6■塩戦争2

 一か月が経ち、冬至を迎える。

 温暖なストールグリンド伯爵領では、冷たい雨が降る程度であったが、南国の人間にはまさしく冬である。ストールグリンド伯爵ことフレデリク・フランセンは、暖炉を焚いた暖かな執務室でくつろいでいた。ノシュテットの小僧は膝を突いた。岩塩採掘場は元の通りに修復された。何もかもがうまく行きご機嫌だった。

 しかし、そこに入って来た内務長官の報告に驚愕することになる。


「なに? まだ海塩が市場にあるだと!」

「はい。それゆえ、岩塩がだぶつき、採算が合いませぬ……」

「どういうことだ、外務長官!」


 後ろには外務長官が侍っていた。


「はっ、わたくしにもどういうことか分かりませぬ」

「考えろ! それがお主の仕事だろうが!」

「もしやとは思いますが、海塩の生産がまだ続いている可能性が……」

「やつは戦争を回避して製塩事業をやめると言ったのであろうが!」

「はい、閣下」

「確認してこい!」



「どういうことですかな。まだ製塩事業を続けられておられるのは、沿岸地域を見て確認しましたぞ!」


 三度、ストールグリンド伯爵領外務長官トマス・トルネンが現れる。


「おやおや、わたしがいつ製塩事業をやめると言った? 苦渋の選択をすると言ったのだ。勝手に喜び勇んで帰って行った昔日の様子はどこへやら」


 カナタはわざとらしい顔でそれに答える。


「な、我々を誑かしたと申すか!」

「市場の理も分からず、証拠もないのに罪を着せ、気に入らないからと戦争を吹っ掛ける。そんな南の蛮人には、程度に応じた対処というものがあろう」


 カナタは小馬鹿にしたような厭らしい笑みを浮かべる。


「むううう! このうえは、武力によってその笑みを消して見せようぞ!」

「やれるものならやってみろ。貴殿の愚かな主君が悔しさで悶死するところが見えるぞ」

「首を洗って待っておれ! この流民上がりが!」



 ノシュテット高官たちはカナタの部屋に集結した。


「今度こそ戦争であるな……。フィアーグラン卿に協力を申し出るのか?」

「いや、その必要はない。フィアーグラン卿にはただでさえ借りが多いんだ。さらに借りを増やしてどうする」


 ソフィアの言にカナタは俯きながら応じる。


「では、何か先手を打つべきではありませんか?」

「大丈夫。もう手は打ってある。奴らの兵はノシュテットで十分戦えない。戦えないよう仕込み中だ。ビルギット」


 後ろに控えていたビルギットが一歩前に出た。


「はい、閣下」

「戦争の用意をしている領と敵兵力は?」

「ストールグリンド伯爵領とリッテングリンド伯爵領だけです。ストールグリンド伯爵領都の警備兵上限は3000ですが、そのうち2700を出しています。伯爵領内の子爵領が3つ、警備兵上限1000ですが、それぞれ300程度。男爵領が数多くありますが、こちらは各30人程度です。計4000ほどとなります。東のリッテングリンド伯爵軍は領都より1000。合計5000程度となります」

「進軍状況は?」

「ストールグリンド伯爵軍はヴェストラプラ侯爵領を通過中です。ヴェストラプラ卿は王都西側派閥の長で、ストールグリンド卿の通過を許しているようです。

 同じく、リッテングリンド伯爵軍は王都東のオステルラプラ侯爵派閥傘下で、オステルラプラ侯爵領北部を通過中。そのままヴェストラプラ侯爵領北部を通過し、ヴェストラプラ侯爵領北部で集結するかと思われます」

「十分用意できたか?」

「はい、閣下。既に工作部隊が追跡しております」

「とまあ、こういうことだ」


 ソフィアがジト目でカナタを睨みつける。


「工作部隊とは、具体的に何をやるのだ?」

「戦争の基本だ。兵糧を焼く」



 吹き荒ぶ冬の風の中、ストールグリンド伯爵領警備兵の行軍が始まる。2700の兵がノシュテット方面である北西へ向かって出立する。伯爵に応じた領内子爵領、男爵領からも、30~300の警備兵が動く。

 北東のリッテングリンド伯爵領の警備兵1000も同時に動き西進している。

 それぞれ4000と1000。総数5000。

 1000の警備兵しかいないノシュテットへ向け、5000の兵士が迫っていた。


 しかし、ストールグリンド伯爵軍が北に進むにつれ、彼らの戦意はしぼむばかりだ。南の兵士には最北のノシュテットは寒すぎる。冷たい雨は次第に冷たいみぞれに変わり、最後には吹雪となる。脚腰は冷え、肩が震える。

 そんな中でも行軍は進み、ストールグリンド伯爵領から進んでから20日後、リッテングリンド伯爵領軍と合流し、ノシュテット市の城壁を囲むよう配置された。


「寒さが何だ! 気合を入れろ! このような小さな野城、圧し潰してしまえ!」


 ストールグリンド伯爵フレデリク・フランセンは毛皮の下着を着こみ、寒さに身を縮こませる兵士に向かって檄を飛ばす。

 カナタは城壁の上からそれを見ていた。


「警備兵長サムエル・サンテソン殿、貴殿の言う通り、平和な時を過ごしてきた貴族は兵法を知らぬようだ」

「大規模な領地間戦争は、50年前にオステルラプラ侯爵軍がヴェストラプラ侯爵を攻めたのが最後です。兵法書でも読まぬ限り戦の知識などありますまい。冬に兵を遠征する時点で常識知らずが伺えます」

「今日一日持たせろ。夜には手を打つ」

「はっ、必ずや持たせてみせます」


 5000の兵が迫り、1000の兵は城壁から弓を撃って応戦する。矢の雨が城壁の外へと降り注ぐ。外壁にとりつく兵がいても、それは城壁の上の兵士が弓を射て落とす。

 数の差のせいで際どい場面もあったが、膠着状態のまま日没まで続いた。


「閣下、敵は日没になって引きました。今日はなんとか凌ぎました」


 兵長サムエル・サンテソンはカナタに報告する。


「よし、よくやってくれた。ここからはビルギット殿の手腕を期待しよう」


 外務長官ビルギット・ニーダール麾下、外務官補佐は100人まで増えている。彼らはもと兵士であり、諜報員であり、そして、工作部隊でもある。

 城壁から遠く、小さな火の手が上がる。それに呼応するように、次々と小さな火の手が増えてゆく。それは各領の軍を追跡していた工作部隊が敵軍の食料に一斉に火を放ったものだ。



 しかし、ストールグリンド伯爵を盟主とする軍は、その追跡に気づいておらず、誰が火を放ったのか把握できず、阻止することができない。


「これはどういうことだ!」


 ストールグリンド伯爵は叫ぶ。


「何者かに食料を焼かれております!」

「ええい、火を消せ、食料が無かろうと、あんな野城、すぐに壊してしまえばいい!」


 配下は何も言えず、その命令に従う他なかった。



 二日目の朝、再度の攻撃が始まる。


「閣下、敵の攻撃は勢いを欠いております」


 警備兵長サムエル・サンテソンはそう意見する。朝っぱらから既に精彩を欠く攻撃。これは勝ったなとカナタは笑みを浮かべる。


「そうか、なら一方的に射かけてやれ。愚かで悲しいストールグリンド伯爵連合軍に、その愚かさと悲しさを理解させてやれ」


 攻撃は続くが、さらに覇気の無いものへと変わってゆく。昨晩の食料焼きはかなり効いているようだ。


「無理はさせるな。あいつらは弱っている。ほっといても去っていくだろう」



 三日目の朝、二日間食事をしていない敵軍は既に死に体であった。


「おお、だいぶ弱って来たな。ここで一押ししたい。シーラ!」

「はい!」

「敵軍の将の首を取って来て欲しい。あそこにいる豪華な鎧を着たデブだ」


 カナタはビルギット・ニーダールから聞いていた位置関係から、ストールグリンド伯爵を特定し、指さす。


「行ってきます!」


 シーラは城壁の階段を降りて小門から出ると、真っすぐ伯爵へと向かって走る。


「ソフィア、シーラが敵将の首を取りやすいよう露払いしてくれないか?」

「お安い御用だ」


 ソフィアは魔術を唱える。


「上に風、下に大地、雷槌!」


 既に立ち込めている黒雲から雷光が煌めき、瞬間、ストールグリンド伯爵軍が弾けて飛ぶ。遅れて怒号のような雷鳴が辺り一面に響き渡る。

 前衛が蜘蛛の子を散らすように居なくなり、その中シーラは単身で突っ込んでいく。

 【鬼切丸】を一振り、一振り、そして、一振り。

 一刀ごとに一人が死ぬ。

 シーラは進む先に、無駄に豪奢な鎧を着た馬上の肥えた男を視界に捉える。

 あれですね……!

 シーラの速度は一層疾風のごとく速度を増し、突き進む。

 そしてその男が乗る馬目掛け、剣を振り切る。

 馬が真っ二つになる。

 慌てた男が落馬するなか、さらに続けて斬り上げる。

 ストールグリンド伯爵フレデリク・フランセンは地面に着く間もなく真っ二つになる。シーラは汚いものを触るようにして、首を切り落とすと、左手に掴み、高く掲げた。


「ストールグリンド伯爵フレデリク・フランセン、ここに獲りました!」


 その言葉に兵士たちがじりじりと下がって行く。

 シーラは翻ると、その首を持って城壁へと戻る。


「兵長はいるか?」

「は、ここに!」

「シーラがストールグリンド伯爵の首を取って来た。どこか目立つところにこの首を飾っておけ!」

「分かりました!」


 寒さに凍え、食料を失い、盟主の首を城門に飾られた軍に、打つ手などない。軍は下がり、兵たちは、自分の故郷へと退散してゆく。


「よし、出陣だ!」

「は? 何と仰いました?!」


 兵長サンテソンはカナタの言葉に戸惑う。


「出陣だ。このまま飢えた敵兵を放っておいたら、周囲の農家などを略奪するかもしれない。領界まで追い立ててやれ」

「御意!」


 大門が開く。警備兵大隊300が2つ、怒涛の如く城から雪崩れ出ると、それぞれが東と南に分かれ敗走する軍の尻に食いつく。

 数の差は圧倒的に不利だが、士気の差は圧倒的に有利だ。兵士たちは雄叫びを上げながら敗走する兵を背中から槍で追い立て突いてゆく。


 それは夕暮れまで続き、敵の兵士はノシュテット領に一人も居なくなった。


 ノシュテット子爵領の警備兵に怪我人はいたが、奇跡的にも、死者は出なかった。

 その夜、兵士たちには酒が振る舞われた。怪我をした兵士も浮かれて酒を飲んでいる。領民たちは鮮やかな戦勝に浮かれてお祭り騒ぎとなる。


 シーラは【伯爵殺し】と呼ばれ兵士たちからの人気がさらに上がることになる。

 ソフィアは【雷槌の魔女】と呼ばれ、その愛らしく小さな姿に似つかわしくない恐ろしい力が畏敬の念を集める。

 そして、誰一人死なせずに5倍の戦力を相手にノシュテットに勝利をもたらしたカナタは、【奇跡の人】と呼ばれることになる。



 その日、ストールグリンド伯爵領外務長官トマス・トルネンはノシュテット城の謁見の間にあった。トルネンにとって、急に主君を失い、次の主君を争ってのお家騒動が起こっている中のノシュテットへの訪問である。

 トルネンは跪き、首を垂れる。


「面を上げよ」


 そこには以前と同じ玉座から冷たい怒りを含んだ視線で見下ろすノシュテット子爵カナタ・ディマの姿があった。


「講和を申し出たいと聞いたが?」

「はい……」

「それで、そちらからの条件は?」

「金貨2000枚の補償でいかがでございましょう?」


 トマス・トルネンは歯噛みしつつ答える。


「戦争の補償としてはずいぶん少ないな。屋敷2つの値段だぞ? こちらの損害が少ないから補償額も少ないのか?」

「いえ、領庫の都合ゆえ……」

「おまえたちはノシュテット子爵領を数で圧倒し、全滅させに来た。1000人の兵士が死に、3万の領民が略奪されたかもしれないと言うのに、兵士1人当たりたった金貨2枚の補償金だと? 戦争の為の食料は? 武器は? それに応じた補償を払え。そんな覚悟も無いままかかってきたとは言わせん」

「ぐっ……。金貨5000枚にてお許しください。それ以上の現金を支払えばストールグリンド伯爵領は破産します!」

「話にならん。金が無いなら伯爵が持つ屋敷でも売りに出せ。金貨20000枚だ」

「金貨7000枚でなんとか!」


 トルネンは疲労と精神的重圧で顔がどす黒い。ここで押し切られれば伯爵家からどんな無理難題を押し付けられるか分かったものではない。


「……こちらは全面的にやりあっても良いのだぞ?」


 だが、カナタは容赦なかった。


「こ、これはお戯れを……」


 あれだけ限界の防衛戦をやったノシュテットにそんな余裕があるとも思えない。


「急な主の死、ストールグリンド伯爵家は今、二つの派閥に分かれ、二人の子息を盛り立てて争っている最中。このような状況下で、そちらはまともに戦争などできるのか? ヴェストラプラ侯爵領を通過するのは無理でも、辺境伯領を経由すればそちらに行けるのだぞ?」


 顔色の悪いトルネンがさらに青ざめる。なぜ、この男はこれほどまでにストールグリンド領の内情を把握しているのか。

 思えば、こちらが塩田を破壊した直後に岩塩採掘場が破壊され、最後通牒を突きつければのらりくらりと戦争を冬まで延ばされ、遠征した先でまんまと食料を焼かれて軍は壊滅。何より、ノシュテット側の被害は微少。死人一人さえいないのだ。こちらの被害も伯爵自身の討ち死にを除けば軽微。

 この男は戦争になるとことを見越し、かつ、勝てると確信していたとしか考えられない。最初から掌の中で踊らされていたのかもしれない。カナタ・ディマという男を危険視し、素直に塩を減産していればこんなことにはならなかった。

 トルネンは苦渋の想いで肩を落とす。


「金貨10000枚を頭金として、さらに10年間、毎年金貨1000枚を払え」

「分かり、申した……」


 トルネンはその条件でストールグリンド伯爵の全権代理としてサインする。



 ここに、金貨20000枚という大商いが成立する。



「よろしかったのですか? 絞れるだけ絞ったという感じでしたわ」

「カナタさんは凄いです!」


 カロリーナは心配そうに、シーラは朗らかに言った。


「領民相手じゃないんだ。毟れるだけ毟ってやる」


 カナタは得意げだ。


「うむ、あれを見て、お主が悪い商人だということを思い出したわ。男爵領も借金に苦しんだ父をそそのかし、金で買いおったものな」


 ソフィアの言葉に、ニーダール夫妻は苦笑する。


「人聞きの悪いことを言うな!」

「でも、これで終わったのでしょうか? 他領に遺恨を残してはまた何かが起こりそうで」


 やはりカロリーナは心配そうだ。


「遺恨は残るだろう。だけど、素直に払うなら、出兵などという馬鹿なことはできない。ま、最初の10000枚さえ払えば文句はないさ」

「閣下は、トルネン殿が支払いを反故にすると仰るのですか?」

「いや、トルネンは反故にしないだろう。だから最初の10000枚は支払われる。だが、後継ぎが決まってしまえば、そいつが反故にする可能性が高い」

「でしたらどうしてそんな無理を……」

「サインがある。その時は堂々と国王に調停を求めるよ」

「それもそうですわね」


 カロリーナの表情から不安の色が消える。



 とある冬の朝、闇夜のようなローブを纏った一人の男が、馬に乗り、ノシュテットの街を出て行った。蛇の鱗の若頭たちが、ノシュテット司教と呼んだ男だ。カナタにオークキングをけしかけた首魁である。

 司教スティグソンは胸元の膨らみを撫でる。ローブの中にあったのは『盟約の笛』であった。


「やっと『盟約の笛』が見つかった。まったく、面倒なことになったな……」


 冬の風の中、男がそう呟くのを聞いた者はいない。

 倒そうとしたカナタ・ディマが逆にオーク軍を打倒してしまった。それどころか、ノシュテットの子爵になってしまった。さらに、諜報機関を使って蛇の鱗を調べていた。そんな街にいられるほど、司教スティグソンの手は多くなく、懐は広くはない。もともと、ノシュテットは子爵領であり、3万人ほどの小さな街だ。ディマ教としても司教と蛇の鱗がいるだけの最低限の人員しかいなかった。

 彼は近くの領の教会に身を寄せようかと一瞬考えたが、カナタ・ディマへの報復をするにはそれでは足りないと判断する。

 スティグソンは、馬頭を返すと、南の地、ストールグリンド伯爵領を目指した。



 南下するほどに気候は和らぎ、凍えるような寒さは去って行く。20日もすると春かと思えるような陽気に包まれ、司教スティグソンはストールグリンド伯爵領へと到着する。

 すぐに街に入ると、スラムの近くにある教会を訪ねる。中に入ると、男が跪いて叫んでいた。身なりの良い明らかに貴族の男だ。


「わたしに力をくれ! 他を圧倒する力を!」


 スティグソンはそれを横目に見ながらストールグリンドの司教の部屋へと面会しに入る。


「ようこそ、ノシュテット司教スティグソン殿」


 ストールグリンド司教はスティグソンをソファに促し、両者座ったところで視線を合わせる。


「すまぬ、しばらくここに住まわせてもらえぬか?」

「もちろん自由に居てくれ。部屋は空きがある。それにしても、笛を使う必要はあったのか?」


 ストールグリンド司教はそう言ってため息をつく。責める意図はない。ただ、驚きと失念だけがある。


「実はな、カナタ・ディマについて調べていたところ、マジックバッグを作ったという怪しげな情報があってな。それで調べていたところ、どうもやつの移動が早すぎる」

「なっ、まさか……」

「うむ、だがそれでも、1000のオーク軍をたった3人で撃退するなど、想像もしていなかった。ノシュテットには『蛇の鱗』しかいなかったが、本来、『蛇の体』で対応するべき相手だったのだろうな」


 スティグソンはそう説明し歯噛みする。ストールグリンド司教も息をつく。


「そうなるとカナタ・ディマを放置するという選択は無いな」

「そう言って頂けると有難い」

「分かった。こちらの『蛇の体』を自由に使ってくれ」

「協力痛み入る。ところで、あの男は何だ?」


 スティグソンはそう言ってドアの方を見る。


「あの男とは……? ああ、祈りの間で喚いている男のことか。やつはフランシス・フランセン。ストールグリンド伯爵の長子だ。今、お家騒動で次男と争っておってな。かなり不利らしい。我らも介入するかどうか考えておるところだ」


 スティグソンの目が輝く。


「それは丁度良い。わたしに奴を使わせてくれ。カナタ・ディマを屠る為に」

「分かった」



 冬のある日の午後、カナタの執務室には、内務長官カロリーナ・カンプラードと、内務諜報担当である、内務上級官メルケル・ヤンソンの姿があった。


「前ノシュテット卿の更迭時から姿を晦ませていたエストリン商会のカール・エストリンを捕まえました。やはり、男爵邸の強襲はエストリンからの依頼だったようです」


 メルケルの言葉にカナタは頷く。


「エストリンは、オーク軍については何か知らなかったのか?」

「それについてもしつこく体に訊いたのですが、ヤツは関わっていないようです」

「それで『蛇の鱗』はどうした?」

「申し訳ございません。接触方法を聞き出し、そのスラムの地下に行ったのですが、既にもぬけの殻でして、どうもエストリンも知らなかったようです」


 メルケルが肩を落とし、つられてカナタも肩を落とす。


「手掛かりも無しか」

「ええ、直接的な手掛かりになるようなものは見つかりませんでした。残されていたのはタバコやパイプ、酒瓶、それに、聖書などですね」

「……聖書?」

「これです。一般的なものです。中を調べましたが特に手掛かりになるようなものはありませんでした」


 ヤンソンはテーブルの上に汚れた『聖書』を置く。


「分かった。これは預かろう。下がって良い」

「はっ」


 ヤンソンは一礼すると、執務室を出て行く。

 デリケートな話なので侍従長を部屋から出す。残るは、カロリーナ・カンプラードと、近衛であるシーラ・ラーベ、ソフィア・ニーダールだ。


「で、聖書ってなんだ……?」

「ええ!」

「そこからか?!」

「まあ!」


 シーラ、ソフィア、カロリーナはそれぞれの反応をする。


「だから、記憶が無いって言ってるだろ」

「ううむ、主な神についてのエピソードや祈り方が書かれた書というべきか」

「そうですね。ソフィアの説明通りとしか言えませんが……」


 ソフィアとカロリーナは常識を説明するのは難しいとばかりに口ごもる。

 だが、シーラは得意げに語って見せる。


「全能神ソレン、慈悲の神モアナッド、知性の神エンファーナ、理性の神モロン、夢の神ナット、豊穣の神レイン、戦の神オスキャ、時の神ディマ、について書かれた本ですよ」


 最後の神の名を聞いてカナタは顔を上げる。


「そういえば、俺の姓のディマって時の神の名から取ったんだっけ……」


 皆沈黙する中、ソフィアが口を開く。


「まさか、神の名を騙る者を罰する為にオーク軍を送り付けたのではあるまいな」

「それは短絡的過ぎるますわ」


 カロリーナが首を振る。


「しかし、宗教というのは狂信者が多いからの。蛇の鱗の中にそういう狂信者がおったのやもしれん」

「蛇の鱗なんて犯罪組織の人間が、敬虔にも聖書なんか持っているものなのか?」

「ん?」

「え?」


 ソフィアとカロリーナは不思議な顔をする。


「なんだ? 俺、変なことを言ったか?」

「敬虔という言葉と聖書という言葉はそれほど相性が良いとは思えん」


 ソフィアはまじまじとカナタを見る。

 その言葉にカロリーナも頷く。


「聖人信仰や聖女信仰は『敬虔』という言葉が使われますが、神信仰に対してはあまり使う言葉ではありませんね。狂信者、利己主義者、神秘主義者、秘密主義者、あまり良いイメージはありません。聖書は歴史の始まりを描いた書物としては重要視されていますが、信仰対象となりますと……」


 カナタは頭を抱える。これはどういうことだろうか? 多神教で、神を信じる者はろくでなしと言う。


「全然理解できない……。じゃあ、神殿とか教会とかはないのか?」

「信者しか入れない教会が各都市にあると言われています。信者は貴族の傍系が多いと聞きますが、信者しか入れないので、場所も詳しいことも分からない状態です。一体どこからお金が入って運営されているかもハッキリしません。『蛇の鱗』のような犯罪組織と繋がって活動資金を得ているとも噂されております」


 カロリーナの説明はこの宗教をイメージするのに分かりやすいものだ。つまり、秘密結社のようなもので、そもそもが後ろ暗いことをやっていそうなイメージらしい。


「だけどまだピンとこないな……。どうして秘密主義なんだ? 宗教ってのは、その良き思想を広めようとするものだろう?」


 シーラ、カロリーナは顔を見合わせ、首を傾げる。

 ソフィアは言葉を探すように床を睨む。


「聖人聖女信仰はそのとおりだ。だがな、神信仰の場合は違う。この二つには、決定的に違うところがある。これは噂と想像を加えたわたしの考えだが、良いか?」

「聞かせてくれ」

「聖人聖女信仰は聖者たちの良き行い、良き言葉を伝えるものだ。しかし、神の場合は異なる。神を信仰するものは、神の力を得るべくして神を信仰する」

「……神の力?」

「あくまで噂だ。その力を公に使ったなどとは聞くことが無いからな。だが、その力を独占すべく、人を厳選し、他者を排除する。それが神信仰だ。だから魔術師は神信仰を軽蔑している。自力でスキルを磨かず、力を欲して神を信仰するのだからな」


 そのソフィアの言葉でカナタは納得がいく。力を欲しながら努力できない人間が最後に縋るのが、神の力というわけだ。


「なるほど、やっと少し理解できたような気がする」


 カナタはその聖書を手に取ってパラパラと捲ってみる。


「あれ……」


 ページはほとんど開かれた形跡が無く新品だ。

 だが、本の終わりに近づいた時、明らかにこの最後の部分だけが何度も開かれ、何度も読まれているのが分かるくらいには薄汚れている。


「ディマの章……?」


 それはこんな言葉から始まっている。


『ディマは時と場を移ろい、人の運命に悪戯をする。その力を得るには、あらゆる場所、あらゆる時に祈りを捧げなくてはいけない。』


 神の名を騙る者を罰する為にオーク軍を送ったというソフィアの意見は、あながち間違いではないのかもしれない。

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