3-5 過去
五限は教師の都合で急遽自習になった。ゴールデンウィークの課題として出された数学Ⅲの問題集を開く。
シャープペンシルをノックしていると、ふいに高倉さんの言葉が頭の中に鮮烈に再生された。
――橋本さんって、何で《ふれーず》でバイトしてるんですか?
――バイトしてる理由の方です。遊ぶお金欲しさにバイトするタイプに見えないし、何でなんだろうって。
何で、と問われると、裏切りとでも言えばいいだろうか。
あたしの父は、娘の好きなことやものにネガティブな意見を持っていた。
男子に交じって泥だらけになって遊ぶことや他の女子と違って野球や虫に興味を持つことを嫌がった。だから、あたしに向けて繰り返し繰り返しこう言うのだ。
「それは普通じゃないよ。他の子たちは、優衣のことを恥ずかしい子だと思っちゃうかもしれないよ。それでもいいの?」と。
趣味以外にも、振る舞いなどについても同じようなことを何度も何度も何度も言われていた。
最初は気にしていなかった。しかし、下手に無視していると、「男子と一緒に野球なんて、みんな幼稚だと思ってるよ」「虫なんて、みんな気持ち悪いと思ってるよ」とさらに言葉を重ねてくる。だから、次第に反発しないようになっていった。自分の好きなものに対する蔑みの言葉を聞きたくなかったし、自分の感性がずれているのでは、と次第に心配になって来たからだ。周りから嘲笑されるかもしれないと思うと、自分の感性はずれてなんかいない、と見栄を張りたくなってしまったのだ。
当時、一緒に遊んでいた子とも、距離を置くようになった。そのまま自然消滅的に関係を断つことができれば良かったのだが、ある時、祐也に「どうして距離を置くのか」と問いただされてしまった。
父に反発しなくなったとはいえ、一緒に遊べなくなったことに内心未練はあった。それを誤魔化して、我慢して距離を置いていたのに、無神経に祐也に「どうして一緒に遊ばないんだ」と問い詰められ、当時のあたしは爆発した。「周りに合わせて遊んでただけだ。野球なんてくだらないことはもうしない」と言ってしまった。
とんでもないことを言ったと気づいたのは、口から言葉を吐き出した後だった。自分の好きなものを、自分の言葉でめちゃくちゃに蔑んだのだ。悪気の無かった祐也にも、ひどいことを言ってしまった。
ただ、その後しばらくの間は自分は悪くないと思いたくて、父の言っていたことは正しいのだと思い込もうとしていた。要するに、男子と混ざって遊ぶのは恥ずかしいことだから、自分が言い放ってしまった言葉には正当性がある、と。しかし、年齢が上がれば、それも無理がある言い訳だと気づく。別に野球だ好きだろうが、虫が好きだろうが、おかしなことはない。それでもまだ諦めが付かず、父に昔の発言についてそれとなく確認したところ、父は言ったことすら忘れていた。
自分の正当性の拠り所がなくなり、絶望した。そしてその時、何かを好きでいる資格が自分には完全になくなったと思った。あんなに蔑んだのに、まだ好きだなどと、どの口が言えるというのか。
あの時は、頭の中がずっとぐちゃぐちゃだった。まず父への恨みが募った。父は「みんな」という言葉を使って、あたしを誘導した。強制するようなことはせず、あくまであたしに選ばせた卑怯さに息が詰まりそうなほど腹が立った。どうせ自分の望む優等生にしたかっただけなのだ。しかし、すぐに自分が取った行動の愚かさへの苛立ちや、自分の大事なものへの罪悪感、普通の女子とは違うものを好きになる感性を持って生まれたことへの悔しさ、なんだかんだ言いつつここまで育ててくれた父への複雑な気持ちでいっぱいになって、決まって最後は、何かを好きでいる資格を失った虚無感に襲われた。
好きなものを失った日々は、本当にやることがなかったし、急に全てがどうでも良くなった。だから、あたしは父のお望み通り優等生を演じ始めた。父に対する一種の反抗でもあったのかもしれない。表では服従している振りをして、裏では一ミリも優等生なんかではない、そんなふうに。
バイトを始めたのもそれがきっかけだ。面従腹背。人手不足だった店長に泣きつかれ、単に断り切れなかったというのもあるが。その上、働き始めてからは、そのことも忘れつつあるが。
何はともあれ、あたしのとっての家はひたすらに窮屈で、呼吸のしづらい場所だった。
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