6■エストリン商会と蛇2

 カナタとシーラは、鐘二つの時刻に領都から転移で屋敷内に戻って来た。


「凄い足跡ですね。カナタさんの言う通り、やっと来ましたね」


 床にはおそらく5人以上と思われる足跡が大量についていた。カナタは床の一部を見て屈みこむ。乱れた足跡の中、一部、指で拭いた跡がある。


「敵はこちらの意図に気づいたようだ」

「ということは、夜じゃなく、日没くらいですか?」

「ああ、これの意図に気づくようなやつなら、こちらの人数を偵察して、日没に正面決戦だろうな。意図に気づいてないなら鐘六つくらいだと思うが……。まあ、あんまり舐めてかかると足を掬われるだろうから、最高に頭の切れるプロだと思っておこう」

「じゃあ、お掃除しますねー」


 シーラは箒とモップを出して床を掃除しはじめる。玄関扉を開け、床のライ麦粉をホールに集め、最後にそれを外に掃出す。


「シーラ、外を見てくれ」


 二人はキョロキョロと周りを見回す。


「二人いますね」


 二人は黒パンを齧りながらその時を待つ。


■ 


 夕暮れ時、レイフ・レーンは立ち上がる。


「次は確実に仕留めるぞ。伝令は?」

「もうすぐ戻ってきます」


 馬車から外した馬を駆り、男が急いで戻ってくるところだった。


「ボス! 中には二人しかいないようです。屋敷の玄関が開きっぱなしになってます!」

「とことん舐めくさりやがって……」


 レイフ・レーンは焦っていた。獲物に逆に嵌められたことが彼のプライドをいたく傷つけていた。

 彼らは馬を馬車につなぎ直し、馬車に乗って荒れ地を駆ける。屋敷に近づくにつれ日が沈み、遠く、屋敷のモザイクガラス窓に明りが灯ったのが分かった。


「3人は裏口に回れ!」


 馬車から5人が飛び出し、3人が裏口の方へ、レイフともう1人が正面玄関側の監視組と合流する。



 裏口組は鍵開けスキルの高い者が開錠しようと鍵穴にピンを2つ突っ込む。その瞬間、ドアが乱暴に開け放たれ、1人が吹き飛ぶ。

 銀髪の女が飛び出てきて倒れた男の胸を突き刺す。


「てめえ!」


 2人が同時に切りかかる。

 しかし、女は1人に重い袈裟切りを食らわせ、剣の防御を吹き飛ばして体を斜めに切り落とす。

 返す刀で防御もろとも首を刎ねる。

 あっという間に3人の死体が出来上がり、女は素早く身を翻し、屋敷の中に戻って行く。


 表では3人とレイフが玄関に突入しようとしているところだった。

 しかし、玄関口に若い男が立ちふさがる。


『炎嵐』


 右半身に炎、左半身に嵐、それらが体内に渦を巻き、右掌から押し出される。

 発火点を越える高温の渦が巻き起こる。

 対人戦に慣れた4人ではあったが、1人が逃げ遅れる。髪と服が瞬間的に燃え上がり、地面を転がり熱に悶える。


「があああああああああああ!」


 他の3人は咄嗟に目を守り、息を止め、効果範囲から跳ね退いていた。


「やるな、殺し屋」


 若い男は呟くと薄暗い屋敷の中に下がる。

 2人とレイフは追って屋敷へと入る。そこはホールだ。しかし、若い男の姿が見えない。


「ここだ」


 声は上からだ。3人は見上げる。いつの間にか若い男は2階の吹き抜けの廊下に移動している。


『雷光』


 突き出した掌が光り、ホール全体を照らす。

 男たちは目が眩んでその場に竦む。そして明りが消える。


 カナタが2階吹き抜けの廊下から光の魔術を発する時、裏口から戻って来たシーラはカナタに言われたように、目を閉じていた。

 その強烈な光が過ぎてから目を開け、目の見えない敵たちの只中へと突っ込む。

 一撃目の袈裟切りは男の肩口から脇腹まで押し斬り、返す刀で2人目の顔面を抉る。目の見えない相手に戦うなど簡単すぎた。

 2人斬り倒したのち、シーラは最後のレイフ・レーンへと切りかかる。

 ぎいん、と金属音が鳴る。

 レイフは咄嗟に剣で剣を受け、凄まじい力に腕が吹き飛ばされそうなところを堪える。堪えなければ首が飛んでいた。人と戦うのは得意なレイフだった。しかし、この女は獣だ。この膂力は人と戦ってつくものではない。

 くそ……! まんまと嵌められ、あっという間に部下を全員殺された。


「シーラ、どうせそいつは喋らない。殺していいぞ」


 階上から声が聞こえる。

 もう目はハッキリ見えている。戦っている相手は猛獣のような眼をした銀髪の女。

 階上から余裕で見下ろしているのが若い黒髪の男だ。


 何が殺していいだ、おれは千人殺しのレイフ・レーンだ! 


 そこでバスタードソードの連撃。重い、重すぎる。単調だが、どれも一撃必殺の重さだ。刃がなまくらだろうが、まったく問題にならない力だ。

 叩き返すように防御し、なんとか凌ぐが、次から次へと斬撃が降ってくる。

 その力に弾かれ、どんどん後ろに下がって追い込まれている。連撃に終りが無い。きりがない。

 一度でも防御に失敗すれば死ぬ!

 こういう単細胞の力押しには……。


 レイフは女の左側へ回り込みつつ防御する。

 女の表情に驚きが浮かぶ。

 両手握りは、右利きである以上、右手の伸びる範囲にしか剣は届かない。そして両手で持つから、片手で持つより動作範囲が狭い。

 レイフは素早く踏み込むと女の脇腹目指して剣を突き出す。

 女は素早くバックステップし、辛うじて剣を躱す。

 レイフは確信した。こいつは対人戦をほとんどやったことがない。魔物専門だ。だからオークさえ断ち切るような恐ろしい斬撃を出せる。しかし、技術が魔物レベルなのだ。


「おら、さっきの威勢はどうした!」


 レイフは相手の左側へと動きながら防御しつつ突きを繰り出し続ける。

 女は辛うじて体で躱している。体で躱すなどいつまでも続くはずがないのだ。

 ちらと階上を見ると、男は女の手助けをするわけでもなく、手すりに肘をつき、観戦気分で見下ろしている。


「舐めやがって……そこで待ってろ!」


 女はまた袈裟切りで踏み込んでくるが、右に高速で動けば防御も躱すも簡単だ。


「ほら、もう終わりか?」


 だが、女は何度か素振りを始める。首を傾げ、また素振りをする。

 何をしているのかは分からないが、付き合ってやるつもりも無い。そして、相手の左に踏み込み、突きを繰り出そうとした瞬間、首筋を掠めて女の突きが通る。

 レイフは焦って思わず後ろに転がる。

 どうなってる……? どうして届いた?

 女はまた何度か素振りし、首をひねり、また素振りをする。そして突進してきた。

 左側に回ろうとしたのに攻撃範囲に入っている。

 がいん、と辛うじて剣を打ち合わせ、攻撃を弾く。女の攻撃はどこかぎこちなく前ほどの威力はない。だが、確実に攻撃範囲に入っている。

 なぜだ……? どうなっている?

 そこから連撃が始まる。右に避けるがやはり追いつかれている。

 何が違う?


 こいつ……!

 そこでやっと女がしていたことに気づき唖然とする。右手と左手の握りを逆に変えている、つまり、スイッチしたのだ。

 だからといって、逆回りはできない。スイッチされたからといって左側へと動き続けなければ女は持ち手を利き手上に戻すだろう。

 右に避ける。女の左手が上なせいで、袈裟切りが届く。

 何度も、何度もそれを剣ではじく。

 まだぎこちないが、反撃を与えないラッシュ。それが徐々に、徐々に修正され、重く、鋭くなってゆく。

 かといって逆に避けたらもっと重い連撃が来る。

 レイフは心を落ち着け、神経を研ぎ澄ませ、剣を捌く。前ほど重いわけではない。冷静に、衝撃を出来るだけ逃がすよう鋭角に受ければ手も痺れない。

 相手の方が剣が長い。冷静に、深追いせず、手を狙う。女の突きを鋭角に捌き、一歩前に出る。そして、左手を狙いすました突きを……。革のグローブが裂け、女の左手から血がほとばしる。

 女は、あっ、と驚いた顔をして一旦下がった。左手がだらんと下がる。

 レイフはしてやったりと笑みを浮かべる。


「無理するな、その手でバスタードソードを扱えるのか?」


「加勢するか?」


 階上の男が言う。


「いえ、一人でやります!」


 女はじっとこちらを見ると何も言わず、右手だけでバスタードソードを握る。

 両手でも持てるバスタードソードはそれだけ重い。女が片手で扱えるようなものではない。

 しかし、女は右前に構えつつ、左に回り込んできた。

 レイフも同じく相手の左へと周り込む。

 二人は踊るように相手の左へ左へと動きながら突きを繰り出す。

 レイフが突く。

 しかし、女はそれを鋭角に捌きつつ、突きを放って来る。

 その動作は速く正確だ。

 まるで……、くそ、俺の真似じゃねえか!

 女の突きは正確にレイフの手首を捉え、抉る。

 レイフは咄嗟に剣を左手に持ち替え、スイッチする。

 女は右手に持っている。つまり、相手の不利な方向へ動こうとすると、ぶつかる。

 膠着状態に陥った……。レイフは利き手と逆で剣を持ち、女はバスタードソードを片手で持つ。二人とも同じような不利さに思えた。

 だが、女はここで、バスタードソードを振りかぶる。

 袈裟切り?!

 この女の力を左手の剣で受け止められるとは思えない。レイフは女の左手側へと周り込んで躱す。

 片手の方が可動範囲は広い。ぎりぎりのところで前足を浮かせて躱す。

 そして反撃。しかし、あらゆる場面で人と戦ってきたレイフが選んだのは、蹴りだった。見るからに細く体重の軽そうな女に、レイフの体重の乗った回し蹴りが決まれば、当然女は態勢を崩す。そこに一突き入れれば終りになる。レイフはこうやって少しの技術の差で勝ちを手繰り寄せてきた。

 女の体はバスタードソードを振ったせいで流れている。左手は怪我でだらんと下がっている。その左腕ごと脇腹を蹴り抜く。


 はずだった。


「残念、嘘でしたー!」


 怪我をしたはずの左手はレイフの足首を握っている。


「なっ!」


 レイフは足を引こうとするが、その左手の握力は尋常ではなく、ブーツ越しにアキレス腱の間に親指が食い込んでいる。

 そして、女は再度、剣を振りかぶる。

 駄目だ、防御しきれない!

 女の剣が振り下ろされ、無理矢理防御に出したレイフの剣が弾け飛ぶ。

 まだ死ねない!

 レイフは空中で体をロールさせる。靴を握った手が弾けるように外れる。

 生きる!

 レイフ・レーンは床に落ちる。素早く女の脇を転がると、開けっ放しの玄関ドアをくぐる。


「生きるぞ、俺は!」


 女の剣の間合いから外れているのは分かっていた。このまま馬車のあるところまで走れば逃げ切れる。


「生きる、生きる、生きるぞおおおおおお!」


 初めて、本気で死にたくないと思った。初めて、本気で殺したいと思った。だけど、その為には今は生きないといけない。生きなければ、やつらを殺せない……!


「殺してやる、殺してやる、殺してやる!」


 絶対にやつらを殺してやる!


 その時、後ろから口を塞がれる。


「うるさい、近所迷惑だ」


 若い男の声だ。青白く光るナイフが男の喉笛を引き切る。パックリと開いた首の切れ目から、血と息の混じった飛沫が飛ぶ。


 なぜ、どうして……。二階にいたはずなのに……。


 これが、千人も殺しておきながら一度も狂わなかった男の最後だった。



 次の日の早朝。

 日の出の少し前、朝靄が晴れた頃、男の首がエストリン商会の玄関前に置いてあったのが発見された。

 最初に出社した店員が驚いて警備兵を呼んだ。

 誰がそこに生首を置いたのかは手がかりすら見つからない。しかし、その生首が誰なのかはすぐ分かった。スキンヘッドと、特徴的な鷲鼻、何より、頭部にある蛇の入れ墨は犯罪組織『蛇の鱗』のマーク。それは指名手配中の男だった。

 街は騒然とした。醜聞に興奮したと言っても良い。『蛇の鱗』の幹部の首がエストリン商会の玄関前に置いてあったのだ。これは以前から噂されていたエストリン商会と『蛇の鱗』の繋がりを示唆し、かつ、『蛇の鱗』さえ殺す何者かの存在を仄めかしているからだ。


 二の鐘になって悠々と馬車で商会へとやってきた会頭カール・エストリンは未だ警備兵が取り囲む店先で何があったのかと青くなる。


「レイフ・レーンの首だと!」


 部下からの報告を受け、カールは机を叩いて激高する。奴から成功の報告を待っていたら、失敗の、それどころか首の置き土産。頼みの綱の『蛇の鱗』の幹部であったレイフ・レーンが逆に殺されたのだ。

 あの新米代官だ。あの代官が……。それ以外になかった。本人はまだ見たことのない、あの男が不気味で恐ろしくて仕方ない。激高して震えた体がいつの間にか恐怖で震えていた。レイフ・レーンを殺せて、自分を殺せない訳がない。

 今まで自分は常に強者の立場にいた。強者の立場から堕ちてゆくクズどもを見て愉悦に入っていた。しかし、今回は何かが違う。敵わない何か、恐ろしいものに手を出してしまったのだ。


「くそっ……レイフのやつ、役立たずが!」


 そうだ、自分は悪くない。これは全てレイフのやつが失敗したせいなのだ。つまり、『蛇の鱗』のせいだ。もういちどやつらに尻ぬぐいさせる必要がある。


 絶対に、わたしは悪くない。



 『蛇の鱗』若頭ペール・レイグラーフは、スラムの地下迷宮で物思いに耽っていた。

 レイフ・レーンは幼い時からの友人だった。やつは流民の子供で、ペールは捨て子だった。歳が近いため、一緒に悪さをし、一緒に『蛇の鱗』に入り、酒を飲んだり、殴り合ったり、と同じ時間を共有してきただけに二人の間には友情があった。

 いや、通常の友情とは言えない。相手の女の寝取ったり、喧嘩がエスカレートして殺し合いと呼べるところまで行ったことさえある。そんな間柄を何と言うのか、普通の言葉で表すことが難しい。


「友情、いや、執着か……」


 ペールは呟く。そう、執着と言うべきだろうか。友情が愛着や連帯によって生まれたりするのならば、対して執着。とても友好的とは言えないが、互いに相手に興味を持つ。そんな関係だった。


「レイフ兄のことか?」


 部下の一人がそう聞いた。


「ああ、今まで失敗して死んだ奴は何人もいる。多少賑やかさが減って寂しくもなるが、それとも違うな。

 ……ああそうだ、あいつが首を切って殺すところは容易に想像つくんだが、その逆ってのが、なんともうまく呑み込めない。そういう想像がうまくできないし、頭に馴染まない。違和感ってやつだ。いっそ警備兵のところに行って首でも見て来るか」

「ペール兄、レイフ兄の標的だったやつ、知っていますか?」

「いや、知らん」

「カナタ・ディマとかいうふざけた名前でして」

「な……それは確かにふざけた名だ。まあ、名前くらい好きにすればいいが」

「エストリン商会の方はどうします? レイフ兄の尻拭いをしろとか言ってますが」

「放っておけ。どうせ何もできん。金にもならんのにレイフたちを殺せるようなヤツとやり合うわけないだろう」


 そこで、全身を黒いローブで覆った男がゆっくりとペールへと近づいてきた。


「いや、放っておくわけにもいかん」

「ノシュテット司教……猊下自ら地下迷宮へ来るとは」


 ペール・レイグラーフは慌てて片膝を突き、頭を下げる。


「通達に来た。ディマを名乗る者など、生かしておくわけにはいかぬ。何より、蛇の鱗が舐められる訳にもいかんだろう」

「……はっ、仰る通りです」

「とはいえ、レイフがやられるほどだ。おまえにはこれを貸そう。我らの至宝『盟約の笛』だ。大事に扱えよ」


 司教から、ぼんやりと青白く光る笛を渡された。形容したがたいおどろおどろしい形をしており、音階となる穴もない。


「これは……!」


 教会がこれを持っていると噂には聞いていたが、本当に存在するものだとは思ってはいなかった。

 盟約の笛。

 魔物を古き盟約に従わせると言われる笛だ。ひとたび吹けば数々の魔物が駆け付け、笛を持つ者に従うと言われる。


「これを使うほどの相手なのですか?」

「わたしの方でも調べていたのだがな、どうもそやつ……。いや、いい。とにかくやってくれ」

「はっ!」



 ソフィアが若手パン職人ヴィゴに黒パン修行をつけてひと月が経った。

 既に夏真っ盛りだ。黒パンの手ほどきが一通り終わり、パン屋『フィアルクロック』が開店した。変哲もない特徴もない、だが、黒パンしか作らない店だ。

 予想していた通り黒パンを食べない地域だったので、当初はあまり売れなかった。売れなかったが、たまに買った人は必ずまた来た。これはソフィアの腕とヴィゴの努力によるものだろう。

 じわじわと売れ行きは伸びていたが、店を維持できるのには不十分な売り上げだ。


「うむう、なかなか売れんの」

「大丈夫だ。待っていれば売れるから」


 苛々するソフィアをカナタが宥める。

 ソフィアは本気で心配していたのだが、カナタは楽観的だった。



 しかし、状況は急激に変わって行く。劇的な旨さの黒パンを求めて人が殺到したのだ。


「今日こそ黒パンを買うぞ!」

「押すな押すな!」

「割り込んだなテメエ!」

「割り込んだのはテメエだろうが!」


 早朝開店前から店の前は人だかりでごった返し、それは混乱を極める。

 その時、ドカッと音を立てて店の戸が開いた。


「うるさああああああああああああああい!」


 ちっちゃいオーナーが腰に手を当て胸を張り叫ぶ。


「早朝から近所の迷惑も顧みずうるさいのだ! 毎日毎日1列に並ぶよう言っとるだろうが! キサマら餌に群がるゴブリンか!」

「おお、フィアルクロックのオーナーだ! 可愛いぞ、ちっちゃいオーナー!」

「うるさいと言っておろうが!」


 少女は囃し立てた手前の男を蹴り倒す。


「一人一斤だ! 一列に並べ! 並ばないとキサマらまとめて焼き払うぞ!」


 と言う具合に、どこかで見たような風景となる。

 ヴィゴが忙しすぎて悲鳴を上げていたので、給料を売上に連動するようにしたら文句が無くなった。



「なに、価格を上げるだと?」


 ソフィアの顔が険しくなる。


「ああ。これからさらに客が殺到することになるからな。今の価格だとパンを奪い合っての暴動がおこるかもしれない」

「どうして客が来るって分かるのだ?」

「ああ、ソフィアはこっちに居なかったし、普通のパンは食べないから知らないのか」

「何のことだ?」

「今、小麦は3倍に値上がりしている」

「なにいいいいいいい!」


 ソフィアにとっては青天の霹靂であった。


「春の長雨のせいで、領都近辺の小麦は全滅しているんだ。主食であるせいで需要が高いが、絶対的に量が足りてない。遠い地から小麦を運んできている分しかないからな。だから、俺はフィアルクロックのライ麦を手に入れて、ソフィアに領都でパンを作ってもらってるってわけだ」

「それはよく分かったが、どうしてそれがライ麦パンの値上がりにつながるのだ?」

「小麦が高すぎるとなれば、皆他を当たるだろ? それがライ麦なんだよ。ライ麦自体の価格も2倍以上になっている。となると、ただでさえ美味しい黒パンだ。値上げしないと領都市民が皆このパン屋が一番安くて美味いと言って殺到することになる。そんなの捌き切れないだろ?」

「……なるほど、やっとカナタの行動の意味が分かった気がする。そのあたりは任せたぞ」


 これで、フィアーグラン卿より課された条件である、フィアルクロック村の名産品を使って産業を興すことができた。これで最低限の条件は果たした。



 ライ麦の仕入れで利益を出し、そして、パン屋でも利益を出す。理想的な垂直型のビジネスだ。

 一番利益が出ているのはもちろん、『転移』という流通部門だ。とはいえ、ライ麦で利益を出すのはかなり辛かった。

 フィアルクロック村のライ麦畑生産量は140tに及ぶ。それを全て領都サンダール市へ売りに出したため、複数のマジックバッグと亜空間収納フル稼働で何往復もしたのだ。マジックバッグを複数用意したものの、それを幾つも開く度に魔力を消費し、へとへとだった。

 通常1トン金貨2枚程度で取引されるところ、領都サンダールでは小麦の高騰でライ麦も2倍まで膨れていた。つまり、140トンのライ麦が金貨560枚。その差額、280枚。ラーベ商会と折半して、7割、金貨196枚が輸送部門の利益となる。

 パン屋はひと月の売り上げが金貨60枚に達する。利益率は今のところ良く、ソフィアとカナタが月金貨10枚ずつ貰うことにした。


 そして、領地の税収だが、税収としてのライ麦を現地相場でカナタが売った金貨140枚分、この収入を領の所有者であるアレクシス・サンダールへと運ぶのが代官の仕事だ。

 こうして、当初の目的を一通り達成し、カナタは安堵の息をつく。


「カナタ・ディマよ。そなたをフィアルクロック男爵に任ずる。領地を与えたからには、戦があれば血の一滴まで戦い抜き、政変があれど血の一滴まで忠誠を尽くすべし。誓えるか?」

「誓います」


 数日後、カナタは城の謁見場にて正式に男爵を叙爵する。

 領土の所有と世襲を国王から認められ、貴族になるということだ。

 伯爵以上は地方の長のため、国王陛下から直々に叙され勅許状が発行される。

 子爵、男爵も形式上は同じだが、子爵は街の長、男爵は村の長だ。地方の長が地方を統治する上で、支配地域の街や村の領主を国王に勝手に決められては困る。

 なので、地方の長がそこの都合で授爵を決め、推薦理由を国王に上げることで勅許状が発行され、授爵を代理する。

 同じく、子爵が街の周囲の村を切り離し、男爵領として授けることもできるとか。




 ここに、金貨で貴族位を買うという大商いが成立した。

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