4■黒パンのメッセージ4
ぽこんとお腹を膨らませたソフィアは、げふ、と一つげっぷすると、血に汚れた手を洗いに厨房へ行く。戻ってきたときには顔が晴れていた。
「さて、これからどうするか考えなければな!」
「ソフィア様はどうしたいですか?」
カナタは率直に聞いてみる。
「様はもうよせ」
「じゃあ、ソフィア、途中経過はおいといて、最終的にどうしたい?」
「ライ麦を守りたい。これはわたしの希望だ。
しかしその前に、この領地の金銭的な問題はまず父上と話をしなければいけない。代官も領主もいない領地で娘が何をしても仕方あるまい。とはいえ、金貨1500枚もの大金が父上にあるとは思えぬ。エストリン商会の思惑に乗らずにどうこうしたいと言ってもどうにもならぬだろうな」
「領地のことだけじゃなく、ソフィア自身がどうなりたいかも教えてくれ」
「ふむ……。わたし自身は男爵という領地に対して執着はない。あればあったで面倒ごとが増えるし、無ければ困るというものでもない。魔術が使える以上、食うに困るとは思えんからな。後顧の憂いなく冒険者とやらの自由の身になりたいものだ。あとはたまに黒パンを作って、常に食べる分を用意しておければ」
「じゃあ、一緒に冒険者しましょう!」
シーラはそう言ってソフィアの手を取る。
「それは最後だ、今から浮かれる気にはなれんわ!」
カナタは考える。なんとかこれらが収まるところに収まるべき方法を。だが、既にそれに気づいていた。
少し考えを整理し、言う。
「ソフィアの要望を叶えられるかもしれない」
「方法があるのか?」
「けれども、それはフィアルクロック男爵夫妻と話してからでないと結論が出ない。まずは棺を用意してエーギルさんの遺体を安置しよう。それはこちらで手配する。そのあと、ソフィアを連れて領都へ行く」
問題は転移を知られてしまうことだ。
「ソフィア、その為には俺の秘密を知ることになるかもしれない。いや、恐らく知ることになる。それは誰にも言わないで欲しい。それが広まると俺は社会的に破滅する。できれば、解決後、冒険者としてパーティーに加わってくれると嬉しい」
カナタはソフィアが魔術学院をトップで卒業したと聞いてから目を付けていた。
【 名 前 】ソフィア・ニーダール
【 性 別 】女
【 種 族 】ヒューマン
【 年 齢 】20歳
【魔術基礎スキル群】
火魔術スキルLV6 水魔術スキルLV6 風魔術スキルLV7 土魔術スキルLV7
光魔術スキルLV4
【魔術応用スキル群】
融合魔術スキルLV7 魔力吸収スキルLV2
恐ろしく魔術スキルが高い。味方にできればどれだけ力になるかは明白だ。
「つまり、それを漏らさぬよう、近くにいろと?」
「そうなる」
シーラがソフィアに抱き着いた。
「いいじゃないですか、一緒に冒険者し……」
「いちいちくっつくなー!」
「良いではないかー良いではないかー。だってちっちゃくて可愛いんですよ? 仕方ないじゃないですか!」
「ちっちゃいとか言うな、無礼者が!」
「シーラ、ハウス!」
「わん!」
「まあいい、カナタの秘密とやらは守ろう。この件が上手く進むならば共に冒険者となろう。このような出会いと顛末も、時の神ディマの悪戯だろう。わたしはディマに誓って秘密を守ろう。カナタもわたしを裏切るなよ」
時の神ディマねえ。この世界にも普通に神様とかいるのか……。
「分かった。じゃあ、この石を屋敷の前に置かせて貰う」
「なんだそれは?」
「転移の魔術陣だ」
「転移だと! 失われた、あの、その……」
「それが俺の秘密だ。誰にも言うなよ?」
「なるほど。だからカナタとシーラはマジックバッグを持っていたのだな……」
サンダール商会も気づかなったことをソフィアはすぐ気付く。
「さすが優秀な魔術師。察しが良くて助かる。そういうことだ。だから、俺の仲間になればマジックバッグはタダでくれてやる」
「おお、それはいい! 絶対くれ! 絶対だぞ!」
カナタは屋敷の外に出ると地面に凹みを作り、魔術陣を描いた石をはめ込む。
「ソフィア、この石は動かさないようにしてくれ。俺たちが戻ってくる場所だ」
「わ、わかった……」
「実は、今日の午前、領都でソフィアの両親に会って黒パンを渡してきたんだ」
「なんだと?!」
「だが、夫妻ともども黒パンの意図に気づかなった。夫妻は作物を小麦に替えることを知らなかったからだろう」
「むう、やはり叔父上の独断だったか……」
「問題は……」
「何かあるのか?」
「今日夫妻と会ったので、しばらくは領都へ帰れない」
ソフィアはあちゃーと片手で顔を覆う。
「むう、戻るのが早すぎておかしなことになるな」
「領都からここまで往復するのに20日ほどかかる。だから、それくらい日数を見ないといけない。そうなると、エーギルさんの遺体が持たないから、こちらで葬儀を済ませないと」
「うむ、仕方あるまい……」
「そういう状況なんで、しばらくこの屋敷に泊めてほしい。そのエストリン商会がいつ来るか分からないしな。ソフィア一人というのも心配だ」
「わたしも賑やかな方がいい。むしろこちらから頼む」
「オークリーダーのお肉もありますよ!」
「なに、オークリーダーだと! 一度食べたことがあるが、それはそれは美味であった。黒パンとオークリーダーの肉があれば他に何もいらないのではないか?」
「それは言い過ぎだろ」
次の日、カナタとシーラは棺を買いにノシュテットの街に戻った。木工職人の話をたどり、棺専門の職人を見つけ、注文する。棺は即日に出来上がり、夕暮れには馬車に積み込んだ。
ソフィアは伯父が急死したことを領民たちに伝え、彼らを招いて追悼の宴を催した。
エーギルの遺体を棺に収めると、屋敷の裏の荒れ地に魔術で穴を掘り、棺を下ろす。墓石には名前と享年のみを空間切断を使って刻む。
宴は酒とオーク肉と黒パンを振る舞う。領民が語るのは、頼りになり、優しい代官の姿だった。
それを聞き、またソフィアは泣いた。
■
あれからしばらく、三人は穏やかな日々を過ごしていた。カナタが以前男爵夫妻と会ってから、行って戻る時間を稼がないといけない。それが20日間だ。
ライ麦の収穫の時期でもあり、領民は畑に出て麦を刈り始めている。
「よし、そろそろ行くか。少し早いが、急いで来たと言えばどうにかなるだろう」
カナタがそう言ったのは18日目のことだ。
「とうとう領都か……」
ソフィアは少し緊張したのか口元を強張らせる。
その日の午後、三人は屋敷の前に出る。
『亜空間収納』
カナタは馬車を収納する。馬の手綱を握り、シーラはカナタの背中を掴む。
「ソフィア、捕まって」
「あ、ああ……」
おずおずとした小さな手で、カナタのチュニックを掴む。
『転移』
そこはサンダールにほど近い街道脇の木々の陰だ。来る途中で転移魔術陣を描いた石を投げておいたのだ。カナタは馬車を出し、シーラと一緒に馬をつなぐ。三人はサンダールに向かって馬車を走らせる。
城門での身分確認もすぐに済み、馬車は街へと入る。街は活気づき、その中を馬車は進んでゆく。
「おお、懐かしい、領都ではないか。本当に一瞬でサンダールに来たのだな」
荷台に乗ったソフィアがきょろきょろと周りを見渡す。
「あの菓子がすきだったのだ!」
ソフィアはゆっくり進む馬車から飛び降りると、屋台のお菓子を買いに行った。
ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン……。丁度四つの鐘が鳴る。馬車は二の壁を抜け、一の壁を抜ける。王城の前で馬車を止めると、三人駆けるように城へ入る。謁見は待たされることなくすんなり入ることができた。
「お初にお目にかかります、閣下。フィアルクロック男爵ニーダールが娘、ソフィアでございます」
ソフィアは腰を大きく屈めた最上級のカーテシーをした。カナタと革鎧のシーラは片膝を突いて挨拶する。
「おお、おお、とうとう問題の家出娘の参上だの」
「ソフィア!」
謁見場にはニーダール夫妻もいて、ソフィアに駆け寄る。
「心配かけおって……」
ソフィアは両親と抱き合う。
「部屋を移すぞ、カナタ殿。ニーダール夫妻もだ。何か話があるのだろう?」
そこは今まで入ったことのない会議室のような大きな部屋だった。
「まずは、悲しい報告です。叔父エーギル・ニーダールが自死しました」
ソフィアはいつもと違う丁寧な口調だ。
「なんだと、エーギルが……!」
ボリス・ニーダールは愕然とした表情で肩を落とす。
「叔父の埋葬は向うで終えてきました。ここに伯父上の告白と、借用書があります」
ソフィアはその二枚をボリスへと差し出す。
その内容を読むボリスの顔色がみるみるうちに変わり、激高してテーブルを叩く。ぶるぶると頬が震えている。
フィアーグラン辺境伯は何も言わず見守っている。
「あの、あの愚か者めが、そんな金があるものか!」
ボリスはそう叫び、頭を抱え、俯く。だらだらと脂汗を掻き、ぽたりぽたりとそれがテーブルに落ちてゆく。それは社会的な死の淵にある人間にとって当然の有様だった。
「あなた……」
夫人も涙を溜めてボリスの腕に触れている。誰にもどうにも出来ず、誰も喋らずに時間が進む。
フィアーグラン卿はふう、と大きく息を吐くと、カナタを見る。
「カナタよ、何か考えがあるのか?」
「いえ、閣下」
カナタは表情を取り繕い、素知らぬふりをする。
「そうかそうか」
卿は次にボリス・ニーダールを見る。
「では、ボリスよ、そなたはどうするつもりだ?」
「もともとは閣下のご先祖から賜った領地、先祖代々守っていくのが当然でありながらこの失態、この首を差し出しまして……」
「そんな戯言を訊きたいのではない。お主も夫人も優秀な官吏だ。男爵領がなくともそれは変わらぬ。男爵領さえなければ今まで通り平和に暮らせるではないか?」
「男爵家は取り潰し、領地をないがしろにした私どもは極刑でなくとも、解雇ではないのですか?」
「この国に、この領に、そんな法があるのか?」
「いえ、しかし……」
「くどい! お主は、わたしの勘気に触れただけで首になったものが、この領におるというのか?!」
フィアーグラン卿は貴族的な横暴を嫌っているらしい。
「いえ、滅相もございません……」
「お主には二つ道がある。一つは借金を払いながら男爵領を維持することだ。それならばわたしがその借金を肩代わりしてやろう。ただし、きちんと利子を付けて返済してもらうことになる」
もちろんそうなれば再び代官を置くしかない。夫妻共に高級官吏であるため、ニーダール夫妻自らが男爵として采配を振るう方が収入は下がるからだ。
ソフィアに聞いたところによると、フィアルクロック男爵領の税収は金貨130枚程度。代官を雇った上に利子をつけてとなると、金貨1500枚は10年やそこらでは返済しきれない。
10年程度で返済するには領地の収入だけでなく、ニーダール夫妻の給金から持ち出しで支払う必要が出て来るだろう。その想像が正しいのか、ボリスは頷くに頷けぬ苦しい表情だ。
「そして、もう一つは、領地を管理できなかった罪として男爵位を剥奪とし、借金と共に領地を手放すかだ」
「借金と共に領地を手放す? そんなことが出来るのですか?! もちろん、それができるならばそうしたいところですが……」
フィアーグラン卿は何度か頷くと、カナタを見て笑って見せる。
「カナタよ、お主、貴族になりたいか?」
食えないじじいだ。こちらの思惑を隅々まで見通している。
「閣下のご明察、誠に感服いたしました。わたしには現金がございます。男爵の地位を賜る機会があるなら、借金は清算してみせます」
「えええ!」
「なんだと?」
シーラとソフィアが声を上げる。
「ただ、金で爵位を売るわけにはいかん。わたしに対して、領土に対して何か貢献をせねばな。魔道具の開発を近衛魔術師としてやっていればそれくらいは出来たのだが」
卿はカナタを試すような表情を見せるも、少し考えこむ。
「ではひとまず代官として任命し、わたしの金で借金を清算せよ。そののち、フィアルクロックの特産品を使った産業を一つ起こすことができたら、おぬしが借金を肩代わりし、それをもって授爵する。産業といっても小さくても構わん。才覚を見せろ」
金貨1500枚と産業というのはハードルが高い。だが、この平和な状況で土地を授けられて貴族になるというのは、それほどにハードルが高い。
「承知いたしました。ところで、こちらからも条件を申し上げて良いでしょうか?」
「言うだけならいくらでも言うがいい」
「これはフィアーグラン卿にではなく、ニーダールご夫妻へのお願いです。わたしは商人であり冒険者です。ソフィア嬢とお話したところ優秀な魔術師だと分かりました。ぜひ、この機会に、護衛として、また冒険者として我がパーティに加わっていただきたいのです。もちろん多少の危険は伴いますが、相応の報酬は払います」
「お父様、お母さま、わたしからも頼みます」
カナタにつづき、ソフィアも頭を下げる。
「それは構わないが、本当にカナタ殿は金貨1500枚にもなる借金を返せるのか?」
ニーダールの疑問はフィアーグラン卿が引き取る。
「それはわたしが太鼓判を押そう。こやつは先の『非殺傷武器』を作った当人だからな。たんまり儲かっているはずだ」
「あの竹筒ですか、なるほど……」
「では、急ぎ、カナタへの任官を行うとしよう」
一同は謁見場へと移動する。
「略式ではあるが……、そこに跪くのだ」
「はっ……」
カナタが跪きこうべを垂れると、フィアーグラン卿は大剣を抜きカナタの肩に置く。
「そなたをフィアーグラン辺境伯領上級内務官として採用し、フィアルクロック男爵領の代官に任ずる。領を発展させた暁にはフィアルクロック男爵に叙爵することを約束しよう」
「領の為、粉骨砕身働く所存であります」
肩に乗せられた大剣が引かれ、鞘に納められる。
■
カナタが代官になったお祝いはラーベ商会の応接室で行われた。
「男爵ばんざーい!」
「ばんざーい!」
「冒険者ばんざーい!」
「ばんざーい!」
酔っぱらったシーラが、酔っぱらったソフィアを膝に乗せてご機嫌にしている。ソフィアはすっかりシーラのおもちゃだ。
「何が男爵だこの野郎、抜け駆けしやがって!」
酔ったヨン・ラーベは悪態をつく一方だ。
「まだただの代官ですよ。金貨1500枚の借金清算と、特産品を作った産業が条件です。代わりましょうか?」
「よくもそんな金にならない爵位なんぞに手を付けたな、馬っ鹿じゃねえの!」
「まあまあ、この黒パン、美味しいでしょう?」
「ああ? 確かにうまいが、それがどうした」
「これを領都で売ろうと思うんです」
「なんだとこの野郎!」
これを言ったのはラーベでなくソフィアだった。
「ソフィアには黒パン専門店を開いてもらおうと思ってる。店長を雇って、ソフィアが黒パン作りを教えるんだ」
「なんだと、最高だ!」
ソフィアは立ち上がると、両手をあげたまま千鳥足でカナタにぶつかり、しがみつく。
「おっと。危ない。最高だろ? 絶対売れるはずだしな」
「カナター、カナター、おまえはいいやつだなー、アハハ」
「おお、かなり酔ってるな……」
ソフィアを両脇で抱え、シーラに渡す。
「きゃー、ソフィアちゃーん」
「ソフィアちゃんじゃないって言っとるだろうが!」
「ところで、それで貴族になれたとして、カナタ、お前に姓はあるのか?」
急にラーベから酔いの覚める質問がきた。
「いえ、分からないです。あったかもしれないですが……」
「おまえ記憶が無いんだったか……。男爵は家に与えられる世襲の地位なのに家名が無いとかおかしいだろう。なんか付けないと格好がつかないんじゃないか?」
「そうですねえ……」
「ディマだ! ディマ! 時の神の悪戯で我らは友誼を結ぶこととなった。それにあやかって、お主の家はディマと名乗るが良い!」
ソフィアが勝手にカナタの家名を決めた。
■
代官就任の次の日、カナタは目を付けていた店舗を借りに不動産商会へと行った。折よく潰れたばかりのパン屋があったので、そこを居抜きのまま借りることにしたのだ。そして、大工を雇い、内装工事を行う。
カナタは仕入れと売り上げの数字だけ管理し、黒パンの指導はソフィアに任せる。
最後に、若手のパン職人を募集し、ヴィゴという男を店主として雇う。
「黒パンですか? ここいらじゃ小麦がメインだから、あんなぼそぼそして不味いもの、誰も食べませんよ」
「それはこの黒パンを食べてから言え!」
ソフィアは一斤の黒パンを鞄から取り出すとヴィゴに渡す。ヴィゴは顔をしかめつつ一つまみして口に放り込むと、すぐに表情が驚きに変わる。
「な、な、なんですかこれは!」
しっとりしていて重厚な麦の味と、乳酸発酵のさわやかな酸味が口の中に広がる。
「だから、ただの黒パンだ。作る人間によってこれだけ変わるのだ。お主にはこの黒パンを作れるようになってもらう。あと、この黒パンの製法をよそに漏らさない契約もだ!」
「わかりました。こんな美味い黒パン作れるようになれるなら、なんでもしますよ!」
それからヴィゴの黒パン修業が始まる。ソフィアが付きっ切りで教える。彼女は才能に恵まれた人間によくある教え下手ではなかった。仕組みを教え、過程を教え、コツを教え、量と時間を数量化して叩きこむ。
生真面目なヴィゴはノートに整理し、保存する。それは後に黒パンのヴィゴノートと呼ばれるが、今は割愛する。
■
カナタ達が黒パン屋の準備をしていたころ、元フィアルクロック男爵であるボリス・ニーダールとその妻ビルギットはフィアルクロック男爵領へと向かっていた。魔物が徘徊する危険な南北街道を避けたため、時間が掛かる。
カナタが転移で男爵領に戻り、ニーダール夫妻を迎えたのは15日後であった。夕暮れに到着した夫妻が馬車から降りて最初に行ったのは、愚かな弟の墓を見舞うことだった。
「馬鹿者が、安らかに眠れ……」
ボリスは涙を流し呟いた。
次の日の日没、領民たちを男爵邸のホールに集め、顔見せをすることになった。
「元領主、ボリス・ニーダールだ。領地はフィアーグラン辺境伯の元に返され、新しい代官が任命された」
「カナタ・ディマと申す。皆とは元代官であるエーギル氏の追悼を行ったので面識がある方もいるだろう。わたしはこの村の代官となった。ひとまずは今まで通り仕事に励んで欲しい。村長アンドレ殿」
「は、はい!」
腰の伸びた健康そうな老人が前に出て来た。
「わたしはあなたを信じてまとめ役を任せる。なるべく館に居るようにするので、何でも言って欲しい」
「承知しました」
「それと、今年は納税分以外のライ麦を、相場の1割増しで買おう」
その言葉に、領民たちは大声を上げて喜ぶ。
「表で樽酒とオーク肉を振る舞うから思う存分やってくれ!」
とっておいたオーク肉が役に立った。20体あれば肉は2000kgは取れる。領民1000人分には足りるだろう。
ボリスは、村長アンドレと別れの挨拶をしていた。
「アンドレよ、こちらの都合で領主が変わることになるが、今後もよくやってくれ」
「前領主様にも代官のエーギル様にも随分と良くしていただきました。お別れは寂しゅう思います」
「新しい代官のカナタ殿は無茶を言うような方ではない。先ほどのライ麦の買取の話も聞いたであろう」
「ええ、二度に渡り良い代官様に巡り合うとは幸せでございます」
そこへカナタが通りかかる。
「カナタ殿、こちらへ、一緒に飲みましょう」
「有難い。仲間に入れて貰おう」
「アンドレ殿。この領地は輪作しているようだが、あれは、ジャガイモと豆か?」
カナタは何も知らない領地についてアンドレに質問する。
「はい、このあたりじゃジャガイモとインゲン豆が多いです」
「他に、この辺りで穫れるものはあるか?」
「わしらが食べる分の野菜です。あとは食べる分の魚を釣ったり、貝を拾ったりですね」
「そうか、わたしも何か領民にとって利益になることがないか考えてみる。アンドレ殿も何か思いついたら言ってくれ」
「はあ、有難いお言葉で」
「ボリス殿、この辺りでは漁業はやっておられないのですか?」
ボリス・ニーダールは腕組みして考える。
「この領地に面した海は全て遠浅の砂浜で、港に適した場所がないです。休閑期に小舟を出して釣りをするくらいなので、税ではなく食べるだけの量を貰うくらいですね。無理に港を作るとなると相当金がかかります」
「では、塩の生産は?」
「塩ですと? 塩とは、海から作る塩ですか?」
「このあたりではあまりやりませんか」
「話には聞いたことがありますが、このレクセル王国ではないと思います。海に接するの地域が極わずかなうえ、岩塩が全土に流通していますゆえ」
「そうですか……」
■
次の日、ニーダール夫妻、ソフィア、フィアルクロック村村長アンドレと、領政の引継ぎを行うべく男爵邸ホールにて会議を行う。カナタが村長アンドレへ質問し、それが帳簿と齟齬が無いか確認しつつ、ボリスに助言を貰う形とした。
「この領の規模と、畑の割り当て方について訊かせてくれ。あと、働き手の割合を」
「ええと、村落が2つあり、私が両方を代表しております。領民は子供隠居含め1000人ほどおりまして、15歳の成人になると畑が与えられます。7割ほどが働き手です」
カナタの質問にアンドレはそう説明する。
「ボリス殿、男爵領としての規模はどうなんです?」
「他の男爵領であれば村落が5つ6つあるものですが。海に面した荒れ地なもので面積当たりの収穫量が少なく、最初期に領民がなかなか集まらなかったらしい。わたしが官僚勤めに出たのは、この領地の収入では一家族が限界だと考え、兄弟全員で官吏試験を受け、代官を置くつもりでした。だが、エーギルだけが試験に落ちまして。それで代官を頼みました」
ボリスはそう補足する。
「畑の一人当たりの広さは?」
「一人当たり40aです。一人で耕作できる広さは20aが限度です。それを輪作するために40aにしたと聞いてます。わしらは20aでライ麦を育て、もう20aの一部でマメや芋、ちょっとした野菜、あとは牛のための牧草を育てたりしてます。子が増えた分は外に畑を作っております」
アンドレに言葉に、カナタは帳簿と会話に齟齬が無いことを確認する。
「なるほど、その20aからどれほどの麦が穫れる?」
「大体200kgです。豊作だと倍になることもありますが」
「税率50%だと成人一人ライ麦が100kg残るのか。子供を食わすにはライ麦が足りないのではないか?」
これは不意にカナタが思ったことを問うただけだ。
「いえいえ代官様。わしらはインゲンや芋を食って生活し、税以外のライ麦も代官様に売っております。穫れ過ぎた野菜も街で売っております。どちらも1年で銀貨20枚くらいになりますかね。その代金で食料以外の必要なものを買っとるのです。野菜は麦ほど保存がききませんが、ここで食ってくには麦より野菜のほうがずっと楽なのです」
領民の生活としては、大人一人がライ麦100kgを売り銀貨20枚が現金収入となる。その他野菜を売った収入が銀貨20枚。家、豆、芋、野菜、魚は保証されているとして、その他の収入が銀貨40枚ということだ。
一家が、健康な爺婆、夫婦、残った兄弟2人いれば、合わせて銀貨240枚というところ。村の経済は街の経済と全く異なり、現金がかなり少ないが、その代わり食住だけは保証されている形だ。
カナタがサンダールで感じたものとは正反対の厳しさだ。街ではとにかく食住を維持するのが辛く、それを乗り越えられなければスラム行きだった。街で働く方が収入は高いが、食住のコストが高く粗食だ。一概にどちらがいいとは言いにくい。
「冬の仕事はどうなっている?」
「街の日雇いに出るか、小舟で漁をしたり貝を獲りますが、ここの冬はかなり寒いので、家族が食べる分を獲るくらいです」
「そうか、分かった。また何かあったら相談する。下がって良い」
「はあ」
アンドレは何度も頭を下げ男爵邸を出て行く。
領主としての収入も確認する。領民1000人x0.7=700人。700人x200kg=140t。税が50%で70t。ライ麦の通常の卸相場は銅貨20枚/kg。税収は金貨140枚となる。辺境地域では1割が上納金として国王へ渡る。残りは金貨126枚。
今は代官なので金貨140枚全部をフィアーグラン卿へ届ける必要があるが。
あとは領民から買い取ったライ麦を売るが、これは適性価格で買い取りたいので利益は金貨15枚程度か。合わせて金貨141枚。
男爵家を維持するのに金貨141枚とは、貴族と言うに本当にギリギリの数字だ。一家族が過ごすにはかなり裕福ではあるが、常勤の下働きを雇うなら1人か2人が限界だろう。そういえば以前は執事がいたと言っていたか。
「この屋敷での雇人はどうなっていました?」
カナタはボリスに尋ねる。
「事務や計算、税の知識のある執事が一人いました。先代が雇った執事で、近隣の男爵家の三男と聞いています」
カナタは帳簿を確認しながら頷く。執事の給与が年間金貨50枚とある。読み書き計算ができ、法や契約についても最低限分かっている人材だ。たった一人のこの領の内務官ともいえる。食事と部屋が付いていたとしても、そう安くはならないだろう。
貴族は家を維持するため、次男以下は家を出て外に勤めに出す。農民や市民と比べて教育水準が高い為、軍人、官僚、商人、地位の高い使用人などになるらしい。
「あとは週に2度ほど、畑仕事を隠居した婆さんを掃除メイドや洗濯メイドとして雇うくらいです。料理人を雇えるほどの金はありませんので、わたしがいたころは母が、弟が代官をしてからはその妻が料理をしていました」
村落が倍あり、税収が倍あれば、家政婦と料理人は雇える。執事の下に従僕と下男、家政婦と料理人の下にメイドを数人雇えただろうい。ここは男爵領としてはギリギリアウトの規模なのだ。
「ありがとうございます。凡そ飲み込めました」
冬の仕事を与えられれば、同じ人数のまま、領民も男爵としても、もっと豊かになれるんだが……。
翌日にはニーダール夫妻は領都サンダールへ向けて帰って行った。
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