幕間その二 輪郭をなぞる(カナ視点)
「是非っ‼︎ 協力させてください!」
つい身を乗り出してしまった。コップが大きく揺らぎ、赤月さんがソファ席の上で後ずさる。
「え、おぉう、びっくりした」
「あ、すみません。でも、絶対に協力したいなって思って。優衣ちゃん、私の恩人みたいな存在なので」
「恩人?」
不思議そうに目を見開く赤月さんに、私はおずおずと切り出した。
「あの……漫研事件って、覚えてますか?」
「ああ、あの。あれ、でしょ。その」
しどろもどろな返答。それで、赤月さんは覚えていることを確信した。
「漫研事件」とは簡単に言うと、私が高一の時に起こした、漫画研究部廃部に対する抗議活動のことだ。漫画などのサブカルチャーを馬鹿にする発言をした先生に反論した結果、私は「入学早々、教師に盾突いたやばい新入生」として、悪い意味で名をはせてしまった。
「あの一件、私は後悔してなかったんです。やるべきことをやった、ぐらいにしか思ってなくて」
確かに、あれがきっかけでやや敬遠されていたが、別にもともと友達は少ない。気にしていなかった。
「でも、高校二年生の時の秋、放課後の教室で、女の子が三人でしゃべってたの見たんです。その三人は周りには言ってなかったけど、みんなオタクだったみたいで『高倉さんのせいで、オタクの肩身が狭くなった』『あの子があんなことするから、オタクはみんなやばいやつだって思われるんだ』って」
「お……」
赤月さんがなんと言ったらいいか迷うように、言葉を漏らす。反応に困らせてしまっている自覚はあったので、手早く続きを口にする。
「私、周りへの影響なんて少しも考えてなかったんだ、ってその時初めて気づきました。もっとやりようがあったのに、頭に血が昇るとすぐに暴走しちゃって」
別に私は悲劇のヒロインになりたいわけではない。好きなものを守ろうと正しいことをしたのに周りに非難されたかわいそうな子になろうなど、おこがましいにも程がある。事実、ばかのひとつ覚えで、周りのことが見えていない私のやり方が、誰かの“好き”を圧迫したのだ。だから、できるだけ平坦に、間違っても同情を誘わないように、私は冷静に言った。
「三人を責める権利は私にはありません。私が腹が立ってるのは、その三人にそう思わせた人たちです。好きなものを守るために必死になって何が悪いんだ。何でそれでやばいやつだなんて思われないといけないんだ。あなたたちは自分の好きなものが簡単にばかにされるのを黙って見てられるのか。ただ、好きなものを守りたいだけなのに」
少し語気が強くなってしまった。一旦コップに口を付け、喉を冷やす。
「でも、自分の下手なやり方で人に不利益を与えたのは事実だし、ずっとやきもきしてました。好きなものを守るために方法ってそこまで大事なのかな、どうして一直線に好きなものを守れないんだろうって。でも」
私は高校生の時のことを頭に思い浮かべる。
腕を組み、つんと鼻を上向かせるまだ十八歳の優衣ちゃん。その口から放たれた言葉。
「『どんな方法であれ、何かを守るために行動できるのって凄いことでしょ』って言ってくれたんです。好きなものを守るために取った私の行動を肯定してくれた」
適当なその場限りの慰めだったのかもしれない。でも、言葉にしてくれて、うれしかった。好きなものを守りたいと思って行動することは何もおかしくないと言ってくれた。
「そうなんだ」
赤月さんは優しく微笑んでくれた。それから、
「その気持ち、分かるかも。俺も優衣が恩人みたいなとこあるし」
「そうなんですか?」
「うん。俺、昔は人見知りで、得意なことも何もないザ・冴えない子供だったんだよ」
「ええ、そうだったんですか⁉」
全く想像がつかない。今、目の前にいる赤月さんはコミュニケーション能力が高く、人気漫画家で、見た目も「冴えない」という言葉とは縁遠い。
「マジマジ。常に自信がなくて、おどおどしてて、独りぼっちで寂しくて。そのことが俺自身嫌で嫌でしょうがなかった。そんな感じだったんだけど、幼稚園の時に優衣に出会ってさ。ずっと教室の片隅で座ってた俺の手を引いて、いろんなものに出会わせてくれたんだ」
頭の中で、昔は活発だったという優衣ちゃんを思い描いてみる。小さな手は、赤月さんと様々なものを繋いでいく。
「それこそ他の幼馴染とも優衣がきっかけで話すようになったし、何もなかった俺に『祐也は絵が上手い』って言ってくれたんだよ。『絵描くのを仕事にできるんじゃない?』って」
「今思えば、子供の言葉なんだけどな」と軽く苦笑し、
「でも、その言葉を真に受けて、努力して、今こうしてマンガ描いてるんだよな。マンガ好きになれたのだって、優衣に言われて、勉強がてら読み始めたのがきっかけだったし」
遠い過去を見るように、優しい目をして赤月さんは言った。
「そうだったんですね。あの高い画力も優衣ちゃんがきっかけだったんだ……。その時に優衣ちゃんのことも好きになったんですか?」
「そうそう……って、え⁉ ちょっ、まっ、その、なん、な、何でそのことを」
今度は赤月さんがぐいっと身を乗り出す番だった。コップの縁がびりびりと震える。赤月さんの顔は面白いぐらい真っ赤になっていた。
自分の動揺具合に我に返ったのか、赤月さんは一旦ソファ席に腰を落ち着ける。まだまだ赤い顔で窺うような上目遣いを私に向けてきた。
「えっと、俺、そのこと高倉さんに話したっけ?」
「いいえ、してませんよ」
「じゃ、じゃあ、何で」
「いや、態度とかからしてそうかなーって。それに、優衣ちゃんに褒められた漫画以外にも、コミュ力とかも向上してますし、優衣ちゃんに見劣りしないようにって思ったのかなーと。自覚なかった感じですか?」
「全くございませんし、高倉さんの予想も当たりです……えー、うわ、マジかよ……」
「まじですね」
「え、待って。優衣も気づいてる⁉」
「それは大丈夫です。でも、他の人なら気づくと思います」
「えー、嘘ぉ……」
「あと、優衣ちゃん可愛いから、うだうだしてたら、すぐに恋人の座埋まっちゃいますよ」
「うぐっ……」
赤月さんはひとしきりショックを受けた後、「えっと、まあ、そのことについてはいいや」とまったくそう思っていなさそうな顔で言うと、
「とりあえず、優衣は今の俺を作ったと言っても過言じゃないんだよ。だから、優衣に見つけてもらった今の俺で優衣に恩返ししたいって思って、今までマンガ描いてきたから」
「そうだったんですね」
「もし俺の描いたマンガが、サブカルって枠を超えて、めちゃくちゃ多くの人に受け入れられたら、自信を持って、雅秀さんの『なんて』って言葉を追い返せる気がする。今はまだ、怖いけど」
赤月さんは少し眉を下げていたけれど、目には力強い光が宿っていた。人によっては「怖い」という言葉を情けないというかもしれないが、私にはそうは映らなかった。
*****
それから、私たちはこれからの方向性について軽く話し合った。
「とりあえず、俺たちが行動するのは優衣の意思を確認してからだな」
「そうですね。でも、優衣ちゃんが本当に自由になりたいって思ってても、私たちにできることってあるんでしょうか? その、お金が……」
もし優衣ちゃんが自由になりたいと答えたなら、一番に出てくる問題は金銭的な問題だ。優衣ちゃんは生活費や学費の一部をお父さんに頼っている。自由になるためには、この頼り先を変えなければならない。けれど、私はまだ家族の扶養下にいる。お金を貸す、などと軽々しく言えないし、言いたくない。赤月さんは収入があるかもしれないが、お金の貸し借りは、書面があったとしてもできれば避けたい。今後、禍根が残らないとも言い切れないからだ。それ以前に、そもそも優衣ちゃんが私たちからの援助を受けたがるとは思えない。
その旨を伝えると、赤月さんは顎を掴んで唸る。
「そうだよな……。俺が家族の話をしようとしたら露骨に避けるぐらいだし。本心では自由になりたくても、人に頼るのを嫌がる可能性が高い」
現にバイトやレポートで忙しくても、あまり心配されたくなさそうだった。
「ってなると、優衣が援助してもらうのを躊躇わない、プラス禍根が残りにくい相手で、経済力もある人ってことになるよな……」
「ぱっと思いつくのは、やっぱり親戚とか、身内の人ですよね。優衣ちゃんの身内に味方になってくれそうな人がいればいいんですけど」
そこまで言って、あれ? と思った。
「そう言えば、優衣ちゃんのお母さんはどうなんですか?」
そうだ。今のところ、優衣ちゃんのお母さんの話が全く出ていない。
少しの希望を乗せて訊いたけれど、赤月さんは苦い顔をした。
「うーん、京香さんか……京香さんはちょっと無理かも」
「まさかお母さんも優衣ちゃんに持論を押し付けてくるんですか?」
「いや、そういう訳じゃないんだけど。良く言えば良妻賢母って感じなんだけど、昔の価値観なのかな、夫の後ろを三歩下がって付いていくって感じで」
「優衣ちゃんを縛り付けるのは自分の意思じゃないけど、旦那さんがそう言うなら、みたいな?」
私の言葉に、赤月さんは人差し指を指して同意した。
「あー、それだ。正直何考えてるか、俺もよく分かんないんだよなー。顔はめっちゃ優衣に似てるんだけど」
「そうなんですか?」
「そうそう。優衣よりは和風な顔立ちだけど。京香さん本人が和服好きみたいで、よく着てるとこを見るんだけど、それもあってザ・大和撫子! って感じの人。確か和裁が得意で、自分でも和服を仕立てたりするって聞いたことある。手先が器用なのは、優衣と似てないな」
優衣ちゃんは手先が不器用なのか。知らなかった。こういうところで、優衣ちゃんと赤月さんが幼馴染というのを実感する。
「奥ゆかしすぎて、自分の意思がないみたいに見えるんだよ。それに、専業主婦で、副業の類もしてないはずだから、京香さんの懐から自由に出せるお金はそんなにない気がする」
「じゃあ、お母さんの協力は難しそうですね……」
それからもう少し話し合ってみたけれど、これといった解決策は見つからなかった。とりあえず優衣ちゃんの意思を確認してからもう一度話し合うということになり、連絡先を交換して今日はお開きになった。
思ったより時間が経っていて、外に出ると、空は穏やかな橙色のグラデーションに染め上げられていた。
帰路をひとり辿りながら、右手に持ったビニール袋を見下ろす。仁藤さんの件の謝礼として、赤月さんがファミレスでお持ち帰りできる品を買ってくれたのだ。
まだ出来立てで温かく、軽く握った右手の関節に湯気が柔らかく当たり続けている。そのうち、水滴になるだろう。
スニーカーでコンクリートの地面をずるずる擦りながら、歩く。そして考える。
優衣ちゃんは今、何を思いながら日々を過ごしているのだろうか。優衣ちゃんは何を考えているのだろうか。どうしたいのだろうか。
ここまで優衣ちゃんの事情に立ち入ることになるとは、初めて会話した時には思いもしなかった。
そうして私は、優衣ちゃんと出会った高校三年生のあの春の日のことを思い出していた。
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