Case.3 終わらない夢

3-1 始まり

 これは、今から二年前の話だ。



 *****



「ここの助動詞は、反実仮想ですね」

 四限の終わりが近づいた三年一組教室では、昼休みを目前に、浮ついた空気が天井に溜まっていた。教師の声など、誰も聞いていない。


 鼻を鳴らすようにして息を吐く。

 席順から見るに、今日はもう当たらない。だからという訳でもないが、あたしはシャーペンを放り出して頬杖をつき、目だけで教室中を見回してみた。


 三年生。

 我が市立深沢ふかさわ高校は、俗に言う進学校というやつで、ほとんどの生徒が進学を希望し、実際に進学する。だから、受験を迎えた今年度、授業中の空気はもっとピリついていてもおかしくない。それでもなお、ここまでだらけた空気なのには理由がある。文化祭だ。


 うちの高校では四月の末に、三日間に渡って文化祭が開催される。昨日が、まさにその文化祭三日目だった。


 もう一度ふっと息を吐くと、教師の声を遮るようにチャイムが鳴った。「はい、じゃあ今日はここまで」と言う声を聴きながら、古文の教科書を閉じる。

 まだ開いたままのノートをなんとなく見返していると、視界の端に二人分の影が映り込んだ。顔を上げると、弁当箱を手にした春香と紗希の姿がある。


「優衣ー、お昼食べよ! ほらほら、ノートしまって」

「あ、うん」

 せかされるままに、下敷きを挟んだままノートを閉じ、教科書と重ねて机の中に入れる。


 近所の席から拝借してきた椅子に座った二人は、さっそく弁当箱の包みを解きながら、話し始めた。

「文化祭の次の日に、普通に授業あるとかキッツい」

「ねー。昨日の余韻がすごい。みんなで演奏できたの楽しかったなあ」

「ほんとそれ」

 水島紗希・藤田春香・あたしの三人は、同じ吹奏楽部員ということで一年生の頃から知り合いだ。そのため、こうして昼食を共にすることが多かった。


 二人に少し遅れて、弁当の準備をしているうちに、話題は文化祭から受験へとシフトチェンジしていく。

「三年は夏のコンクール出ないし、次は受験かあ。

 えっと、共通テスト共テが一月の半ばで、私立が二月の頭、国公立の前期試験が二月の二十五日だっけ。最近は後期試験なくなってる大学も多いし、後期は当てにしない方がいいかなあ」

「うわ、やめてよ、気滅入る。でもさ、遠いところの大学受けたら、前日からお泊りになるでしょ。それだけ楽しみ」

「もー、遊びに行くんじゃないんだよ。ねー、優衣?」

「あはは、そうだね」

 弁当箱の蓋を開けたところで、唐突に話を振られた。すぐさま困った笑顔を作り上げて、うなずく。


「優衣は頭良いから、いいなあ。こないだの課題考査も十位以内だったんでしょー? 可愛くて、優しくて、勉強もできる子なんて、優衣くらいしかいないでしょ!」

「いや、買い被りすぎだよ。それに、可愛くて勉強できる子なんて他にもいっぱいいるよ」

「えー? そう? 例えば、誰?」


 卵焼きを口に入れながら首をひねる春香に、水筒の蓋を開けていた紗希が答える。

「んー、生徒会長とか? 頭良いし、美人だよね。優しいかまでは知らないけど」

「生徒会長って岸井さん? 頭良いのは知ってるけど、美人ってイメージないんだけど。言っちゃ悪いけどさ……ぶっちゃけ地味じゃない?」


 白米を箸でつつきながら、あたしは頭の中で生徒会長の顔を思い浮かべてみた。


 三年二組、岸井ひなか。セミロングの黒髪を一本の三つ編みにまとめて、眼鏡をかけた生徒会長。生徒会長ではあるものの、あまり目立つタイプではなく、確かに美人というイメージはあまり湧かなかった。


「確かに普段は地味だけど、眼鏡外すとすっごい色っぽいんだよ。体育の授業で一緒になった時に、一回見たんだよね」

「へえ、そうなんだ。今度ちゃんと顔見てみよっ。でもー、やっぱウチは優衣みたいな華やかな顔の子の方が好みかなー」


 困ったような曖昧な笑顔を顔に張り付けたその時。教室前方のスピーカーから、ブチッという音が鳴った。続けて耳障りなノイズ。どうやら校内放送が始まったようだ。クラス内の喧騒が少しだけおさまる。


 変に張り詰めた空気の中、男性教諭の声が聞こえてきた。

『えー、三年一組の橋本優衣さん、生徒指導室まで来てください。

 繰り返します。三年一組の橋本優衣さん、生徒指導室まで来てください』

「……え?」

「呼び出し……優衣、何かしたの?」

「いや、優衣が何かしでかす訳ないじゃん。春香じゃないんだから」

「お、言ったなー?」


 軽く喧嘩を始める二人を尻目に、あたしは弁当箱の蓋を閉じる。呼び出されるようなことをした覚えはないが、呼び出された以上は、早く行かなければならない。


「とりあえず、行ってくるね。ごめん」

「うん。いってらー」

「いってらっしゃい」

 そうして、あたしは昼休みの教室を抜け出した。


 *****



「失礼します」

 抹茶色のカーテンが締め切られた生徒指導室内には、担任の木内先生と生徒指導の武下先生の二人がいた。部屋中央に置かれた焦茶のローテーブルの向かいのソファに、並んで座っている。呼び出される心当たりがなかったため、てっきり進路関係の話なのかと思っていたが、二人の表情は随分険しい。予想は外れたことを悟った。


「まあ、とりあえず座ってくれ」

 硬い声の武下先生に促され、教師二人の向かいのソファに腰掛ける。抹茶色をしたソファは布地がざらざらとしていて、妙に冷えていた。


「あの、今回呼び出された理由っていうのは」

 やましいことはしていないのだから、堂々としていればいい。落ち着いた声で問いかけると、木内先生と武下先生はちらちらと二人で視線を交わし、やがて木内先生が一枚の写真と三cm四方ほどの紙きれをこちらに差し出した。

 それらが目に入った瞬間、あたしは凍り付く。


 写真には《ふれーず》の制服を着たまま、裏口でゴミ出しをしているあたしの姿、紙きれには明朝体で「三年一組の橋本優衣はメイドカフェで無断アルバイトを行っている」とあった。


「……これ」

「この前の文化祭三日目の朝に、武下先生の机の上に二つ重ねて置かれてたの。ちょうど職員会議で職員室が空いた時間を狙って置かれたみたい。

 ……で、うちの校則、知ってるわよね? 特別な事情を除いて、金銭を稼ぐ行為は原則禁止。どうしても必要な時は届け出を出すって」


 そう言いながら、木内先生は生徒手帳のページをこちらに見せてくれるが、それどころではない。


 ……やってしまった。やってしまった! 《ふれーず》でバイトを始めてから二年経つけれど、一度もバレたことがなかったものだから、自分が校則違反を犯しているという事実がすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。


 体の中で冷たくなった血が逆流をするような感覚に襲われる。指先が冷たい。

 いったいいつ撮られたのだろう。背景はかなり真っ暗なので、かなり遅い時間なのは分かるが、日付まではさっぱり分からない。いったい、いつの間に。


「無断アルバイトの報告とはいえ、やり方がやり方だから、写真を置いた犯人はもちろん探すつもり。だけど……」

 木内先生はその先は口には出さなかった。けれど、何を言いたいのかは分かった。要するに、「写真を置いた犯人も問題だが、今問題なのはそこではない」ということだろう。


 頭が真っ白になる。まず、何からすればいいのだろう。否定? 否定した場合、どうなる。分からない。潔く認めた方が後が楽か?


 どうすれば一番傷が浅いか考えているその時だった。

「ちょっと待ってください‼︎」

 勢いよく生徒指導室のドアが開け放たれた。

 何事か、と振り返った視線の先。逆光の中、長い前髪の少女が一人立っていた。

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