8■社交界2

 やっと一息つけると思ったその時だ。

 カナタの前に先日オストラスクーゲン男爵邸で会った、ミルド子爵嫡男ミーケル・ミルドが現れた。


「ノシュテット卿、わたしはミルド子爵嫡男ミーケル・ミルド。カロリーナ・カンプラード嬢を賭け、貴方に決闘を申し込む!」


 そう言うと、手袋をカナタにぶつける。


「……なんの話だ?」


 カナタには理解できない。


「成り上がりの商人に買われた哀れな淑女を、わたしの手で助けて差し上げる!」

「カロリーナから婚約を申し込まれたのだが?」

「嘘をつけ、この金に汚い成り上がりが! どうせ苦しいオストラスクーゲン男爵に金をやって娘を買ったのだろう。縁で言えば私の方がカロリーナ殿と会ったのが早い。カロリーナ殿はお前などと一緒にいるべき相手ではない!」


 ミーケル・ミルドは堂々とした態度でそう言い張る。

 夜会は騒然となる。皆が好奇の目で遠巻きに二人を囲む。

 カロリーナは人ごみを掻き分けるようにして前に出てきた。


「あの、ミーケル様、わたくしからカナタ様に婚約を申し込んだのです」

「金で買われても、男爵家を絶やさぬよう身を投げ出すその心意気、貴族子女に相応しい。ですが、安心して下さい。わたしが貴方を守って差し上げましょう!」

「ええと……」


 カロリーナも困った顔でカナタに縋る。


「もう強がりはいいでしょう。わたしがカナタ・ディマに勝てばそれで済むのですから」


 駄目だ、話が通じない。

 フィリップ・カンプラードが苦い顔をしていた意味が良く分かった。自信満々のこの子爵嫡男に、カナタは内心頭を抱える。

 だが、いつまでも構っていられない。さっさと追い返さないと。

 そのとき、ヨン・ラーベの助言を思い出す。自分らしくぶつかれば、信頼できるものとそうでないものを選別できる。この面倒も自分らしく解決すれば信用できる人が現れるかもしれない。


「そちらの要求は何だ? カロリーナとの婚約破棄か?」

「そうだ。無理矢理金の力で成り立つ婚約などわたしが阻止してみせる」

「そうか、では、わたしの方でも条件を出そう」

「もちろんだ」

「まず、決闘したかったら金貨100枚払え。貴族当主であるわたしと貴族の嫡男が対等に決闘できるなどと思うな」


 カナタがそう言った途端、夜会の場はしんと静まり返る。ある者は驚愕と怒りに、ある者は興味深そうに注目する。


(カナタ様! 自分で評判を悪くしてどうするのです?!)


 カロリーナが小声で苦言を呈す。


(こんな馬鹿相手に時間取られたくないないだろ?)


「どうした、それを飲むなら決闘してやってもいいぞ?」

「どこまで金に汚いのか……。分かった、受けて立とう!」

「では、決闘の相手は代理を許すことにしよう」

「ダメだ。代理決闘など貴族のすべきことではない!」

「そうか、じゃあ金貨はいらん。決闘は無しだ」

「……待て、分かった、代理を許す!」

「フィアーグラン卿、立会人をお願いしたします。あと、中庭をお借りしてよろしいですか?」

「いいだろう。立会人になろう」


 カナタが振り返ると、フィアーグラン卿は笑いを堪えた表情を浮かべる。


「それで、貴殿の決闘に勝った際の要求はなんだったかな?」

「カロリーナ殿を解放し、婚約を解消することだ!」

「いいだろう」


(カナタ様?)


 不安になったカロリーナがカナタに耳打ちする。


(大丈夫だから)


「では、わたしが勝った際の要求は、金貨1000枚だ」


 その言葉を聞き、会場はざわつく。


「金貨1000枚と言ったぞ!」

「婚約者に金に賭けるだと?」


 そんな非難の声に混じり愉快な笑い声も聞こえる。貴族ではあり得ぬ前代未聞の珍事に立ち会えた運に感謝している者も幾らかいるようだ。


「な、金貨100枚取りながら、勝負に金を要求するなど!」

「金貨100枚は貴族当主が嫡男ごときに決闘の相手をしてやる迷惑料だ。もちろん勝負に勝った分の要求は別だ。ミーケル殿はカロリーナの価値がたかが金貨1000枚で収まるとお思いか? これでも貴殿が分割で払えるよう考慮して安くした。負けるから払えぬか?」


 ミーケル・ミルドは怒りで体を震わせる。


「分かった、負けたら金貨1000枚払おう!」

「では、契約書を作ろう」

「契約書?」

「そうだ。勝負の結果に難癖をつけられても困る。契約書は必要だろう。決闘の勝負はどうやって決める?」


 カナタはマジックバッグから紙束とインクとペンを取り出すと、勝負の条件を箇条書きにする。


「もちろん、負けた方が納得するまでだ!」


 カナタは書類に追加する。


「これでいいならサインしてくれ」


 カナタはそう言って4枚の契約書を渡す。


「契約書が多くないか?」

「両人、立会人、王都の商人ギルドに預ける用だ」

「お、おう……」


 ミーケル・ミルドとその従者が契約書を読む。特に問題なかったので、サインしてカナタへと返す。


「では、決闘を始めるとする。両者庭へ」


 フィアーグラン卿は二人を引き連れ庭に出る。会場の貴族たちは興味津々で窓の外を覗いている。


「こちらは代理を出す。シーラ」

「はい!」


 シーラとミーケルは10mほど離れ、剣を抜き構える。


「始め!」


 フィアーグラン卿の合図と共にシーラが飛び出し、鬼切丸の腹でミーケルの頭をぶん殴り、地面へと転がす。


「負けましたか?」

「ま、まだ負けておらん!」


 そう言って立ち上がろうとするミーケルだが、シーラはその髪の毛を鷲掴みにすると顔面を地面に打ち付ける。


「ぐはっ!」

「負けましたか?」

「……まだ、だ……」


 さらにシーラはミーケルの顔面を三度地面に打ち付ける。


「へぐ……はひ……、負けて、おら……」


 シーラはミーケルの顔面を何度も連続に地面に打ち付ける。


「負けましたよね?」

「は、はひ……」


 顔をどす黒く腫らし鼻血を垂らす男爵嫡男はやっと負けを認めた。



 ここに、金貨1100枚の大商いが成立した。



 カナタが庭からホールへと戻ると、30歳手前の浅黒く精悍な男が立っていた。


「前代未聞の決闘だな。金に汚い流民の成り上がりという噂は本当だったか」

「どちら様でしたか?」

「サードラスロテット子爵だ。そちらが辺境の北端の街なら、わたしは南端の街だ」

「初めまして、よろしく。流民の成り上がりなので金に汚いのだ。許してくれ」


 サードラスロテット卿は若干口元が緩く見える。酔っているようだ。


「戦争は楽だったらしいな。お前が殺したストールグリンド伯爵は、わたしの母方の叔父にあたる」


 カナタは突然殴られた気分だった。迂闊だった。貴族は基本、父系で家系が紡がれ、女性は外交の材料になっている。付き合いのある領同士というのは、母系で血縁関係があって当然だ。

 サードラスロテット子爵領はレクセル王国南東に位置し、ストールグリンド伯爵領は南中央に位置するため、身近な大貴族はフィアーグラン卿の次にストールグリンド卿ということになる。恐らくその位置関係の問題だろう。

 それを留意せず武勇談として大っぴらに話してしまったのはまずかったのかもしれない。だが、かといって、あの場でそれを話さないという訳にもいかない。何が正解で何が失敗だったのかは、後からしか分からない。


「それは済まないことをした。何も出来ぬが、謝罪だけはさせてくれ」


 カナタは素直に謝罪する。

 サードラスロテット子爵は意外そうな顔でカナタを見る。


「おや、手柄に有頂天になっているかと思ったらそうではないらしいな……」

「あの場でせがまれて話さない訳にもいかないだろう」

「そうか」


 サードラスロテット子爵は、ぱん、とカナタの肩を叩く。


「いやな、実はあの豚野郎を殺してくれたことには感謝しているんだ」

「ストールグリンド伯爵のことか?」

「そうだ。あの豚は爵位が高いことを嵩に着て、ぶーぶー言いたい放題やりたい放題だったからな。何度絞め殺してハムにしてやろうと考えたことか。だが、流石に母上の兄となると気が引けてな。その手柄をぽっと出の若造に取られて、少し妬ましかっただけだ」


 どうやら勘違いだったらしい。悪い人ではなさそうだ。


「それは助かった。人に憎まれるのはあまり得意ではない」

「それはもういい。それよりアレだ。さっきの決闘は爆笑ものだったぞ。よくあんな見世物を思いついたな? フィアーグラン卿は噴き出すのを堪えるのに精いっぱいだったぞ!」

「どうせ回避できない面倒なら、自分のやり方を見せた方が周りがわたしを理解しやすいと思ったんだ。自己紹介みたいなもんだよ」

「おまえはいい。いいぞ。フィアーグラン卿が気に入ったヤツだと聞かされて、どういうやつかと思っていたが。あの爺さん、耄碌したわけじゃなさそうだな」

「サードラスロテット卿、声が大きい」

「うむ、少し酔っているのかもしれん。酔いが覚めているときに改めて話した方がよさそうだな。そのうちお邪魔するよ」


 サードラスロテット子爵はご機嫌なまま去って行く。

 どうやら、自分のやり方を見せつけたことが、一つの縁へと繋がりそうだ。カナタはヨン・ラーベの助言に感謝した。



 ヴェストラプラ侯爵はフィアーグラン辺境伯邸を出て馬車に乗り込む。

 先に馬車に乗っていたのは黒いローブにフードを着た男、元ノシュテット担当司教スティグソンである。カナタにオークキングをけしかけた首魁だ。

 ヴェストラプラ侯爵は深くお辞儀をする。


「例の子爵を見てきましたが、貴族とはかけ離れたところがあり、やはり危険に思えました。調和を乱す元です」

「であろう」

「ですが、ストールグリンド伯爵の次男を、あの子爵にぶつけたところで無理がありそうですな」

「成功しようが失敗しようが構わん。成功すれば良し、失敗すれば長男を使う」

「猊下の仰せの通り」


 馬車は貴族街を東に進み、とある伯爵邸で止まる。ストールグリンド伯爵邸である。

 ヴェストラプラ侯爵は一人で降りると、まだ明りの点いた屋敷のホールへと入る。


「おお、ヴェストラプラ卿、お待ちしておりましたぞ!」


 上屋敷で待っていたのはストールグリンド伯爵家次男エーリク・フランセンである。


「フィアーグラン辺境伯の夜会に出席してきたが、あの子爵がいた。戦争に勝って有頂天で、わが友フレデリク・フランセンを愚か者と罵っておったわ」


 ヴェストラプラ今日は憎々し気な表情を浮かべる。


「なんと、いくら戦争で勝ったとはいえ、故人である父を罵るとは!」


 エーリクは大きな身振りで叫ぶ。


「わが友フレデリクを侮辱したあの男を殺すことが出来たなら、わたしはそなたに全面的に協力し、ストールグリンド伯爵の継承を確実にしてみせよう」


 ヴェストラプラ侯爵がエーリクの耳元に囁くと、伯爵嫡男は野心の漲った目を輝かせ、大きく頷く。


「こちらは既に用意はできています。今夜にも子爵邸を」



「ああ、疲れた……」


 カナタはフィアーグラン辺境伯邸での夜会から戻ると、ホールのソファにだらしなくもたれかかった。


「水をご用意しました」


 執事トマスがカナタに水の入ったコップを渡す。

 カナタは一気に飲み干す。それほど酔ってはいなかったが、酒を好まないカナタには水が有難い。


「奥様方には南方産の砂糖で作った菓子をご用意しております」


 家政婦トーヴェが小さな菓子の乗った皿を運んでくる。

 シーラ、ソフィア、カロリーナは嬉しそうにそれをつまんだ。

 まだ食べられるのか……。カナタはげっそりする。

 その視線に気づいたのか、カロリーナが言う。


「ドレスを着ていたらそうは食べられないものなのです」

「そうだったか」


 そこまで考えての菓子だったようだ。


「さあさあお嬢様方、お菓子の続きは楽な格好にお着換えになってからですよ」


 三人はそれぞれ傍仕えのメイドを連れ、ホールの階段を上って自室へと消える。


「ご主人様、何か他にお持ちしましょうか?」

「お茶をくれ」

「かしこまりました」


 カナタはぼんやりと天井を見上げながらソファに沈み込む。

 眼を瞑って夜会のことを思い出す。こんな夜会に何度も呼ばれたら堪ったものではないなと、内心愚痴を吐きつつも反省だけはする。

 まだまだ自分に足りないものを数えてゆく。初めての夜会で余裕が無かったが、重要人物の人となりくらいは最初から観察すべきだった。相手を知らずに何でも喋るのは迂闊すぎる。本音を隠す相手にまで本音を話す必要もないだろう。一方的に情報を与えることになり、その積み重ねが仇となる。

 だが、決闘パフォーマンスは良かったかもしれない。サードラスロテット卿とは仲良くなれそうな気がする。

 その時、遠くに高い金属音が聞こえたような気がした。

 何の音だろう。まあ、いい。関係ない。



「シーラ様?!」



 メイドの叫び声でカナタは目を覚ます。ホールを見上げるとシーラが下着姿のまま鬼切丸を掴み、階段を駆け降りて来る。


「カナタさん、何か来ます!」


 カナタがソファから飛び起きると、遅れて玄関ドアの向こうに複数の人の気配がする。扉が乱暴に開かれ、覆面を被った男たちが6人、血に濡れた剣を構える。

 門兵がやられた?!


「かかれ、あの男だ!」


 後ろにいた覆面の男がそう叫ぶ。リーダー格だろう。カナタは背後に手をやり、亜空間収納からミスリルナイフを取り出して握る。

 どうする? 自宅で攻撃魔術など使えない。


「シーラ、眼を瞑れ! 上に光、雷光!」


 カナタの突き出した左手から眩しい光が迸り、そして消える。


「上に闇、夜の帳!」


 ホール全体が薄暗くなる。


「くそ、目が見えん!」


 男が叫ぶ。光に眩んだ眼で暗い室内は見えまい。男達は敵の場所が分からず、出鱈目に剣を振るう。

 カナタはリーダーらしき一番後ろの男の背後に転移し、ミスリルナイフで膝裏を斬る。


「ぐああああああっ!」


 男は足を押さえ、痛みに床に転がる。


「こいつ以外は殺せ!」

「はい!」


 シーラが八相の構えで突っ込み、そのまま袈裟切りで一人を切り捨てる。

 返す刀でもう一人。


「なにごとだ!」

「どうしました!」


 吹き抜けの階上からソフィアとカロリーナが叫ぶ。


「ソフィアは待機! カロリーナは部屋に入って扉を閉じろ!」


 カナタは二人を制止する。

 シーラは三人目を受ける剣ごと押しきり、鬼切丸が頭蓋を抉る。

 四人目を水平切りにし、遅れてはらわたが流れ落ちる。


「ひ、ひいい、話と違うぞ! こんなのやってられるか!」


 最後の一人が逃げようと背中を見せる。

 シーラは素早く駆け寄ると大剣を背中へ突き刺す。


「ふう、終わったか……」


 カナタは息をつく。

 シーラは倒れた男たちが本当に死んだか確認するため、剣を突き刺してゆく。


「シーラ、他に居ないか?」


 シーラは目を閉じて集中する。


「いません」

「よし、こいつを調べよう」


 シーラはカナタに膝裏を斬られて床を転げる男を、うつ伏せに床に抑え込む。

 カナタは亜空間収納からロープを取り出し手早く手足をロープで縛る。

 シーラは男の覆面を取り、髪の毛を掴み顔を上げさせる。

 誰かに似ているようだが……。


「おまえは誰だ?」

「こ、この流民の成り上がりがああ! 父を騙し討ちにした罪をあがなえ!」


 ということはストールグリンド伯爵の息子か?


「何者かって聞いてる」


 シーラが男の顔を床に打ち付ける。


「ぶあっ! 一騎打ちだ、一騎打ちを……」


 再度、シーラが男の髪を鷲掴みにし、顔を床に打ち付ける。


「おごっ! 一騎う…… ごがっ!」


 男が聞いてもいないことを言うたび、シーラが男の顔面を床に打ち付ける。


「一騎う……」


 鼻と額と頬が腫れ上がり、血が滲んでいる。

 しばらくそれを繰り返すと、男はとうとう反抗する元気も無くなったのか、やっと名前を答えた。


「ス、ストールグリンド伯爵家次男…………エーリク・フランセンだ……」

「そうか、分かった。トマス、警備兵を呼べ」

「はい、ご主人様」


 トマスは従僕に指示を出す。



 警備兵が来るとすぐに男の身柄は拘束された。

 門番が殺されたところからホールまでの位置関係を絵にして記録している。それが終わると死体が運ばれてゆく。

「ノシュテット卿がこの数を返り討ちにしたのですか?」


 現場検証の一部なのだろう。警備兵の分隊長らしき男が副長を連れてカナタへ問う。


「オークキング殺しのシーラがいるし、わたしも多少腕に覚えがあるからな」


 その言葉を聞いて納得したのか、副官がそのまま書類に記録している。


「あの男はどうなる?」


 カナタは良い切っ掛けなので少しでも仕組みを知っておこうと質問する。


「状況が明確ですので、加害者の自供を記録した後、裁判無しで有罪とし、内務長官の決裁を待って死刑かと。もちろん、被害者側が取り下げれば不問となりますが」


 やはり貴族とはいえ、他の貴族の屋敷に剣を持って押し入れば極刑か。


「その死刑の決裁というのはすぐ降りるのか?」

「いえ、貴族、準貴族の場合、他の事件と関係する可能性のある参考人とされ、通常半年以上は牢暮らしです」

「分かった。ありがとう」


 カナタは分隊長に銀貨10枚ほど握らせる。


「トーヴェ、掃除を頼む」


 家政婦トーヴェはメイドたちを呼び、ホールの血を掃除しはじめる。



 翌朝、昨晩の騒ぎを聞きつけたノシュテット商会がやってきた。


「クリストフ、至急、会頭に伝えて欲しいことがある。ストールグリンド伯爵領の次男はノシュテット子爵邸襲撃で警備兵に捕まった。長男がストールグリンド伯爵領を継ぐだろうと」

「分かりました。ストールグリンド伯爵領の監視を強めるよう報告します」

「頼んだぞ」


 これで元通りの日常に戻ったと一息つく。

 執事がお茶を出して、カナタはホールでお茶を飲んで寛ぐ。

 シーラ、ソフィア、カロリーナは買い物に出て行っていた。

 玄関のノッカーが叩かれ、執事トマスが対応する。


「ご主人様、サードラスロテット子爵より、先触れです」


 カナタは少し考え、辺境の南の子爵で、浅黒い精悍な顔つきの男を思い出す。


「いつでも良いと伝えてくれ」

「かしこまりました」



 しばらくして、蹄の音がした。サードラスロテット子爵の馬車だ。傍仕えメイド一人を連れてホールへ入って来た。


「やあ、ノシュテット卿」

「いらっしゃい、サードラスロテット卿」


 二人は握手をし、ホールのソファに着く。


「今日はどうされた?」

「なに、酔ってない時に顔を見ておきたいと思ってな」


 メイドが皿に黒パンを乗せてテーブルに置く。カナタはその皿を相手側へと押し出す。


「うまい黒パンだ。食べてみてくれ」

「本気で言っているのか?」

「ああ、本気だ」


 サードラスロテット卿は浅黒く精悍な顔を歪めて一口齧り、その表情が驚きに変わる。


「なんだこれは、うまいぞ!」

「だから、うまい黒パンだ。婚約者のソフィアがノシュテット一の黒パンの名人でな。名物でもある。ソフィアの師匠の店がノシュテットに、ソフィアの弟子の店がサンダールにある」

「黒パンで驚かされるとは……」


 卿は一枚をすべて頬張って食べる。


「それで、顔を見に来ただけではないのだろう?」

「ああ、昨晩、ここに押し入った不届きものいると聞いたのだが、本当か? 特に被害が見えないが」

「ああ、特に問題なく制圧した」

「それはストールグリンド伯爵家次男で間違いないか?」

「ストールグリンド伯爵領の動きが気になっていたのか」

「サードラスロテットはストールグリンドに近い。長男と次男、どっちが領主となるか、早いうちに知っておきたいのだ。それくらいは辺境の誼で教えてくれ」


 卿はそう言ってもう一枚黒パンを齧り始める。

 昨日の夜会でも話していたが、亡くなったストールグリンド伯爵はサードラスロテット子爵の母方の叔父にあたり、それがあるせいで干渉が酷いらしい。恐らくその対処だろう。


「次男は警備兵に突き出した。相当のことが無ければ死罪だ」

「そうだろうな。それを聞いて安心した。しかし、本当に愚かな男だ。相手の力量も分からんとは親譲りだな」

「そこまで言うのは少し可哀そうじゃないか?」

「わたしとしては、あんなぼんくらどもと仲良くするくらいなら、ノシュテット卿と仲良くしたいからな」

「ということは、本題は別か?」

「まあな」


 そう言って二枚目の黒パンの最後の一口を呑み込む。


「海から作る製塩法が知りたい。そっちの損にはならないだろ?」


 卿は真面目な顔でカナタを見る。サードラスロテット子爵領とストールグリンド伯爵領が近い為、もしサードラスロテットで塩を作ったところで、輸送距離を考えるとノシュテットの塩を売れる商圏はあまり変わらない。教えても大した不利益にならない。それが分かった上で言っているのだろう。


「ストールグリンド伯爵領に塩を握られている。それであれこれと小突かれるのはもう嫌だ。それに、ノシュテット産の塩とは商圏は被らないだろう。そちらにデメリットは無いはずだが?」

「見返りは?」

「砂糖の公売への参加、ってのはどうだ?」

 サードラスロテット卿は笑みを浮かべる。領が事業としている商品は、領が許可した商会しか買い入れができない。通常は領に本店を置く商会だ。ノシュテットの海塩もそう決めることで領内の商会を保護している。


「そちらのメリットの方が多いと思うが?」

「こりゃ、厳しいな。じゃあ、胡椒の公売も加えよう」

「さらにもう少し乗せて貰いたいところかな」


 カナタは笑みを浮かべ、そちらの方がメリットが大きいと釘を刺す。


「厳しいな」


 卿はソファにもたれ、腕を組んで考える。


「わかった、さらに貸し一つで手を打とう」


 卿の方がまだメリットが大きいとは思うが、カナタとしては仲良くなれそうな相手と仲違いする気は無い。貸しにしておく。


「ふん、分かった」


 サードラスロテット卿は手を出し、カナタはその手を握る。


「じゃあ、今の条件を書面にしようか。トマス」

「はっ」


 執事トマスが紙とインクとペンを持って来る。

 カナタは互いへの条件を書いた書類を三部作り、それぞれサインする。


「おまえ、商人みたいだな……」


 サードラスロテット卿が呟く。


「商人だと言ってるだろ? 貴族は副業だ。あと製塩法は無期限だが領外不出な」

「まったく……。おい、貸し一つまで契約書に書くな!」


 渡された契約書にサインをしようとした卿が目を丸くする。

 そこでホールの扉が開き、シーラ、ソフィア、カロリーナが戻って来た。


「あら、お客様ですの?」


 カロリーナが問う。


「塩田開発の方法を、サードラスロテット卿に買ってもらったところだ」

「代金は何です?」


 カロリーナは続きを促す。


「砂糖と胡椒の公売参加と、貸し一つだ」

「まあ、ありがとうございます」


 カロリーナはサードラスロテット卿に微笑みかける。


「美人な上に怖い婚約者だな……」


 サードラスロテット卿は肩を竦める。


「また随分派手にやりおったな」


 ソフィアが半眼でカナタを睨む。


「釣り合いは取れてるだろ?」

「ということは、甘いお菓子が食べられるんですか?!」


 シーラは砂糖という単語しか興味が無いらしい。


「胡椒味のお菓子をシーラにあげるよ」

「胡椒は入れなくていいです!」

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