第36話 僕の家庭教師初日

 今日は、家庭教師のバイト初日だ。先方のお宅は、僕らの家から徒歩20分くらいの距離にあるので、自転車で十分行ける範囲だ。


「ほんっとーに、注意するんやよ?」

「心配し過ぎだって」


 玄関の前でそんな会話を交わす。僕が教えることになった家庭教師の子からのメッセージを見てからというもの、真澄はその子をかなり警戒していて、こんな有様だ。ほんと、心配し過ぎだと思うんだけどね。


「じゃ、行ってくるね」

「行ってらっしゃい」


 そんな見送りを受ける。自転車を走らせている最中は、初対面ということもあって、どう挨拶しようとか、どんな子なのかなと考えていたら、あっという間に相手のお宅についていた。


 表札には「小林」とある。立派な一軒家だ。僕は今の暮らしに満足しているけど、それでも、たまにもうちょっとスペースがあればなあと思う事があるので、広そうなのは羨ましい。


「こんにちは。家庭教師の松島まつしまです」


 インターフォンを鳴らして、名前を名乗る。ぱたぱたと軽い音をたてて出てきたのは、まだ若い……30代くらいだろうか、そのくらいの女性だった。身体も引き締まっていて、健康的な感じがする。


「松島さん、今日はどうもご足労いただきありがとうございました。小林和佳子こばやしわかこと申します」

「いえいえ。こちらこそ。改めまして、松島宏貴まつしまこうきと申します。今日からよろしくお願いします」

「では、お上がりください」


 言われて、家の中に上がる。動きぶりにも上品さが伺えて、その若さも相まって、いい所のお嬢様だったんだろうなというのが伺える。


「それで、改めて確認なんですが……」


 そう言って、再度、家庭教師としての仕事や給与を確認する。知り合い経由での依頼だったのだけど、信頼関係を大切にするようにというアドバイスをいただいている。中でもお金の問題は、相違がないようにきっちりしろ、とも。


 幸い、妙な拗れ方をすることはなくて、すぐに条件面での確認は終わった。すると、


「では、娘を呼んで来ますね」


 と、小林さんのお母さんが部屋を出て行った。


 きっちりしている人だな、というのが第一印象で、これなら、真面目に教えていけば大丈夫そうだ、というのが正直な感想だった。


 少し待つと、お母さんと一緒に、年下の女の子が部屋に入ってきた。髪は染めておらず、セミロングでツーサイドアップにしてある。少し小柄な子で、親しみやすい笑顔を僕に向けてくる。


「はじめまして、松島先生。小林かなえといいます。よろしくお願いします」


 そんな型通りの挨拶する小林さん……いや、かなえちゃん(名字だと区別できない)だけど、先日から既に何度もラインでやり取りしている。


「ご丁寧にありがとう。ええと……かなえちゃんと呼んでいいかな?」

「はい。大丈夫ですよ」


 お母さんの手前か、そんな風な丁寧な言葉遣いだけど、それが素でない事はわかっている。ラインでの彼女はもっと砕けた……悪い意味でいうと、慣れなれしい感じだったからだ。


「では、娘をよろしくお願いしますね」


 と去るかなえちゃんのお母さん。


「じゃ、案内するね、センセー」


 お母さんが去ったのをみたのか、途端に言葉遣いが砕けたものになる。


 そして、かなえちゃんの部屋に入った僕だけど、そこは、いかにも「女の子」している部屋だった。化粧台は当然として、部屋の色も明るい感じ。ファンシーなぬいぐるみが所狭しと並べられている。一方で、きっちり整理整頓されていて、しっかりした子なのだなという事もわかる。


「センセー、私の部屋に興味深々?」

「別に何もないよ。しっかりしてるなって思っただけ」

「やった。褒められた♪」


 無邪気に喜んでいるけど、所作がどこかあざとい気がする。


「じゃ、授業を始めようか」

「えー、センセー。もうちょっとお話しようよー」


 駄々をこねるかなえちゃん。なるほどね。真澄が警戒するのもわかった気がする。ただ、ここで、いきなり冷たく対応してもまずいだろう。


「わかった。手短にね」

「じゃあ、しつもーん。センセーは彼女居るんですかー?」


 いきなりな質問だけど、真澄はまさしくこういう展開を危惧していたので、動揺はない。


「いるよ。というか、実は、結婚してるんだ」

「ええー!?センセー、まだ大学生でしょ。凄くない?」


 変な隙を見せないように、さっさと結婚してる事を明かしてみると、かなえちゃんはびっくりしたようだった。


「まあ、珍しいよね」

「その奥さんとどうやって知り合ったの、センセー」


 興味深々という様子で掘り下げてくるかなえちゃん。さて、どう言ったものか。


「真澄……ええと、奥さんの名前なんだけど、小学校の頃から一緒だったんだ」

「えー。幼馴染ってやつ?すっごい運命的ー」


 かなえちゃんが、目をキラキラと輝かせている。まあ、珍しいといえば珍しいのだけど、そこまでのことかな。


「別にそんな運命って程でもないよ。僕がずっとアタックしたのに、気がついてくれなかったし」

「え、なになに、それ?こう見えて、センセー情熱的」

「こう見えてって、君ね」

「聞かせてくださいよー。色々」


 というわけで、かいつまんで、付き合うに至った経緯とかを話したんだけど。


「はー。もう、センセーったらラブラブなんですね。よっくわかりました」

「まあ、ラブラブ……かな?」

「惚気けないでくださいよ。じゃあ、授業はじめましょうか」


 気がついたら、かなえちゃんの言葉が敬語に戻っていて、しかも、なんだか、呆気にとられた、という感じだった。


「ん?じゃあ、そろそろ始めようか。まずは、数学からかな……」


 どうも、特に数学が苦手らしいので、そこから始めることにする。


「わけわかんない記号だらけで、さっぱりなんですよ」


 とは彼女の弁。まあ、基本がわからないとそう見えちゃうよね。


「じゃあ、まずは初歩からかな。微分はわかる?」

「わかりません。さっぱり」

「じゃあ、方程式は?中学でやったよね」

「それもさっぱりです」

「1次方程式も?」

「1次とか2次とかがわからないです」


 なんと。方程式がわからないというのはかなり深刻だ。しかも、1次方程式も。その上に積み重ねる形で、中学数学も高校数学もあるのに。これは、一から教え方を考え直す必要があるなあ。


「中学の教科書はある?」

「は、はい。残ってますけど」

「じゃあ、それを出して」


 基礎からみっちり教える必要がありそうだ。


 それから、約2時間余り。


「今日はこれくらいかな。お疲れ」

「すっごい疲れました」

「でも、少しはわかったでしょ?」

「はい。センセーってホント凄いんですね」

「いや、別に中学数学の基本を教えただけだけど」

「学校のセンセーの授業全然わからなかったんですよ」

「そんなものかな」


 どうにも、その辺の実感が湧かない。


「センセー。これからも、よろしくお願いします」


 帰る頃には、かなえちゃんの僕を見る眼差しがすっかり変わっていた。まあ、真澄が警戒していたような色仕掛けにはならなかったので、良かったかな。


 小林家を出て、ささっと家に帰ると、真澄が出迎えて来た。


「コウ、大丈夫やった?あの子に変なことされへんかった?」


 真澄はやっぱり相当心配だったらしい。


「大丈夫だったよ。結婚したって事を言ったら、それで引いてくれたみたい」

「そうなんか。ほっとしたわ」


 本当に、ほっとしたようで、胸を撫で下ろしている。


「ただ、色々基礎から教え直す必要がありそう」

「それ気になるな。後で教えてや」

「じゃあ、夕食の時にでも」


 ということで、真澄が警戒していた初めての家庭教師は無事に終わったのだった。


 しかし、なんで、あんな態度が急変したんだろう。


(結婚した、ということを伝えたからだろうか)


 僕は首をひねるのだった。

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