3■黒パンのメッセージ3

 カナタとシーラは朝食を終えると馬車を走らせる。

 この街は魚臭い。あちらこちらの店先で鮮魚が売られ、魚が干されている。それがまた、地域性というか風情があっていい。あれはタラだろうか、1mを越える魚が並んで干されている。

 馬車はノシュテットの北側にある魔術学院へ向かっている。北に向かってなだらかな下り坂となり、魔術学院の向こう側は漁港だ。立派な門構えの魔術学院の門をくぐり、駐車場に馬車を止める。


「少々伺いたいことがありまして」


 入口の窓口で事務員に声をかける。


「どのようなご用件でしょう?」

「高貴な身分の方から依頼され、とあるご令嬢を探しているのです」

「と、申しますと?」

「この春、学院を卒業したはずの、ソフィア・ニーダールという男爵令嬢です」

「少々お待ち下さい。名簿を持ってまいります」


 事務員は二人をソファに案内し、対面で名簿をめくる。


「ありました。ソフィア・ニーダール。特徴としては、黒髪、黒瞳。他に、首席卒業とありますね」

「優秀ですね」

「んん?」


 シーラは何か変な感じがして首を傾げる。


「何か、他に特徴を覚えてませんか?」

「首席卒業なら先生方が覚えているはずですね。あ、アベニウス教授!」


 事務員は席を立つと、丁度事務室に入って来た男に声を掛けた。少しあれこと説明すると、アベニウス教授はにこやかに笑った。


「それはあれだよ、『天才黒パン』だよ」

「ああ、天才黒パン! いつも黒パンを食べていたあの子ですか!」


 あれ……?


「これって、あれですよね?」


 シーラがカナタの顔を覗く。


「あれっぽいな……」

「彼女は優秀でしたが、かなり気難しい子で、言葉遣いもなんというか、不遜というか」

「「あれだ!」」



 夕食を終え、六の鐘を待ち、『早起き鳥』に行く。少女が待ち構えていて、黒パンはでき上って紙に包まれている。


「エドガーはもう寝とるから、心配なくそのマジックバッグの中に突っ込んでいけ」


 せかす少女の言う通り、黒パンの包みを鞄に放り込んでゆく。


「本当に入るもんだな。それ、わたしも欲しいぞ」

「持っていたらいたで、それは付け狙われる原因にもなりかねないからな。一番容量が小さいのでも金貨100枚はするから」

「金貨100枚……。ほう、冒険者というのは儲かるものだな」


 魔石無しのオーク1匹が金貨1枚だ。まあ、金貨100枚稼ぐのも現実的な範囲だろう。


「よし、わたしも冒険者になろう。黒パンはエドガーから十分学んだから卒業だ」

「は?」

「え?」


 シーラまで思わず間抜けな声を出してしまう。


「ちょっと待って。その前に話したいことがある。ソフィア・ニーダール嬢」


 ソフィアは一歩下がり、狂犬のような顔つきになる。目の前に上げた小さな掌に陽炎が上る。


「どうしてわたしの名を知っている?」

「敵対するようなことは全くない。警戒を解いて欲しい」

「そう言われて警戒解く馬鹿がいるか? まさかエストリン商会の……」

「フィアーグラン卿からの依頼だ」

「フィアーグラン卿……、辺境伯か? 本気で言っておるのか?」

「辺境伯は、無理を言って領都に留めているニーダール夫妻を思って、代わりに音信不通のあなたの安全を調べてきて欲しいと言われた。それで今日、学院へ行って人となりを聞いたら、天才黒パン、と聞いたんだ。ここに、フィアーグラン卿の依頼状もある」


 そう言って鞄から依頼状を出す。

 ソフィアはしばらく疑い深い顔をしていたが、納得したのか肩を落とす。


「そうか、お父様お母さまに心配をかけたか……」

「あなたがどういうつもりなのかを訊いて、ご夫妻に報告し安心させてほしいと」

「ふむ……」


 ソフィアはしばらく黙考しすると顔を上げる。


「至急、その黒パンを1斤、お父様とお母さまに届けてもらえないだろうか?」

「構わないが、何かことづけは?」

「いや、食べて貰えば分かるはずだ」

「じゃあ、エストリン商会ってのは何です? 話次第では力になりますよ」

「むう……」

「話してください、ソフィアちゃん。カナタさんは何でもできる人です。頼りになってくれるはずです」


 シーラはそう言ってソフィアを抱きしめた。


「ソフィアちゃんじゃない、わたしはおぬしらより年上だぞ! もう二十歳だ!」


 げ、マジか……。

 そう思ってシーラを見ると。同じく、げ、という顔をしていた。


「ま、おまえたちには関係のない話だ」


 それっきり、何を言っても話してくれなかった。



 次の日、カナタの姿は領都サンダールにあった。ラーベから馬車を借り登城する。さほど待たされることなく謁見場へと通される。


「先触れもなく来るとはなかなかせっかちだな」

「先触れを出す配下がおりませんもので、申し訳ございません」

「冗談だ。カナタ殿は出来る限り通すよう通達してあるが、待たせることもあるだろう。それが気がかりでな」

「いえ、構いません」

「では、部屋を移るとしようか」


 いつもの小会議室へ移る。


「ニーダール夫妻は城内にいるはずだ。オデアン」


 傍仕えオデアンはさっと部屋を出ると、外の誰かに指示を出している。


「それにしても、ノシュテットからの往復で13日とはのう……」


 フィアーグラン卿は何か言いたげに、にやにやとカナタを見る。

 カナタはそれを受け流して答える。


「まあ、運良く旅程が進むこともありますよ。それに、今回はソフィア嬢から急ぐよう言われたので」


 そこでカナタはソフィアのことづけについて説明した。


「黒パンを食べればわかる、か……。ソフィア嬢の話、我々ではまったく要領を得ない話だな」

「ええ」


 慌ただしい足音が聞こえ、ドアが開いた。


「閣下、ソフィアからのことづけがあるとは本当ですか?!」


 二人とも黒髪と黒い瞳の凛とした佇まいの夫妻だった。ニーダール夫人はソフィアほどではないが背が小さく童顔でやたらと若く見える。

 オデアンが大きな木皿と小皿をテーブルに並べ、部屋の端にある予備の椅子をテーブルにつける。

 フィアーグラン卿はそちらに席を移し、カナタの正面に座るよう、夫妻を促す。

 夫妻が座るとカナタは頭を下げた。


「商人カナタです。宜しくお願い致します」

「フィアルクロック男爵ボリス・ニーダールだ。こちらは妻のビルギット」


 カナタはバッグから黒パンの包みを取り出す。予め冷ましておいた一斤だ。傍仕えのオデアンがパンを切り小皿に分ける。夫妻は席に座りじっと黒パンを見る。


「ソフィア様がおつくりになったライ麦パンです。どうぞお召し上がり下さい」


 訳が分からないのか、夫妻は一度目を合わせる。

 躊躇しつつも、二人はその黒パンを齧る。


「これは……!」

「何て美味しい黒パンなの……」

「今、ノシュテットでは彼女が作った黒パンが街で一番おいしいと有名になっております」


 フィアーグラン卿もその様子を見て興味を持ったらしい。


「ほお、わたしも相伴させて頂こうか……おお、これは旨い。オデアン、そなたも食え」

「いただきます。……まあ、これは」


 一同は無言で黒パンを頬張る。


「それで、カナタ殿といったか、娘は何か言ってなかったのか?」


 自分がパンに夢中になっていたことに気づいたのか、ニーダールが慌てたように言う。


 あれ? カナタは固まる。


「このパンを食べて貰えば分かるとだけ、仰ってましたが……」

「ふむ、分からぬのか?」


 フィアーグラン卿は興味深げにニーダールに問うが、彼はゆっくりと首を振るだけだった。そして隣の妻に促す。


「分かるか、ビルギット?」

「いえ、ただ、食べたことも無いくらい美味しい黒パンだとしか……」

「せっかくカナタ殿にノシュテットまで行って貰ったが、何とも言えない結果になったな」


 フィアーグラン卿は自分の腹を撫でながら天井を見上げる。


「娘は黒パンが大好きで小さいころから黒パンばかり食べていました。それが、ここまで美味しい黒パンを自分でつくるようになり、私たちに食べさせようというのは、娘にとって重要なことだとは想像がつきます。しかし、それ以上に何かメッセージが込められているとなると、皆目見当もつきません」

「ええ、わたしも夫と同じ意見です」


 ニーダール夫妻は申し開きをするような調子で話す。

 カナタにも地図を貰った恩の分はなんとか返したい気持ちはある。


「ひとつ、質問があるのですが……、よろしいですか?」

「ああ、構わない。思いつくことがあれば何でも訊いてくれ」


 ニーダールは懇願するように言った。


「エストリン商会というのはご存知でしょうか?」

「ああ、うちの領地とは取引がないが、ノシュテット周辺の穀物取引をほぼ独占している商会だ。それがどうしました?」

「ソフィア様が口に出したのです。おまえはエストリン商会の者か、と。フィアーグラン卿はの使いだと言うと、それきり話して頂けなかったのですが」

「そうなると、領地のことと関係があるのか?」


 ニーダールは考え込む。そこでフィアーグラン卿が割って入る。


「何をして解決とみるかだが、そもそも何が起こっているのかも分からないようではそれも考えることもできん。

 カナタ殿、再度ノシュテットに向かってその辺りを調査してはくれんか? なんなら、その何だか分からないものを、そなたの裁量で解決してくれても構わん。その時は相応の礼が、ニーダール夫妻よりあるかもしれんぞ?」

「こちらからもお願いする。ソフィアに何事かないようはからって欲しい」


 ニーダール夫妻は頭を下げる。

 さらに面倒なことになってきたが、断る術が無い。


「はい、仰せの通り」


 雨が上がった辺境なのに、まだ霧が立ち込めているような気分だ。



 その日の午後にはカナタはノシュテットの宿に戻っていた。


「カナタさん、おかえりなさい。黒パンどうでした?」

「それがな……」


 カナタは事の顛末をシーラに説明する。


「なんだか伝言ゲームみたいで嫌ですね」

「ソフィア嬢を連れて領都へ行ければ話が早いんだがなあ。普通の手段じゃ時間がかかるし、かといって転移を使って連れて行くわけにもいかないし……。どちらにせよ、再度ソフィア嬢と話すしかないだろうな。そっちはどうだった?」

「商人ギルドで話を聞いてきましたけど、エストリン商会に良い評判は聞きませんね。悪い人を使って脅迫まがいの契約でノシュテット周辺の村の穀物を独占していると、そんな噂ばかりでした」

「ノシュテット卿が独占なんかさせないようにしないといけないのに……」

「そうそう、そのノシュテット卿と繋がっているとか」

「腐ってるな、こりゃあ」

「腐ってますね」

「ともあれ、まずは『早起き鳥』へ行くか」



 しかし、『早起き鳥』では予想外の展開があった。


「辞めた? 辞めたって、ソフィアさんがですか?」


 『早起き鳥』の店長エドガーは、困った風に首を振る。


「ああ、朝のパンを焼いて客が引いたらな、突然やめるって、出て行っちまった……。初めての弟子だったし、あいつのお陰で随分パンも売れたしなあ。何か見送るなり祝うなりしっかりしたかったところだが」

「どこへ行ったか分かりますか?」

「わからねえが、行くところなんて実家くらいだろ。あの嬢ちゃん、貴族の娘なんだろ?」


 どっちだ? 領都か、男爵領か? 一方で黒パンを両親に届けるようにしたのだ。ということは、男爵領の方か。


「フィアルクロック村に行こう」

「はい!」



 馬車は城門を出て南東の王都へ向かう街道を走る。

 数キロ走ったのち、小道との交差点があり、フィアルクロック村の方向を指す看板が見える。そこから馬車は北へ向かう。

 フィアルクロック村は、村としては広大でありつつ、そのほとんどが沿岸部の荒れ地だった。時折木立がある他、背の低い草や低木があるのみで、とても穀倉地帯とは言えない場所だ。

 道はライ麦畑の合間を縫って住居の並ぶ村の中心広場へと向かっている。広場を抜けると道は小高い丘の上へと延び、古いが雰囲気のある二階建ての屋敷が見える。あれが男爵邸だろう。


 馬車を止めると、二人は飛び降り、ドアのノッカーを叩く。しかし、何の反応もない。中から言い争うような声が聞こえる。


「失礼します!」


 カナタはドアを開けて押し入る。


「だから、これは領主の決定だ。代官である私が領主の意見を聞かず勝手にやっているとでも?」

「お父様は近いうちに考えを変えるから、決定ではないと言っているのだ!」


 まだ中年と言うには若い、黒目黒髪の中年の男と、ソフィアが、ホールのど真ん中で立ったまま何やら激しく言い合っている。

 二人は熱くなっていてこちらに気づいていない。


「あのー」


 二人が振り向く。


「なんだお前たちは?!」

「カナタとシーラ……。どうしておまえたちがここにいる。お父様のところへと向かったのではないのか?」


 うへえ……。


「例の件は使いの者に急ぎ行かせました。わたしはここですることがありますので。とりあえず、落ち着いてお話をさせていただけませんでしょうか? わたしはフィアーグラン卿の使いでもありますので」

「フィアーグラン辺境伯だと?!」


 男の顔面が蒼白となる。いささか驚き過ぎだ。何か隠しているのかもしれない。


「カナタの言ってるのは本当だ。書状はわたしも見た」

「これをご覧ください」


 カナタはフィアーグラン辺境伯の印のついた書状を男に見せる。



 改めて、3人はホールのソファに座り話を始める。シーラは護衛なので席の横で立ったままだ。


「わたしはカナタ、商人と冒険者を生業とするもので、個人的にフィアーグラン辺境伯と友諠を結んで頂いている者です。こちらはわたしの護衛で冒険者のシーラ」

「わたしはフィアルクロック男爵領代官エーギル・ニーダールだ。本家当主の弟に当たる」

「率直に申し上げます。わたしの目的は二つあります。

 一つ目に、領都におられるフィアルクロック卿がソフィア嬢を心配されており、その行動の真意を報告するように申し付けられております。

 二つ目に、先ほどわたしは商人であると申し上げましたが、この地でライ麦を栽培されていると聞き及び、ライ麦を買わせていただきたく参りました」

「ならん、ライ麦を売る相手はもう決まっておる!」

「それは、村人の総意ですか?」

「なんと?」

「男爵領として徴収なされるライ麦の話をしているのではありません。村人の手に残されたライ麦を買い取りたいと申しておるのです」

「ええい、ダメだと言ったら駄目だ! それらをまとめているのはわたしだ! わたしの許可なく売れる訳がなかろう!」


 エーギルは顔を真っ赤にして捲し立てる。


「叔父上、それでは道理が通らんぞ」

「領地経営を任されているのは代官であるわたしだ!」

「それでは、村人の話も聞き、フィアルクロック男爵とフィアーグラン辺境伯にそのことについて報告申し上げておきますが、よろしいですか?」

「む……」


 一旦相手が反論できなくなったところでカナタは話題を変える。


「ところで、ソフィア嬢、何を言い争っていたのです? 黒パンを男爵夫妻にお送りした本意はどこにおありで? わたしとしてもなるべく細かくご報告したいので」

「叔父上がライ麦を寒冷地種の小麦に替えると言うのだ。わたしとしてはライ麦を守りたいと思っている。黒パンはうまいからな。うまい黒パンを食べれば父上もきっとそう言ってくれるはずだ」

「それこそ、ソフィアやよそ者が口を出すことではない。これは領主であるそなたの父と相談して決めたことなのだ。黒パンはうまいなどと一人の好みで決定すべきことではない」

「だから、父上は必ずライ麦が良いと言う。それは保証する!」


 なるほど、そういう流れだったか……。

 ソフィアは、フィアルクロック村のライ麦を愛しているのだ。

 村の作物を小麦に替えて欲しくない。

 だから、あんなに美味しい黒パンを作って、父母に改まって欲しいと願ったのだろう。


『こんなに美味しい黒パンが作れるのだから、小麦に替える必要はない』


 そういうメッセージが込められていたのだ。

 しかし……。


「おかしいですね……」


 シーラが小声で言った。

 カナタは頷く。これはおかしい。

 ニーダール夫妻がライ麦を小麦に替えることを了承しているのなら、ソフィアの渾身の黒パンの本意はニーダール夫妻に伝わるはずだ。黒パンが大好きな愛娘が消息不明となり、会心の出来の黒パンを送ってくる。そんな当て付けが理解できないはずがない。

 しかし、夫妻にそんな素振りは全くなかった。

 ということは、この叔父は独断で小麦に替えようとしているということ。

 だから、黒パンのメッセージが伝わらないのだ


「では、作物を変える件についても、フィアルクロック男爵とフィアーグラン辺境伯にご報告申し上げておきます」


 カナタの言葉にエーギルの顔色が明らかに変わる。


「既に相談して決めたと言っておろうが!」

「ならば報告しても問題ないと思われます」

「ならん! ならんぞ! どこの馬の骨とも分からぬ者にフィアルクロック男爵領の経営に口を出すと言うのか!」

「そのような話は一言もしておりません。エーギル様の発言をそのまま伝えると申しておるのです」

「……そうか、叔父上はエストリン商会にそそのかされておるのだな?!」


 ソフィアが口走る。ここでエストリン商会の名が出たか……。


「知らん知らん! このような失礼な輩と話してはおられん!」


 エーギルは立ち上がると脚を踏み鳴らし、ホールの階段を上がって2階へと消えてしまった。


「叔父上はあんな支離滅裂なことを言うお人ではなかったはず……。学院にいたころ、何度かこの屋敷に戻って来たのだが、エストリン商会が来たのと重なったことがあってな。最初は叔父上も追い返していたので安心していたのだが……」

「エストリン商会について詳しいみたいですね」

「このあたりの男爵領はみなエストリン商会に屈服させられたのだ。借金の買取、脅迫、露骨な嫌がらせ、それになんでもやる犯罪組織と手を組んでおるという噂もある。そして、ノシュテット卿はそれを傍観したままなのだ」


 その時、ガチャンと何かが落ち、崩れる音が二階から聞こえた。


「叔父上の部屋だ!」


 ソフィアはソファから飛び上がる。何か嫌な予感がする。

 三人は階段を掛け上がると、エーギルの扉の前に走った。


「叔父上、叔父上! 返事をしてくだされ!」


 ソフィアがドアを叩くが中から返事がない。


「困った、マスターキーは叔父上が保管しておる!」

「錠を切っていいですか?」

「構わん、やってくれ」


 カナタの申し出にソフィアは頷く。

 腰のミスリルナイフを抜き、ドアの隙間に挟み込み、そのまま錠を切り落とす。ドアが開く。


「叔父上!」


 部屋の中に見えたのは、机に突っ伏したエーギルだった。机を中心に真っ赤な血が大きく広がっている。


「叔父上、叔父上!」


 ソフィアは血の海をぴちゃぴちゃと歩き近づくとエーギルの肩にしがみつく。


「叔父上、しっかり!」


 エーギルの体を起こすと見えたのは、心臓に突き刺さるナイフだ。即死だったのだろう。


「死んでおる……どうして……叔父上……」


 ソフィアは俯き両拳で机を叩く。机には走り書きした紙があり、そして突っ伏したエーギルにぶつかったのか、床には燭台とインク瓶が転がっている。

 自分が追い込んだからだ。その惨状を見てカナタは思う。他にやりようがあったんじゃないかのか……?


「……すまない」

「いや、カナタが謝ることではない。叔父上がこうせざるをえない何かに巻き込まれていると考えるべきで、遅かれ早かれこうなったということだ……。それに、わたしは叔父上と共にこの屋敷に住んだことはない。遊びに来ただけでそこまで思い入れが無い。伯父が死んだというのに涙も出ぬわ……」


 そう言いながらもソフィアは悲痛な面持ちで歯を食いしばり、エーギルの走り書きを丁寧に手に取る。

 彼女は一読し、憐みの表情を浮かべる。その紙の下には借用書があった。


『わたしはこの領地の財産を使い込み、借金をしてしまった。その額は膨れ上がり金貨1500枚に達する。

 この借金はエストリン商会が握っている。返済が出来ないのなら作物を小麦に替えることと、低価格で長期間小麦を売ることを約束させられた。領地を破綻に追い込んだことは謝罪したところで許されるものではない。人が一人死ぬには十分な金額だ。

  エーギル・ニーダール』


「エーギルさんは一人で生活してたんですか? 他に、誰か……」


 シーラがおずおずと尋ねる。


「貧乏男爵だからな。数年前に叔母上が亡くなり一人になってから様子がおかしかった。酒を浴びるように飲み、ノシュテットに女を買いに行っていたのは知っておった」

「人は一人でいたらおかしくなっちゃうんです。だから、誰かがついていてあげないといけないんです……」


 それは少し前にカナタが言われたことだ。人は一人ではまともでいられないのだ。


 三人は沈痛な面持ちで階下に降り、ホールでソフィアの淹れたお茶を飲む。誰も喋ることなくただ時間が過ぎ、外は夕暮れとなる。

 シーラが鞄から黒パンの包みを出しテーブルに置く。ソフィアは血のついた手で、それを千切り、貪るように食べる。玉のような涙を零しながら、口に黒パンをねじ込み、食べて、泣いて、食べて、泣く。


「黒パンはおいしいな、おいしい……」


 ソフィアは嗚咽を漏らしつつも何度もおいしいおいしいと呟く。


 それは食べることで伯父の死を弔うような、一種カニバリズム的な儀式にも見えた。

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