さんがしゃがみこんで書類整理をしているのが見えた。


 ゴールデンウィークが明けた木曜の放課後。あたしは生徒手帳を返すべく、岸井さんを探していた。二組の教室を訪れたが、すでに姿はなく、「生徒会室に行ったのでは」という助言のもと生徒会室を訪れたが、当たりだったようだ。


 扉をゆっくり開く。古い木が軋む音に、しゃがんだまま岸井さんが振り返った。


「橋本さん。どうかしたの」

「この前、生徒手帳落としてたから、届けに」

「そう。わざわざありがとう」


 岸井さんは分厚いフォルダーを棚に戻し、スカートを押さえながら立ち上がった。あたしは生徒会室の中に歩みを進める。


 生徒手帳を手渡すと、岸井さんが手帳をパラパラとめくる。その様を見ながら、あたしは口を開いた。


「あの、さ」

 あまり綺麗に声は出なかった。岸井さんは顔を上げずに答えた。


「何?」

「あたしのことを告発したの、アイドルやってるのがバレたら面倒だからってだけじゃないよね」

 岸井さんは、感情を感じない目でこちらを見上げた。


「……どういうこと?」

「だって必死過ぎたから」


 感じた引っ掛かりの正体はこれだった。裏サイトの文言を信用するなら、生徒会役員は無断バイトについて、呼び出されても適当に辞めると言えば解放してもらえること、教師が無断バイト前科者の見張りはしない方針であることを知っている。ならば、もしバレてしまってもさして面倒ではないし、実際に辞める必要もない。だから、いきなり密告などという強硬手段に出るのは、いささか不自然なのだ。まずあたしと話し合いをするところから始めても、遅くはない。


「だから、もっとのっぴきならない事情があるんじゃないかって」

「のっぴきならない事情って?」

「受験、とか。……岸井さんはどうしても受けたい大学があったけど、Primaryllisの結成五周年配信にも最後まで参加したかったんじゃない?」


 Primaryllisは二月二十四日に結成五周年を迎えるとのことだったが、五周年と言えば、それなりの節目だろう。加えて、生徒手帳によれば二月二十四日は岸井さんの誕生日だ。生配信中にお祝いが企画されているかもしれない。普通なら最後まで参加したいと思うものだろう。


 しかし、二月二十四日は国公立大学の前期試験の前日だ。深夜まで生配信となると、翌日の試験に響く。もし、遠い大学を受けるなら、前日から泊りにも行かないといけない。生配信への参加は難しいだろう。


 ここからはほぼ推測だが、岸井さんの第一志望大が国公立だとするなら、受験と生配信の板挟みになるということだ。そういう時、あたしならどうするか。推薦入試などで、早めに受験を片付けようと考えるだろう。


 推薦入試では、出身学校長からの推薦を必要とすることが多い。普段の素行を評価されるかもしれない。つまり、岸井さんにとって問題だったのは、「バレた時の対応」ではなく、「バレること自体」だったのだ。だから、少しでもリスクを減らすため、いきなり強硬手段に出た。生徒会長をしていたのも、印象を良くするためだったのかもしれない。


 実際に、校則違反がどれほど評価に関わるかは分からない。そこまで関わらないかもしれない。しかし、あたしが無断バイトで呼び出された時のように、分からないからこそ、慎重にならざるを得なかったとも言える。


「で?」

「え?」


 唐突に発された切り捨てるような声に、呆けた声が出た。先ほどまでも感情は見えなかったが、まだ常識的な対応だったのに、今回のものはさらに突き放すような冷たさがあった。


「それをわたしに話してどうするの?」

「あ、いや、何で最初から言わなかったのかな、と思って」


 もしあたしの予想が当たっているならば、岸井さんは嘘を吐いたことになる。犯人であるという事実は変わらないのに、なぜ動機だけを隠したのか。それが気になっていたし、動機を隠した理由が分かれば、もしかしたらあの落ち着かなさの正体に近づけるかもしれないと考えたからだ。


「さっきの橋本さんの予想、一か所だけ違う」

「え」

 岸井さんは冷たい声で言った。


「入試を受ける大学は、わたしがどうしても進学したいわけじゃなくて、祖父の指示だから」

「はあ……?」


 そこを訂正してどうなるのだろう。とりあえず、黙って話を聞く。


 岸井さんは光の無い目で独り言のように話していく。

「わたしね、祖父にアイドルしてることを馬鹿にされてるの。両親は応援してくれてるんだけど。祖父は芸能人はみんな馬鹿だと思ってる。前に、芸能活動してるやつは浮ついててろくな生き方ができないんだって言ってた。だから、孫が芸能活動してるのが気に食わないの。それで、芸能活動を続けたいなら、自分の決めた大学に合格しろ、だって」


 ひどい、と思った。それと同時に、詳細は違うが、あたしの境遇と似ていると感じた。


 岸井さんは後方の窓を振り返りながら言う。

「わたし、ここには小三の時に引っ越してきたの」

「え、はあ」


 また話題が急転換した。この話はどこに向かっているのだろう。


「もともと人と関わるのが苦手で、引っ越したばかりの時は友達が一人も作れなくて、毎日憂鬱だった。でも、親についていったショッピングモールで地元のアイドルがライブしてるのを見た。あれは本当にすごかった。みんな笑顔がきらきらしてて、それにつられて私も笑顔になって、魔法みたいで……そのアイドルに励まされて、友達作りとかも頑張れた」


 はじめて岸井さんの目に光が宿る。遠くに見える過去を愛おしむような、それでいて子供がありったけのプレゼントに瞳を輝かせるような純粋な眼差しだった。


「そのアイドルを応援してるうちに、気が付いたらアイドルが憧れになってて、オーデイションに落ちて落ちて落ちて、何とか夢を掴んで。しんどいことも嫌なことも腐るほどあった。何も知らない人から、わたしたちの必死さを笑われたことだって何度もあった。でも、メンバーと一緒に乗り越えて、何とか最近ファンも仕事も増えてきた。……アイドルは、わたしの誇りになったの。だから、祖父を見返すために意地でも大学には受かりたいけど、でもそれと同じぐらいわたしのアイドルとしての時間も受験にさえ邪魔されたくなかった。そのくらい大事なの」


 岸井さんは強い口調で言った。今までの大人びた顔ではなく、必死さの滲む顔だ。それと同時に強い敵意のようなものも感じた。


「橋本さんが人の大事なものを冷やかすような人かどうかは知らない。でも、そのリスクが少しでもあるなら、わたしの憧れも誇りも簡単に曝したくなかった。ただ、それだけ」


 最後は投げ捨てるような口調だった。そして、付け足すように「でも、この前の謝罪は本心からのものだから。もし、まだ納得がいかなかったら、誠心誠意謝ります」と言った。


 あたしが想像する以上に、岸井さんは自分の大切なものを踏みつけられた経験が何度もあるのだろう。芸能界という厳しい世界ならなおさらだと思う。自分にあだなすかもしれない存在には強い敵意を向けないとやって来られなかったのかもしれない。


 だから、岸井さんの態度は傍から見るとわがままに見えるかもしれないが、あたしは特に腹が立ったりはしなかった。その代わり、なぜかたまらなく悔しかった。子供みたいに地団太を踏みたいほどに。


 その時、ようやく気づいた。岸井さんや高倉さんにこれまで感じてきた落ち着かなさの正体。これは嫉妬だ。何かが好きであることを謳歌し、その日々を支えたり、好きなもの自体を守ったりするだけの強さがあることに、知らず知らずのうちに嫉妬していたのだ。岸井さんや高倉さんの強さが、たまらなく羨ましくて、自分にそれがないことが悔しくてしょうがないのだ。


「橋本さん?」

 急に黙り込んだあたしに、岸井さんがほんの少し心配そうな目でこちらを覗き込む。


「いや、もう大丈夫」

 あたしは辛うじてそう言うと、生徒会室を後にした。

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