2■黒パンのメッセージ2

 領都サンダールから出て数日経った頃だ。


「おい、あのオーク、12、3匹はいるぞ……」

「やっつけましょう!」

「あの数じゃ流石の【オーク殺し】のシーラだって簡単にいかないだろう。こっちは馬車だから逃げようがないし」


 前方にオークの群れが見える。どうもこの街道を封鎖しているつもりらしい。背の高い草の原だ。雨の後でもあり、どこにぬかるみが有るかも分からない以上、避けて通ることもできない。

 目を細めると、先頭の一回り大きな個体が「オークリーダー」との鑑定結果が出る。


「先頭のでかいオークはオークリーダーらしい。多分、オークよりずっと強いはずだ。それに数が多すぎる。素材を傷つけないようにとか言ってられなさそうだな」

「え、オークより強いんですか! てことはオークリーダーを倒せばもっと強くなれるってことですね? リーダーはわたしに任せてください」


 カナタは難しい顔で考えるが、シーラはやる気満々だ。


「分かった。じゃあリーダーはシーラが抑えてくれ。後ろのオークたちは俺がなんとかする。素材は気にしなくていいから全力でな?」

「はい!」


 二人で御者台から飛び降り、カナタを先頭に進んでゆく。

 炎と風と水の魔術『炎風』を越える範囲と威力をもつ『炎嵐』の魔術。体の半分の魔力を熱に変化させ、もう半分の魔力を吹きすさぶ風に変換する。それを掌から押し出し、広範囲に渦巻く風となす。


『炎嵐』


 轟、と風が渦巻きオークの集団を取り囲む。一瞬にして気温は1000℃を越え、様々な素材の発火点を超えてゆく。辺り一帯の草や地面から蒸気が吹き出し、視界が悪くなる。


「「ガアアアアアア!」」


 オークの大半は目を焼かれ、皮膚を焼かれ、その場に転がって絶叫する。

 しかし、蒸気と炎の中から、一際体の大きなオークリーダーが両腕で顔を守り飛び出す。その腕の隙間からカナタを見ている。両手に持った二本の剣を振り回し、カナタへと肉薄する。


「させません!」


 シーラが間に入り、バスタードソードで攻撃を受け流す。

 オークリーダーはその一撃の威力の殺し方でシーラの実力を感じ取ったのか、一旦間合いを取る。

 シーラもこんなに強そうな魔物は初めてだ。

 オークの力押しだけではもう物足りなかったのだが、オークリーダーとなると違う。知性を感じる。その知性が何を考え、何を狙うのか、そう思うと武者震いが起こる。自分にはオークを押し返せる力がある。でも、それ以外に何があるのか。ここでそれを発見してみせる。

 シーラから出る。ふっ、と息を吐き、袈裟切りに全力を叩き付ける。

 オークリーダーはそれを双剣で受け、一歩下がるが持ちこたえる。

 そのまま重い連撃へと移行する。

 オークリーダーは崩れた態勢を修正しつつ少しずつ下がる。押し切れそうで押し切れない。その大きな体躯に似合わず剣を受ける技術が高い。

 ラッシュが途切れる。

 その隙を逃さずオークリーダーが右の剣を振りかぶる。

 シーラが受け止めつつ流すが、左手が突きを放ってくる。体を背後に倒し、そのまま後転して素早く立つ。続いてくる右手の斬撃を剣で受け、左手の突きに合わせてカウンターで左手を狙う。バスタードソードが長い分、シーラが若干有利だ。

 しかし、それと察知したオークリーダーは手をひっこめる。

 拮抗していた。それはシーラもオークリーダーも自覚していた。 


「グオオオオオオオオオオ!」


 オークリーダーは雄叫びを上げ、自らを鼓舞する。

 その声量で、シーラは本能的に腰が引ける。

 オークリーダーの連撃が始まる。右、左、右、左、単調だが重く、速い。突進速度も速く、体で躱すのが難しいため、受けて応じる。剣が衝突し甲高い金属音を上げ、シーラは押し込まれてゆく。

 オークリーダーの連撃は止まることを知らず、そのスタミナは無限かに思える。何か、何かを見つけないと勝てない。

 シーラはオークリーダーを中心に右に回転し始めた。それによって右手の攻撃を封じる。体が重い分、瞬発力が低いはず。

 オークリーダーは無理に回転に合わせて右手の剣を出そうとして躱され、体が流れる。さらに無理矢理左手の突きを放って来た。

 シーラはそれを見逃すことはなかった。

 好機。その不安定な突きに合わせ、一歩前に出る。左頬が突き出された剣で裂けるのを感じながら、オークリーダーの左脇にバスタードソードの先端を深々と埋める。

 次に右の袈裟切りが来る! そう確信し、バックステップ。

 剣を素通りし、再度間合いを詰め、今度は振り下ろされたあとのがら空きの右脇に深々と突き刺す。

 オークリーダーの赤い血流が左右の脇腹からとくとくと流れ、両足を伝い、地面へと吸い込まれてゆく。痛みからか足がおぼつかない。

 シーラはそれをじっと見てバスタードソードを脇構えにし、剣先を右手背後へと下げる。


「グアアガアアアアアアア!」


 それは死を悟ったオークリーダーの最後の太刀。突進、袈裟切り、突きの連携。

 しかし、既に見慣れたシーラには利かない。袈裟切りをバックステップで外し、左手の突きを首を左に僅かに寄せて躱す。

 シーラは己の渾身の剣を右から掬い上げる。バスタードソードはオークリーダーの左脇から入り、右肩から跳ねあがる。

 勢いづいたオークリーダーの体が倒れ、首と左腕の部分が体から離れて転がる。

 シーラは大きく息をつく。何か大きなものを掴めたのを感じる。


「カナタさーん、終わりましたー!」



 少し時間を遡り、カナタはというと……。


「炎風、炎風、炎風!」


 まだ動けるオークに炎風の魔術をこれでもかと執拗に浴びせ、目を焼く。目さえ見えなくなれば何匹いようと恐れるものでもない。草叢に潜み背後に回ったオークもいたが、


「炎風!」


 すぐに気づいて目を焼いた。

 初夏の雨上がりの草は瑞々しく、炎の魔術を使っても大漁の蒸気が上がるだけで延焼することはなさそうだ。使い放題だ。

 動けるオークがいなくなったところで、亜空間収納から槍を取り出し、一匹ずつ首を刺して殺してゆく。 


「単純作業で詰まらないけど、あっちは面倒そうだしなあ……」


 そうぼやいてシーラとオークリーダーの激闘を見物する。

 いつでも助けに入れるよう、用意だけはしておく。

 シーラはアホだが、戦えば戦うだけ確実に強くなる。剣の才がある。追い込まれたと思ってもそこから勝つ手段を探して反撃している。

 脇構えから躱し、切り上げ、オークリーダーの体が真っ二つになる。


「うおお、お見事!」

「カナタさーん、終わりましたー!」

「左の頬、傷がついてる。ポーションで治しておけよ。傷が残ったら伯父さんが悲しむぞ」

「カナタさんのお嫁になる体ですしね!」


 シーラがくねくねする。


「ならない!」


 二人はオークの解体を始める。オークリーダーからは直径2cmほどの大きめの魔石が、その他から1cmほどの魔石が取れた。魔道具を長時間動かせるだけの大きさだ。


「大きめの魔石はカナタさんにあげますよ。小さな魔石と交換しましょう」

「いやいい、それは強敵に勝ったシーラの記念だろう? 大事にとっておけよ。それに、大きい魔石は大きいというだけで価値が跳ね上がるから高いはずだ」

「そうですね、ありがとうございます!」

「今日からしばらくはオークリーダーのステーキが食えるな」

「オークリーダーってことはオークよりおいしいはずですよね?」


 二人はじゅるりと口の中に溢れる唾液を飲み込む。


「とりあえず、全部亜空間収納に入れとくか。でも売るときどうしよう……」


 それが問題だ。


「マジックバッグって金貨100枚くらいで買えるんですよね?」

「……ああ、そうだけど」

「じゃあ、もう持っててもおかしくないじゃないですか。沢山お金あるんですし」


 言われてみればそうだ。それに、自己防衛できるだけの力もついてきている。目立つことを受け入れない限り、いつまでもマジックバッグが使えない。どこかで決断する必要がある。


「そうか、そうだな……。マジックバッグから取り出すなら、ちょと目立つけど言い訳が立つ。じゃあ、このバッグをマジックバッグにしてしまうか。この際だ、シーラのバッグもやってしまおう」


 カナタの肩掛けバッグとシーラのバックパック、両方の内部に亜空間収納の魔術陣を施す。今のカナタなら最大2.5t入るマジックバッグを作れる。ただ、マジックバッグを開くのに必要な魔力はその消費量は容量に比例し、それを減らすには空間魔術スキルLVを上げるしかない。

 空間魔術スキルLV0のシーラがマジックバッグLV5を開くと、カナタの36倍の魔力を消費し昏倒してしまうため、丁度獲得したオークリーダーの魔石を設置し回路化する。


「念のため、焼き印を削って……。よし、できた」

「やったー、マジックバッグです!」


 シーラは嬉々としてオークの死骸をマジックバッグに放り込んでゆく。



 土変形の魔術で上部に穴の開いた竈を作り、薪を水操作の魔術で乾燥させてから中に入れ、着火する。フライパンを載せ、皮の部分の削ぎ落した脂を入れ馴染ませる。オークリーダーの腕肉から500gくらいの肉片を2つ切り取り、フライパンに入れ、塩と胡椒をふり、外側をこんがり焼く。最後にワインを入れて蓋をしてしばらく蒸し焼きにする。


「おお、すごい旨そうだ」


 皿に取り分け、二人はナイフとフォークで齧りつく。

 脂身が少なく、肉の旨味が濃く、柔らかい。調味料は塩と胡椒だけだというのに飽きることなく食べられる。オークより数段味が濃い。


「これは幾らでも食えそうだな」

「お代わりください!」

「自分で焼けよ。料理できるんだろ?」


 シーラはさっそくリーダーの腕から肉を切り出し、フライパンで調理を始める。


「美味いが……、腹が苦しい……。これがオークジェネラルとかオークキングとなるとどれだけ美味いのやら……」


 さすがに一人500gは苦しくなってくる。


「うほー、お肉お肉!」


 お代わりが焼きあがりシーラはどさっと皿に乗せる。1kgはありそうだ。


「叔父さんにも食べさせてあげたいです」


 にこにこしながら一口で100gくらい平らげてゆく。凄い肉食系だ。

 カナタが肉を1枚食べ終わる頃、シーラもお代わり含めて食べ終わる。


 膨れた腹をさすりながら夜の草原で寝転がる二人。

 いささか不用心だが幸せなひと時だった。



 それから、ゴブリンやオークが何度か現れたが、オークリーダーほどの脅威と遭遇することはなく、カナタたちは無事ノシュテットへと到着する。


 ノシュテット市。城郭を持つ街を統治する爵位を子爵といい、この街はノシュテット家当主ヴィクトル・ノシュテットの領地である。

 夕暮れ前だった。城門前はサンダールほど並んではいない。馬車の並ぶ中門の列はすぐ捌けてカナタたちの番になる。


「ご苦労様です」


 二人は身分証を見せる。二人とも銅ランク冒険者だった為か身分確認は簡単に終わる。


「入市税が一人銀貨1枚、馬車税が銀貨5枚だ。あと、不審人物や危険物が載っていないか検査させてもらう」


 警備兵がそう言う。税はサンダール市と変わらない。

 荷物が少なったおかげで検査もすぐに終わった。

 馬車はすぐに街の中央広場へと向かい、シーラに番をしてもらってカナタは商人ギルドへと入る。


「ええ、相場から若干の手数料を引き買取もしております」


 ギルドの受付の男は快く対応してくれた。


「胡椒ですか。どちらからお越しで」


 そう言って相場のファイルをパラパラとめくる。


「領都サンダールです」

「おお、それは相当長い道のりだったでしょう。ご苦労様です」

「ん? いえ、10日ですよ」

「え、もしかして南北街道で来られたのですか?!」

「ええ、それが何か……?」

「南北街道はゴブリンやオークなどの魔物が多く、護衛費が嵩むからと、避けて通る商人が多いのです。それがまあ、なんと、よくご無事で」

「確かに、オークもゴブリンも多かったですね。わたしは冒険者も兼ねていまして。もう一人の連れも冒険者ですからなんとかなりましたが」

「それはそれは頼もしい。ええと、胡椒はkgあたり金貨3枚と銀貨50枚ですね」


 買値がkg金貨3枚なので、利益はkg銀貨50枚。200袋で金貨100枚。確かに二人の働きからしたら高い。だが、あのオークの群れを倒せるだけの護衛を数人雇ったらどうだろうか。

 オークを倒せるだけの手練れの護衛を、あの13匹と戦えるだけ人数を揃えるとなると……。腕の立つ護衛10人、1日銀貨50枚として、10日だと、金貨75枚。商人が命を賭けて金貨50枚の利益。仕入れが金貨600枚で利益が50枚なら利益率8%か。

 それでもオークリーダーは倒せるか分からない。それで護衛が死んだり荷物を失ったりしたなら目も当てられない。確かに普通なら避ける経路だ。


「わかりました。それでお願いします」

「裏に馬車を運び入れてください。そこで受け取ります」


 荷物の受け渡しと決済が済み、決済証を受け取った。



 次に、二人では食べきれないであろうオーク肉を売りに冒険者ギルドへと移動する。

 あれ以降遭遇したオーク10体とオークリーダーは取っておくことにした。


「オークが10体ある。買い取れますか?」


 カナタは受付嬢に声を潜めて言う。


「オーク10体?!」


 受付嬢は慌てたように声を上げる。


「声が大きい!」

「す、すみません……」


 しかし、時すでに遅し、ギルドのホールにいたほとんどの人はそれが耳に入ったようで、信じられないような顔をカナタに向けている。


「はい、解体部屋へと案内します。こちらです」


 ギルドの作りはサンダールと一緒だ。1階の奥に解体部屋がある。魔物解体を担当する男がいて、受付嬢は戻る。値付けもこの男がする。


「オーク10体と聞いたが?」

「魔術で表面は焼けているから余り状態は良くない。魔石はすでに取ってある。買い取ってもらえるか?」


 そう説明する。


「まあ、傷み具合は見てみないと分からん。持ってこい」

「ここで出していいか? 声を上げるなよ?」


 肩かけ鞄に手を突っ込みオークの腕を引き出すと、そのままずるずるとオークの死体が出て来る。


「な、マジックバッグかああああ?!」

「大声出すな馬鹿野郎! ここの受付もそうだが、顧客の秘密ってもんを守れないのか?!」

「す、すまねえ……」

「全部出すぞ」


 オークの巨体が10体並ぶのを解体担当はじっくり見てゆく。


「オーク1体なら魔石抜きで金貨1枚が相場だが、皮は全部だめだな。こいつとこいつは半分ほど焼けてやがる。半端もの合わせて全部で金貨6枚。それでいいか?」

「それでいい」



 二人は広場からさほど離れていない厩のある上等な宿に入り、馬車を預ける。


「ダブルベッドで!」


 シーラは迷わず女主人に主張する。


「勝手に決めるな、シングル二つ」

「お客様、あいにく、一人部屋は一つしか空いておらず……」

「じゃあ、シングル一つと、もう一つは何でもいい」

「昨日まで二人きりで寝てたじゃないですか!」

「紛らわしい言い方するな。一人が警備に立って、一人ずつ寝てたろうが!」

「お客様、お静かに、お客様……」


 あれこれと言い争っていたが、宿側の勧めもあり、二人部屋に収まった。



 ソフィア・ニーダールはライ麦パンが好きだった。それはもう毎日どころか毎食どころか、常にライ麦パンを持っていないと気が済まないほどだった。そのせいで魔術学院入学早々から【黒パンのソフィア】と呼ばれることとなり、それでもその習性を変えることは無かった。


「黒パンのソフィアさん、この魔法陣の空白には何が入りますか?」


 一年の最初から、教科書に隠れてライ麦パンを食べていると、決まって先生に当てられる始末だったが、ソフィアはずば抜けて優秀であり、そのことごとくを回答した。小さく可憐な見目と似合わず、気難しく傲慢な物言いであったが、成績は常にトップであった。


 次第に、『黒パンのソフィア』に天才が加わり『天才黒パンのソフィア』と呼び名を変えた。さらにそこから略され『天才黒パン』と呼ばれることになる。もう誰も彼女をソフィア・ニーダールと呼ぶことは無かった。

 そして、3年の学生期間をすべてトップで過ごし、首席卒業となり、卒業式で名前が呼ばれても誰も彼女の名前を憶えていなかったという。


 卒業後、特に親しい友人もいなかったソフィア・ニーダールは『天才黒パン』の名のみを残し、いずこかへ去って行った。

 その後、冒険者ギルドに登録したとか、魔術師ギルドにいるなどと噂が流れたが、どれも間違いで、彼女の姿を見ることは無かった。どこぞの貴族の娘だったので、官僚になっているとかなっていないとか。そんな噂も流れていた。


 しかし、天才黒パンは別の道を進んでいた。彼女は魔術学院3年の間、ノシュテットのあらゆるパン屋のあらゆる黒パンを食し、ランキングまで付けていた。

 そして、卒業式から数日後の早朝、天才黒パンはそのランキング1位のパン屋『パン屋早起き鳥』の扉を叩いていた。


「パンを焼いているのは分かっている、出て来いっ!」


 その声に驚いて出てきた店主であり若きパン職人であるエドガーだったが、客人のその子供ともとれる小さな体躯と可憐な容姿に似合わぬ、不遜な言葉遣いに記憶があった。


「なんでい、天才黒パンじゃねえか……。学院は卒業式終わったんじゃないのか? なんでまだノシュテットにいるんだ」

「わたしにエドガーのライ麦パンを教えて欲しい。おまえのライ麦パンが一番おいしいのだ」

「はあ? いや、褒められるのは嬉しいがな、貴族の嬢ちゃんで天才魔術師が、どうしてパン屋の真似事がしたいんだ?」

「おいしいライ麦パン以上に重要なものがあるのか? ない。だから、ノシュテットの人間すべてが、おまえに膝を突いて教えを乞うべきなのだ!」


 天才黒パンことソフィア・ニーダールは、片膝を突き、頭を下げ最敬礼する。


「頼む。わたしにおまえのライ麦パンを教えてくれ、この通り!」


 さっさと追い払うつもりだったエドガーだったが、ソフィアが本気なのを見て取って、その申し出を受け入れざるを得なかった。

 エドガーは自分の家の空き部屋を与え、食事を与えた。体に似合って少食だが、体に似合わず黒パンだけはやたらと食べた。

 エドガーはソフィアにパン作りの基礎から教えてた。しかし、好きは最大の才能と言うべきか、ソフィアのライ麦パンを作るその腕はあっという間にエドガーに追いつこうとしていた。


 そしてソフィアのパンは急速に進化した。ライ麦パン独特の密度の高いみちみちもっちり感、発酵過程でつくほんのりとした酸味、全粒粉の滋味溢れること、二か月でエドガーの腕を抜いてしまったのだ。


「なんてことだ……。天才黒パンの名は伊達じゃなかった。本当に、おまえは黒パンづくりの天才だ。俺が保証してやる!」


 こうして『天才黒パン』は微妙に意味を変えた。

 ソフィアには目指すべき黒パンのビジョンがあるのか、さらに黒パンの味は先鋭化し、おいしくなる。

 とうとう、黒パンがメジャーな食べ物であったノシュテットの人々は彼女を『黒パンの天才』と呼び始めた。そして、彼女が作った黒パンを『天才黒パン』と呼ぶようになる。

 また『天才黒パン』の意味が変わったのだ。



「この黒パン、美味しすぎないですか?」

「うん、これが黒パンと言われてもなあ。おい、シーラ、食い過ぎだろ」

「ほっへもほいひいれふ!」


 カナタとシーラは夕食に出た黒パンがやたらと美味しく、名物のニシンの姿煮のシチューを放っておいて黒パンを奪い合っていた。


「とっても美味しいでしょう? もともと『早起き鳥』の黒パンは美味しくて有名だったんですけどね。新しいお弟子さんが入って、その子が黒パン作りの天才なんですよ。今ではその子が作った黒パンは『天才黒パン』って呼ばれてるんですよ」


 二人の食べっぷりに女主人が黒パンについて説明してくれた。こんなに美味しい黒パンがあるなら、誰もわざわざ高い小麦のパンなど食べないだろう。


「へえ……」

「カナタさん、カナタさん」


 シーラは何か企んだような顔で耳打ちしてきた。


「なんだ、シーラ」

「確か、マジックバッグって時間が止まるんですよね……」

「ふふ、いいことに気が付いたね、シーラ」

「うふふ」

「ふふふ」



 次の日の早朝、朝食よりも前、二人は当初の目的も忘れてパン屋『早起き鳥』へと向かう。


「押すんじゃないよお!」

「ママあ!」

「割り込んだなテメエ!」

「割り込んだのはテメエだろうが!」

「今日こそ天才黒パンを買うぞお!」


 開店前から店の前は人だかりでごった返しており、それは混乱を極めている。


「シーラ、これで本当に買えると思うか?」

「ここまで人気なんですね、正直甘く見てました」


 その時、ドカッと音を立てて店の戸が開いた。


「うるさあああああああああああああい!」


 ちみっこい黒髪の少女が現れ、その可憐な容姿に似合わず、どすの効いた声で叫ぶ。前髪を切り揃え、腰まである長い髪を後ろで縛り、コック帽子を被っている。


「早朝から近所の迷惑も顧みず騒ぎおって! 毎日毎日1列に並べと言うとるだろうが! おまえたちは餌に群がるゴブリンか!」

「おお、黒パンの天才だ! 可愛いぞ、黒パンの天才!」

「黙らんか!」


 少女は囃し立てた手前の男を蹴り倒す。


「一列に並べ! 並ばないやつはまとめて焼き払うぞ!」

「あれは本気だ、みんな一列に並べ! 一度、炎風の魔術で大問題に……」


 あれだけ混乱していたのが嘘のように綺麗な列ができてゆく。カナタとシーラもおずおずと列に並ぶ。


「わたしが朝焼いたのは200斤だ。それよりあとの人には申し訳ないが、昨夕焼いたもので我慢してもらう。所詮黒パン、日持ちするから心配ない。それに、師匠の黒パンもうまいぞ」


 人気だからといって値を上げているわけではなく、一人1斤しか買えないらしい。だからこんなに混んでいるのだろう。

 二人はギリギリ200人以内に入った。銅貨30枚を払い、紙包みを受け取る。一斤は重さなので他のパンと同じ重さなのだが、黒パンは密度が高く小さい分、ずっしりと感じる。


「まだ熱々ですよ!」

「これは旨そうだ……」


 カナタもシーラもそれぞれ紙袋に手を突っ込み、千切って食べる。

 美味い。熱々だと風味が強く、柔らかく、昨日食べたものとはまた違う美味しさだ。


「しかし、大量に買って保存しようと思ったんだけどなあ……」

「うーん、期待通りにはいきませんねえ」

「注文するか」



 客の波が引いてから、カナタとシーラはちみっこい少女の店員に話しかけた。

「100斤、天才黒パンを注文したいのですが」

「100斤、天才黒パンを注文です!」

「100斤だと? どこかに売り捌くつもりか? 駄目だ、わたしは安くてうまい黒パンを食べさせたいんだ。転売したら高くなるだろうが!」


 少女はお冠だった。


「いや、転売なんてもったいない。自分で食べる分だ」

「わたしもです」

「100斤もあったらそこまで長い間は持たない。美味しい食べ時ってのがある」


 ごもっともだが、カナタとシーラには関係ない。


「実はこういうものを持っていて……」


 カナタは自分の鞄を開いて見せた。その中はただただ真っ暗で底が見えない。


「?! もしや、マジック……」

「しっ、大声を出さないでくれ。それにしても、見ただけでよく分かったな」

「魔術に関しては相応の知識がある。魔術学院では本物を見たことがあるからな」


 少女は胸を張って偉そうに言う。


「へえ、魔術学院にいたのか。面白かったか? 俺も魔術師なんだが独学でな。たまにそういう場所に行ってみたいと思うことがある」

「ほう、マジックバッグ持ちで独学で魔術師ってことは、冒険者か。……そうだな、理論を学びたいなら学院に行った方がいい。高スキルになると使える理論がいろいろとあるし、実習でもコツを学べる。まあ、スキルを上げるのは本人の努力次第だが」

「そうか、学院には用事があるから、そのついでに何やってるのか聞いてくるか……」

「こっちの嬢ちゃんは?」


 と少女はシーラに向かって問う。

 いや、嬢ちゃんはお前だろ、と言いそうになって堪えた。言ったら絶対に怒られる。


「はい、わたしは戦士です。このリュックがそれです」

「むう、ならいいだろう。夕焼きの後に焼いてやるから、日没後、6つの鐘の時刻に来い」

「頼む」

「ありがとうです!」

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