8■フィアルクロック村の海2

 カナタとソフィアがホールで午後のお茶をしていると、表に馬の蹄の音がした。シーラは村長の付き添いで塩田の作業を見に行っている。


「誰か来たようだな」


 ソフィアが席を立って玄関ドアに向かうと、ドアノッカーが鳴らされる。扉を開けると、くすんだ金髪の髪と髭は油で整えられた身なりの整った男が立っていた。だが何度も立ったり座ったりした皺がズボンについており、生地質は大したことはない。貴族ではない。


「こちら、フィアルクロック男爵邸でよろしいか?」

「そうだが、おぬしは?」

「先触れもなく申し訳ない。ノシュテット子爵領上級内務官メルケル・ヤンソンと申す。此度はフィアルクロック男爵にお話があり、参りました」

「そうか、入るが良い。ちょうどお茶を入れていたところだ」


 ソフィアはカップを取りに壁の棚へと向かう。

 カナタは立ち上がる。


「わたしがフィアルクロック男爵カナタ・ディマだ」


 ヤンソンの表情が曇り引き攣る。成人したばかりの本当に若い領主だ。


「噂には聞いておりましたが、本当に若くていらっしゃる」

「ええ、若輩者には過分の地位を頂きました」

「ご謙遜を」

「さあ、お座りください。寒村ゆえ何もございませんが」


 ヤンソンが座ると、ソフィアがカップを置き、紅茶を注ぐ。


「つまむものは黒パンくらいしかないが、一口召し上がれ」


 少女がそう言う。


「は、はあ……」


 黒パンしかないとは本当に寒村なのだろうと、ヤンソンは考える。しかし、勧められてしまっては食べない訳にもいかず、テーブルの中央にあるパン皿に手を伸ばし、切られた一枚を手に取り、摘まんで食べた。


「なっ、なんですかこれは!」

「黒パンですよ」

「こんな美味しい黒パンは食べたことがありません!」

「これはこの村のライ麦で、彼女、ソフィアが作ったものです。お気に召しましたか?」

「ふふん、わたしが作ったのだ」


 芳醇な麦の香り、密度の高さ、さわやかな酸味、正直、買い占められるなら買い占めてしまいたいほど。いつまでも食べていたい。そう思わせる。


「それで、御用の向きは?」


 メルケル・ヤンソンはその言葉に現実に引き戻される。


「あ、ええ、実は、フィアルクロック男爵が海から塩を作っていると聞き及びまして」

「はい、作っております」

「それで、その作製方法をご教授頂きたいと思いまして」

「塩の作製方法は秘密です」


 回答はにべもない。当然だろう。


「む、そこをなんとか。これはノシュテット子爵のご意向でありますぞ?」


 フィアルクロック男爵はじっと考えると、大きくため息をついた。


「そうですか、近隣領地のよしみですし、仕方ありませんね……」


 そう、上の爵位を出せば下の者は平伏するしかないのだ。


「条件付きで、金貨1000枚でお売りしましょう。金貨1000枚ならノシュテット卿の上着のポケットに入っている金額でしょう。それ以上の譲歩はできません」


 金貨1000枚というのは、ノシュテット子爵領としては現実的な数字だ。払う気があればの話だが。だが、最終的に値切るとしても、その条件とやらを聞いてみる必要はある。


「その条件とは何ですかな?」


 フィアルクロック男爵は少し考える。


「これは、ノシュテット卿へのお願いなのですが、あなたにお話して良いものでしょうか?」

「もちろん、製塩法の件については私が全権を与えられております」


 いいから話せ、こいつ……。


「そうですか。そんなにおかしなことではないので、聞き入れていただけると嬉しいです」

「さあさあ、勿体付けずに言ってくだされ」


 男爵はコホン、と一つ咳をして、言った。


「一つ目、エストリン商会からの上納金を貰うのをやめ、法の下、穀物の独占を取り締まること。二つ目、エストリン商会と繋がりのある『蛇の鱗』を取り締まること。この二点です」


 ヤンソンは青ざめる。これは立ち入ってはいけない領域だ。内務官なら誰でも知っていて、絶対に触れてはならないタブー。それを冒すということは自分の死に直結することだった。


「どうしました?」

「そ、それは……」

「わたしは国法を守り、犯罪組織を壊滅してほしいだけです。何かおかしいことを言いましたか?」


 表面上男爵の言っていることは正しいが、表面下でそれがどういうことか、この若造は知っている。


「あ、いえ、しかし……私が、それを子爵に……」

「しかたありません、では、ここで譲歩を一つ。条件を一つ目だけに絞りましょう。エストリン商会の穀物の独占を取り締まり、上納金を受け取るのをやめる。これでどうです?」


 二つ目の条件はともかくとして、一つ目の条件はまだマシだ。海塩の製法から生まれる利益を考えれば、穀物独占の上納金などたかが知れているはず。


「むう……」


 しかし、ヤンソンの判断では十分だと考えるにせよ、この条件をノシュテット卿が飲むかと言われれば、難しい……。


「欲張りなノシュテット卿への説得が難しいようですな。では、その条件も取りやめと致しましょう。金貨1000枚だけで結構」


 この男、分かって言っているのか!


「そこまで分かっていてなぜ無理を仰った?」

「領民の安全のためです」

「領民の安全、とは?」

「我が領民を誘拐して製塩法を聞き出そうなどとされては困るからです。エストリン商会ならばそれくらいするでしょう。蛇の鱗ならばそれくらい容易いでしょう。ノシュテット卿がそれらを使って工作する可能性を消したかったのです」

「な、なんと、ノシュテット卿を侮辱する気か!」

「あなた自身、まったくするつもりがなかった、と?」

「と、当然だ! 私を犯罪者扱いするつもりか!」


 それは嘘だ。蛇の鱗どころか、警備兵を使った誘拐を、最後の手段として最初から選択肢に入れていたのだ。


「これは失礼した。あなたのような法に忠実な官吏を侮辱してしまい、申し訳ない。この通り、許して下さい」

「ふ、ふん、分かれば良い……」


 だが、もう一点、この若造が忘れていることがある。それは、買収だった。


「わかりました。では、製塩法の代金として金貨1000枚ということで。その旨ノシュテット卿へ」

「フィ、フィアルクロック卿の意志は分かった。持ち帰ってノシュテット卿と協議いたします」

「よろしくお願いします」



 ヤンソンが去って扉が閉まると、ソフィアは大きく息を吐いた。


「最初はどうなることかと冷や冷やしたぞ……」

「これで、向こうが恥知らずでなければ、露骨に誘拐など出来なくなる。どうにか足を縛って、領民の安全だけは確保できた、かもしれない」

「なるほどな、それが目的だったか。エストリン商会と蛇の鱗については良いのか?」

「エストリン商会の独占についてはもう手を打ってある。蛇の鱗は……これから絡むことになるかどうか……。ただ、蛇の鱗と敵対することになるのなら話はシンプルだ。ただの殺し合いだろうからな」

「エストリン商会は殺すほどじゃないが、蛇の鱗は殺していい相手、か……」

「何かおかしいか?」

「いや、おぬしなりの基準があるのだなと思ってな」

「当然ある」

「しかし、おぬし、ほんとう舌がよく回るな」

「舌なんてそう回るもんか。何度もこうなることを考えて、何度も喋る内容を考えていただけだよ」

「貝と黒パン食べてただゴロゴロしていたのではないのだな。あはは!」

「なんだと!」



 ノシュテット子爵ヴィクトル・ノシュテット、その名の通り、姓が街の名となっている。先祖が過去、辺境西進の際にサンダール家の重臣として北端を担当したのを始まりとし、領都サンダールと同様に、拠点となる要塞が発展して壁を増やし街となったものである。

 ノシュテット卿は内務官メルケル・ヤンソンの報告を聞き、一喝する。


「この間抜けが! 誘拐するなと嫌味を言われに行ったようなものではないか!」

「しかし、閣下……」

「ヤンソンよ、おぬし、その気が無かったなどと言うつもりはないだろうな?」


 ヤンソンは何も言えなくなる。そして今さら気づいたのだ。最初からあの若造はこうさせるために話を進めていたことに。


「閣下、しかしながら、もう一つ方法がございます」

「ほう、もしや、買収か?」

「その通りでございます」


 買収に法的な罰則などない。


「そのフィアルクロックの小僧はそれについて気づいていなかったのか?」

「はい、誘拐に気づき、買収に気づかぬあたり、まだ若造と思われます」

「分かった。必ず塩の製法を手に入れるのだ」



 数日後、フィアルクロック村に、近くの村から来たという男たちが現れた。


「ここで塩を作ってると聞いてなあ。良かったら少し分けてもらえねえか」


 領民は快く応じ、塩を保管してある倉庫へと案内した。


「1kg袋、10くらいでいいかあ?」

「ああ、助かる」

「1袋銀貨1枚だあ」

「なっ、金を取るのか?」

「当たり前だあ。どこに行ってもそれくらいするだよ」

「分かった、払おう。ところで、塩の作り方を教えてくれねえか?」

「無理に決まっとるだろう。作り方教えてほしきゃ、領主様のところへ行け」

「うちの村は貧乏でなあ、塩を作りたいんだ。頼むから教えてくれ……」


 男たちは縋るように領民に頼む。


「無理無理、そんなことしたら領主様に叱られちまう」

「もちろん、ただでとは言わねえ。金貨1枚でどうだ?」

「金貨1枚なんてこの村で働けばすぐ稼げる額だ。そんなはした金で教える馬鹿はこの村にはいねえよ」

「じゃあ、金貨10枚でどうだ! これなら!」

「ははあ!」


 領民の一人が笑った。つられてもう一人も笑う。


「これ、領主様の言ってたやつだ!」

「はは、これかあ!」


 男たちはどういうことかと領民を交互に見る。


「金貨持ってる農民なんていねえ。それに、金貨10枚なんて、この村で1年あれば稼げる額だあ。そんなはした金でえ、領主様裏切る馬鹿はこの村にはいねえよお!」

「ヤンソンとかいう馬鹿にそういってやれ!」


 その声を聞きつけた領民が集まって来た。


「そうだそうだ! 帰れ帰れ! 馬鹿ヤンソンが!」

「帰れ、馬鹿ヤンソン! 石ぶつけるぞ!」

「馬鹿ヤンソン! 馬鹿ヤンソン! 馬鹿ヤンソン!」


 男たちは領民の馬鹿ヤンソンコールの中、逃げるようにして去って行った。



「ヤンソンの手の者と思われるものを手はず通り追い返しました」

「そうか、報告ありがとう」


 カナタはホールにてアンドレ村長と話をしていた。


「いえ、製塩法が他に漏れれば、利益が少なくなり賃金が下がるのですから」

「アンドレ村長は賢い方だ。本当に助かったよ。あなたがいなければ、製塩法を漏らすデメリットを領民に説明するのが難しかった」

「たくさん作って売る人間が増えれば安くなります。それくらい子供でも分かります」

「そうだな。追い返してくれた2人には、銀貨1枚やってくれ」

「はい、わかりました」


 カナタは一息ついて考える。言うべきか言わぬべきか。


「アンドレ村長。一つ相談があるのだが」

「私ごときに答えられるものでしたらなんなりと」

「この先、ノシュテット卿とその手先であるヤンソンは強硬手段にでるかもしれない」

「と、申しますと?」

「誘拐だ。領民を無理やり攫って痛めつけて製法を吐かせるかもしれない」

「なんと! そのような非道な……」

「一番知っているあなたを狙うかもしれないが、あなたには常にシーラかソフィアをつけているので大丈夫だ。ただ、領民全員を護衛することは叶わない」

「それでは、なんとしますか?」

「攫われることに対しては、現実的に何もできない。ただ、攫われたらわたしが助けられるよう細工をしたいと思う。それで協力してもらいのだ」


 日没後、村長は領民の家長を中心に男爵邸のホールへと集める。


「わたしは皆とこの村で幸せに暮らしたい。皆が幸せでなければ、私も幸せではいられない。だから、皆の幸せはわたしの幸せと言って良いと思う」


 カナタはそこで言葉を切る。

 領民はカナタが何を話すのかと不安と期待で聞いている。


「諸君、村長から聞いたと思うが、この村に脅威が迫っている」

「誘拐というのは本当なんか!」

「そんなあ!」


 領民は口々に嘆き始める。母親が子供を抱きしめ、父親は母親を抱きしめる。


「しかし!」


 そのざわめきをカナタは切って捨てた。


「安心していい。もし、皆が攫われるようなことがあれば、わたし自らが助けに行く」


 領民はごくりと唾を飲む。


「そんな、どうやってだあ?」

「いくら男爵様でも子爵様にはかなうめえ!」

「そうだそうだ!」


 カナタはゆっくりとホールを横切るように歩く。壁際に置いた机の上から紙を一枚取ると、再び中央へと戻る。カナタは手に持った紙をゆっくりと高く掲げる。


「見るが良い」


 その瞬間、紙が燃え上がり、その場で煙となって消える。


「わたしは魔術師だ。子爵などにはできないことも、わたしなら出来る」

「おお、なんと!」


 領民たちの声が湧き上がる。


「これから、誘拐されても助けに行くためのまじないを皆に施そうと思う。これが無ければ助け出すことは不可能だ。よく聞いてほしい」



 第4001分隊警備分隊長は事の顛末をメルケル・ヤンソンへと報告する。工作兵が馬鹿ヤンソンコールをされて追い返されたことだ。


「な、なんだと!」

 ヤンソンは頬をぶるぶると震わせつつも、その怒りを分隊長にぶつけないよう我慢する。


「完全にばれてました。あそこまで領民に徹底して緘口令を敷けるなど、全く予想外です。フィアルクロック男爵とやらは相当のやり手ですね」

「お前たちの失敗でないことは分かった」


 ヤンソンは頭を抱える。フィアルクロック男爵に完全に上を行かれている。誘拐への嫌味もそう、そして、買収への対応もそう。


「こうなったら、やるしかあるまい……」

「分かりました」


 分隊長は敬礼すると退室していった。



「ったく、あの方も本当に恥知らずなお方だ……。いや、恥知らずなノシュテット卿に従うなら仕方ないか」

「分隊長、そのようなことを言っては首が飛びますよ?」

「そのときはおまえたちも一緒だ。ははっ!」

「笑えねえ……」


 ノシュテット警備兵団の第4001分隊は事実上、ノシュテット卿の私兵であり、複数いる内務官直轄の10人程度の工作部隊であった。

 警備兵団がの編成が、10人程度の分隊、30人程度の小隊、100人程度の中隊、300人程度の大隊、そして全体である1000人として系統立てられているところから、第4001分隊は外れており、その作戦・業務内容は犯罪じみたものばかりだ。


「夜だと村の中央の家に籠るからな。昼に畑仕事をしているところを数人攫うぞ」

「よくあるやつですね。余裕です」


 分隊長の命令に兵士たちは各々頷く。



 第4001分隊は速やかに作戦を実行に移す。真昼間に村の南西から3人一組の3つの班で侵入し、農作業をしていた領民男性を3人、拉致する。それはあっという間の出来事であった。


 カナタがそれに気づいたのは、日没になっても戻らないと家族がいると村長へ連絡があってからだった。


 そこは薄暗い地下室。鉄格子の嵌った高窓と、鉄の格子戸の他、冷たい石造りの壁と床に囲まれ、家具は、机と椅子と燭台しかない。

 ここは第4001分隊が使う兵舎の地下だ。3人の領民は後ろ手で縛られ、木の足枷をつけられ、椅子に座らされる。分隊長が座る机の横では副長と班長が座る机がある。班長が供述を筆記しようとインクにペン先をつける。分隊の兵士が2人、領民3人の背後についている。


「さあ、塩の製法を話してもらおうか」


 分隊長は机の上に両肘をつき、指を組んだ。


「酷いことはしないでくれえ!」

「ああ、しないとも。素直に話せばすぐにでも解放する」


 実際は、塩田の試作が終わるまでは解放するつもりはないのだが。


「話す、話すから!」


 領民3人が3人ともそんな調子だったので、分隊長は不審に思って尋ねる。


「フィアルクロック男爵は話しても良いと言ったのか?」

「もし攫われて酷いことをされそうになったら素直に話せと……」


 ふむ、なんと領民思いの領主か。誘拐まで推測し、その際の領民の安全まで気にするとは。分隊長は自分の上司を思い浮かべ、思わず分隊副長と目を見合わせ、肩を竦める。


「では、話してもらおうか、書記、頼んだぞ」

「はっ!」


 領民三人は素直に話した。手順はちぐはぐだったが、相互の欠点を埋め合うように説明する。浜辺から丘側へと浅く掘り、満潮時のみ海水を導けるよう水路を作り、浅いプールを作ってそこで海水を蒸発させる。それを何度か繰り返して塩水を濃くする。その高濃度の塩水を煮沸し、塩を結晶化させる。

 規模や形についてはフィアルクロック男爵領を見れば分かるだろうとのことだった。見ただけで分かることについてはメルケル・ヤンソンが既に調べ上げていたため、主に仕組みと運営方法が分かれば良い。


「よし、結構だ。つれていけ」

「か、解放してくれるんじゃないのか?!」

「もう数日はいてもらう」


 兵士3人は領民3人を牢へと連れてゆき一つの房へと入れ、扉を閉める。



「これが供述書です」


 分隊長は内務官舎へと移動し、供述書の写しをメルケル・ヤンソンへと提出する。


「そうか、よくやってくれた! 最初からこうしておけば良かったのだ!」


 ヤンソンは熱心に供述書を読み込むと、何度も感心するように頷く。


「なるほどな、これで分かった。すぐに入浜式塩田とやらの試作を行おう」



 日没後、カナタは、屋敷の前に領民全員1000人を集めていた。屋敷の前には焚き火があり、黒煙と赤い炎を揺らめかせている。


「全員揃ったか?」


 カナタはアンドレ村長に訊く。


「はい、全員です」

「よし。これより、誘拐された領民3人を取り戻す儀式を行う」


 領民たちは驚きと期待にざわめく。


「順番はどうでも良い。焚き火に向かって一列に並びなさい」


 皆素直にとぐろを巻いた列を作り始める。


「これから、先日渡したまじないの紙をこの火にくべるのだ。これは、皆の願いが強いほどに効果がある。必死に念じて火に入れなさい」


 その紙片には小さく魔術陣が描かれている。皆何が起こるのかと期待しつつ、その紙片を火にくべてゆく。家族が誘拐されたものは強い願いを込めて。

 紙は一瞬で燃えて黒いすすと赤い炎へと変わる。列はゆっくりと進み、次々へと紙が燃えてゆく。そして、儀式は終わる。


「よろしい。誘拐されたものたちは今夜戻るだろう。特に、家族が攫われた者もいるだろうが、安心して待っていてくれ」


 領民はその摩訶不思議な光景に夢心地で家路へとつく。


「こんな魔術があったんですね! すごいです! さすがカナタさんです!」


 シーラは感心したようにぴょんぴょん飛び跳ねて喜ぶ。

 一方、ソフィアは呆れたように目を細め、儀式をする領民を見ていた。


「そんな魔術あるわけなかろう。カナタよ、おぬし、ペテン師じゃな……」

「それっぽいだろ?」

「え、あれって魔術じゃ無いんですか?」

「ああ、魔術じゃない。魔術はこれから使うんだ。さて、皆が寝るまで待とうか……」


 遅い夕食を済ませ、カナタは時間を潰す。



 深夜、まだ焚き火は点いていた。カナタは屋敷の前に埋められた魔術陣の石の上に立つ。


「それじゃ、行ってくる」

「いってらっしゃい!」

「気を付けてな」


 シーラとソフィアに見送られ、カナタは集中する。そして、体の中の魔力を歪んだ形にする。


『転移』


 そこは牢の中だ。薄暗い房の中、高窓からぼんやりした月明りだけが差し込んでいる。男たちが三人、石の床のうえでいびきをかいて寝ている。

 カナタはメッセージを書いた紙を床に置くと、寝ている三人に触れた状態で再度転移を行う。


『転移』


「ただいま」


 そこは屋敷の前の転移魔術陣の石の上だ。もちろん、領民三人も一緒だ。


「うう……」


 転移時の気分の悪さのせいか、領民が目を覚ます。


「ここは? わしは、あれ?」

「無事でよかった。助け出したぞ」

「なんと、おお、領主様! 約束通り領主様が助けてくれたぞ!」


 三人は肩を組んで喜び合っている。


「さあ、儀式の最後だ。君たちに預けたお守りを、この火に入れるんだ」

「わかりました!」


 三人は懐から、靴からと、折りたたんだ転移魔術陣の紙片を取り出すと、火の中にくべる。


「よし、これでまじないも取れた。各々、家に帰るが良い」


 領民はなんども礼を言いながら、自分の家族の眠る家へと帰って行く。


「なるほどー、こういう仕組みだったんですねー」


 つまり、領民全員に転移魔術陣を持たせ、領民が誘拐されたあと、誘拐された者以外の転移魔術陣を燃やす。そうすることにより、残った転移魔術陣に転移することができるということだ。これは転移魔術から目を逸らすためでもある。


「すごいというか、よくもあんなペテンを思いついたものだの。宗教家にでもなれるのではないか?」

「はは、ディマ教でも開くか!」

「それじゃ神と混同するだろうに……」


 次の日の朝、カナタの不可思議な魔術により村民が救い出されたことが村全体に広がり、カナタを崇めるような雰囲気に染まっていたのだが、当のカナタは気づいていなかった。



 次の日の朝、領民の脱走に気が付いた兵士は分隊長へと報告した。


「なんだと? 領民がいなくなっただと?」

「それが、こんなメッセージが残されておりまして……」

「むう……」



 分隊長はすぐにメルケル・ヤンソンの部屋へと報告しに行く。


「入れ」


 分隊長は敬礼した。


「閣下、捕らえていた領民が攫われました」

「攫われただと? 領民が?」

「ええ、つまり脱走です。見張りがいたにもかかわらず、ドアもどこも開けず、どこかに消えてしまいました」

「そんな馬鹿なことがあるか!」

「ええ、そんな馬鹿なことがあったのです。これを見てください」


『ノシュテット子爵領内務官メルケル・ヤンソン閣下へ

 誘拐ご苦労様。

 あれだけ釘を刺したというのに、馬鹿で恥知らずなあなたはわたしの領民を誘拐した。

 次にわたしを怒らせた場合、誘拐には誘拐で対抗することになる。あなた自身を誘拐し、どこぞの海辺の小屋にでも閉じ込めてやろう。

 それが出来ないとは、今さら思わないだろ?

 わたしの領民は保護してゆく。さらばだ。

  フィアルクロック男爵カナタ・ディマ』


「こ、これはどういうことだ!」

「どういうことだと申されましても、分かりません。こういうことです。私の方でも急ぎ、フィアルクロック男爵領に偵察を出しましたが、誘拐したはずの領民が戻っており、村はお祭り騒ぎとなっております」

「何と言うことだ?! なぜだ!」

「浮かれた領民が言うには、男爵がなにやら火を焚き、領民全員でまじないをしたところ、男爵が領民を救い出したと。正直なところ、我々ではこのような魔術に対応のしようがありません……」

「あのクソガキがあああああ! 何から何まで馬鹿にしおってからに!」


 メルケル・ヤンソンは激高し、両腕で机を何度も叩く。


「内務官閣下、落ち着いて下さい!」

「これが落ち着けるか!」

「製塩法は分かったのです。これは、小手先で負けていても、大きな局面では勝っていることではありませんか?」

「くっ……、確かに貴殿の言う通りだ。そもそも、製塩法さえ手に入ればいいのだ。ここは落ち着いて製塩事業に邁進するしかないか」

「男爵がどのような魔術的手段を使って領民を取り戻したのか分からない以上、改めて手を出すには危険な相手かと思われます。どちらにせよ、我々では対応できません。ここは、大局的勝利に乾杯しようでありませんか」


 正直なところ、分隊長はフィアルクロック男爵などというヤバい存在をいつまでも相手にしたくなかった。最初から全部こちらの動きが読まれ、すべて回避されているのだ。できれば男爵側に付きたかったと、内心自嘲気味に思う。



 カナタ達は昼食後、屋敷のホールで三人でお茶を飲んでいた。


「ふう、今回も面倒だったが、終わったな……」


 カナタはソファの背凭れに寄り掛かるとぐっと伸びをする。


「製塩法が伝わり、領民が返ってきて、これからちょっかい出してこなくなるとは思うが、製塩法をタダでくれてやって良かったのか?」


 ソフィアが不審な目でカナタを見た。


「ああ、製塩法の情報を流したことで、ちょっかいはなくなる。だから意図的に流した。でも、大丈夫だ」

「何が大丈夫なんです?」


 シーラが首を傾げる。


「粘土については言わないように、村長と領民には言っておいたからな。あの三人も、粘土については死守してくれたそうだ」

「そうだったんですか。粘土敷くの大変だったですもんね」


 塩田は水が地下に沈まないよう、底を粘土で固めている。表面が砂だから見た目では分からないだろう。


「今頃、いくらやっても海水が沈んでゆく塩田の試作を作って、悩んでいるところだろうさ。かといって、また誘拐する勇気はないだろ」

「まったく、おぬしは、魔術師というよりは、ペテン師だのう。感心を通り越して呆れてしまうわ」


 ソフィアは大きな息をつく。


「カナタさんはすごいですから。さすが未来の旦那様です!」

「だから勝手に決めるな!」

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