9■サンダール商会1

 次の日、二人は背負い袋を背負って南西の草原へと移動する。


「ギルドの話だとこのあたりのはずなんですが」


 稜線を越える前でシーラが呟く。


 身を潜めて向こう側を見ると、そこは緩やかな丘に囲まれた窪地で、広さは縦横数百メートルはあり、低地で水分が多いのか中心部ほど草の丈が高く、人の背くらいある。これじゃどこにヒュージスネークがいるかなんて分かりようがない。草を掻き分けて歩き回ったらすぐガブリだ。

 カナタは背負い袋を下ろし、一本の矢を取り出す。ワンドが括り付けてある矢を、少し離れた稜線部に向けて射る。矢が落ちた場所でワンドから空気が噴き出す。熱風ならぬ、温風のワンドだ。


 二人は身を低くし、息を顰めて待つ。

 窪地の中心で草が揺れる。その草の動きは蛇行しながら温風のワンドへと向かってゆく。中心部から離れるほど草の丈が短くなり、草を押し倒して進むその巨大な姿が露わになる。


 でかい。太さ1m近く、体長15mを超えるだろう。人間が簡単に丸呑みされるのが分かる。

 カナタはワンドをくくりつけた矢を弓につがえる。第1射がヒュージスネークの頭部に刺さり、白い霧が吹き上がる。ヒュージスネークは頭を巡らせ二人の位置を探る。

 すぐに第2射を撃ち、矢が胴体に刺さる。3射目はこちらの位置に気づいたヒュージスネークの動きでかわされた。カナタは立ち上がり、4射目が命中。どんどん霧が濃くなる。

 距離は20m。ヒュージスネークはするすると滑るように近寄って来る。カナタは5射目でワンドを付けた矢を撃ち尽くす。


 シーラがカナタの前に出てナイフのついたワンドを左手で抱え、右手で一つ握りしめる。

 距離10m。シーラが投擲したワンドが鱗の皮に刺さる。カナタも弓を背負い、ナイフ付ワンドを投擲する。

 2人は距離10mを維持して走り後退しつつ、ワンド付きナイフを投擲する。突き刺さったワンドが霧を噴き上げ、それを纏うようにヒュージスネークが迫りくる。


「投げ終わりました!」


 2人のワンドが尽きた。


「最後の仕上げだ!」


 カナタが投げたワンドが空中で弾け、水を生み出す。水はヒュージスネークの上に雨のように注ぎ、刺さった10以上のワンドから噴き出す霧は一層濃くなる。


「よし、逃げるぞ!」


 2人は全速力でヒュージスネークから離れる。霧が蛇行して迫ってくるが、徐々に速度が遅くなる。とうとう、ヒュージスネークの動きが止まった。二人は霧が吹き出すのを眺めつつ、じっと待っていた。


 カナタは槍を5mまで延長して組み立て、シーラと一緒に慎重に近づき、ヒュージスネークの目に突き刺す。殺るときは躊躇なく、全力で。穂先はかなり奥まで沈んだ。脳まで届いたはずだ。掻きまわすように動かすと、大蛇が痙攣し、穂先が抜ける。

 目から血が噴き出し、巨大な体が鞭のように動き、二人に襲い掛かる。咄嗟にシーラが前に出てバスタードソードで受け流す。

 二人は再びヒュージスネークから距離をとる。しばらく苦しむように体をくねらせていたが、10分ほど経って動かなくなった。


 何度か槍でつついてみるが反応はない。念のために槍をシーラに渡して警戒させ、たらいを持って近づく。死んだとは思うが、まだ成功に喜ぶ時間じゃない。ミスリルダガーを抜き、首を切り落とす。性能が良いせいだろう、バターでも斬るような感覚だった。どくどくと血が溢れる切り口をたらいの上に据える。


「ふう……。どうにかなったな」

「やりました、大成功です!」


 勝因は風と水の融合魔術、冷風のワンドだ。ヒュージスネークの体に刺して固定することで、長時間体温を奪い続けることができた。霧ができたのは結露のせいだ。強力な凍結の魔術が使えればもっと楽だったのだろうが、いまあるカードでやる方法を考えた結果がこれだった。念のために亜空間収納に油の小樽を二つ入れておいたが、使うこともなく済んだ。


「しばらく血抜きに時間がかかるだろうから、周囲を警戒しつつ休憩にしよう」


 二人は立ったまま水袋から水を飲み、堅パンを齧る。


「カナタさんの言う通りでしたね。安全にヒュージスネークを狩れました」

「危険な狩りって時点で、狩っているんじゃなくて、狩られているんだよ」

「あは、確かにそうですね!」


 しばらくして血が出なくなったので、解体を始める。どうしたら良いのか事前に話だけは聞いてきた。

 牙と毒腺は自分で解体するのは難しそうなので、上顎ごと切り落とす。

 腹を真っすぐ尻尾まで割き、内臓を掻きだす。心臓に張り付いた魔石は直径5cmはある。胆のうは拳大くらいあって肝臓の傍にあったのを缶に入れる。他の内臓を取り出して捨てる。

 首側から皮を捲る。カナタとシーラでそれぞれ皮と肉を掴み、引っ張ると、ズルズルと剥けていく。

 巻いた革と上顎は持ってきた大きな麻袋に入れ、試しに担いでみるが、まだ湿っている革と上顎だ。30kgはある。結構辛い。

 シーラにはちゃんと説明し、マジックバッグを持った方が良いかもしれない。


「肉も美味いらしいから、シーラが持てるだけでいいから持ってくれ」


 肉だけで恐らく1000kgを越えるが、全部は持っていけない。1mくらいでぶつ切りにする。シーラは首側の4つの肉塊を麻袋に入れて担ぐ。


「これくらいなら持てますね」


 200kgくらいあると思うのだが……。肉体派のシーラには軽いらしい。



 街に戻り、ギルドで上顎の毒腺と牙を解体してもらったものの、売却はしなかった。魔石は取っておきたいし、毒は狩りに使えるらしい。牙と皮は武具にできるらしく、それを持って鍛冶や革細工の工房に持ち込むことにした。

 肉は塩を刷り込んで風乾すればうまい干し肉が出来ると聞いた。蛇は寄生虫がいるらしく、レアでは食べられないが、加熱するか濃い塩漬けにすれば寄生虫は死に、ハムや干し肉でも美味しいらしい。



 夕食はヒュージスネークのステーキだ。討伐成功のお祝いということでシーラと二人で食事する。竈の上部には小さな穴が二つ空いており、火を入れるとその上で料理ができる。天井には熱い空気を外に出すための煙突に繋がった排気口がある。

 多少臭みがあるということで、香草と生姜と塩を刷り込んでから、フライパンに軽く油を引き、両面焼く。ワインを入れて蓋をし、蒸し焼きにする。数分待って、端を切ってみて生でないことを確認し、皿に盛り付ける。さらには根菜を炒めて皿に添える。


「おいひいでふれ!」


 シーラは口に大きな肉をもくもく頬張りながら目を輝かせる。


「癖はあるが想像以上に美味いな。持って帰れる程度なら売らなくていいな」


 ヒュージスネークのステーキは、脂が少なく鶏肉のような食感であり、だが鶏肉と比べて味が濃い。食べたことのない美味しさだ。干して熟成すればもっと旨くなるだろう。

 体が熱くなってきて額に垂れた汗を拭う。滋養強壮に良いと聞いたが、そのせいだろうか。


「分け前はどうしようか。俺は魔道具用に魔石と、矢に塗るのに毒が欲しい」

「わたしは高級革鎧にしたいです。軽くて堅くて水を弾くらしいです」

「じゃあ、残りの牙はシーラだな。上等なナイフにできるらしいぞ。肉は二人で分けよう」

「伯父さんが疲れているみたいなんで食べさせてあげますよ。これでギンギンですよ。カナタさんもギンギンですか?」


 おまえはおっさんか。


「今日はお互いよくやった。お疲れ様」

「スルーしないで下さい!」

「……どうツッコめばいいんだ?」

「やだ、カナタさんのえっちー」


 充実感があった。達成感があった。うじうじした敗北感や屈辱が消えていた。家でぐだぐだしてないで、シーラの言うことを聞いて冒険に出て良かった。一人じゃ抜け出せなかった。孤独ってのは人を悪い方へと向かわせる。誰かといることが、それがシーラであることが、有難かった。


「ありがとうな、シーラ」

「何の話です?」


 きょとんとした顔で聞き返すシーラに、カナタは曖昧に笑う。



 次の日はシーラの新しいを鎧を作るため街に出る。以前防具を買った店に行き、オーダーメイドができないか聞いてみた。


「それでしたら、紹介状を書きますので、革鎧の工房へ直接行かれた方が細かいご注文に対応できると思いますよ」


 革鎧の工房は一本入ってすぐ裏だ。


「おお、ヒュージスネークの皮じゃねえか!」


 工房の親方は艶のある皮を撫でながら目を輝かせる。


「皮を鞣すところからだから、多少時間がかかるぞ。あと、オーダーメイドだからな、値段はそれなりだ」


 注文するのはジャケットの形をした革鎧、パンツ、兜、金属補強付きの手甲、ブーツだ。丈夫かつ動きやすくするため、堅くした皮を柔らかく鞣した皮で繋ぐと言う。

 シーラはテキパキと細かい注文をし、親方は絵を描いてそこにメモをしてゆく。


「ブーツは防御力より、音がしないようにしてください」

「柔らか目に鞣して、裏に羊毛のフェルトを張ろう」


 採寸し、何割か前払いする。


「仮縫いの時に使いを寄越す」

「楽しみにしてますね」


 次は、牙だ。中古武器屋の店主に魔物素材に詳しい鍛冶工房を紹介してもらった。


「おお、ヒュージスネークの牙か。お嬢ちゃんたちが倒したのか? 見かけによらず、なかなかやるなあ」

「二つともナイフにしてください」


 最後に、肉を干す塩を買う為に、食料品店へと行った。



「今日は叔父さんにヘビステーキを作ってあげるんで、帰りますね。また明日」


 夕暮れ時、アパートメントの下でシーラと別れる。機嫌よく跳ねるように歩く後ろ姿を見送り、扉に手を掛ける。


「ほう、微笑ましいやら、妬ましいやら」


 シーラと反対側から知った声が聞こえ、カナタは身構える。


「さっぱり姿が見えないので、首でも括っていないかと心配しましたが、意外と元気ですね」


 そこに居たのは、護衛を引き連れたサンダール商会のエクレフだった。


「何の用だ?」

「まあ、そんなに身構えないでくださいよ。あれから音沙汰が無いから、心配してこうやって様子を見に来たんじゃないですか」

「人の商売を邪魔しないとまともに商売が出来ないようなやつが、他人の心配している暇があるのか?」


 カナタは腹立ち紛れに挑発的な言葉を叩き付けるが、思いのほかエクレフは余裕の表情だった。


「随分と元気で安心しましたよ。いえ、元気ならいいんです。それではまた、機会があればご一緒に、商売、しましょう」


 それだけ言うと大通りの方へと立ち去って行く。カナタはその後姿を睨みつけながらも、建物の角に消えたのを見てほっと息をつく。

 エクレフは一体何をしに来たのか。考えても推測がつかず、それが不気味に思える。アパートメントの大扉に入り、階段を上る。最上階にたどり着き、自室へと入る。


「くそっ……」


 真黒な苛立たしさが腹の中でぐるぐると蠢く。せっかくシーラのお陰で気分が良くなっていたというのに、一日の最後で一番不愉快な存在と出会うなんて。



 神経質になっていたのだろうか、カナタは夜中に目が覚めてしまった。

 紅茶でも入れようとポットに茶葉を入れ、熱湯の魔術でお湯を入れる。葉が開くのを待ち、カップの上で茶こしで受けて注ぐ。


「ふう……」


 ソファに座り、一口飲んで少しだけ気持ちが落ち着いた。この紅茶は少し発酵しすぎで酸っぱい気がする。他に手に入れられないか、ラーベに聞いてみようかと考える。紅茶を飲み干し気が済んだところで、ベッドに戻ろうと玄関の傍を通る。


 その時だった。

 カチン、と、玄関の鍵が開いた音がした。

 背中が粟立ち、冷たいものが這う。

 振り返ると、ドアがゆっくりと開いていく。

 咄嗟に腰に手をやるが、寝ていたのでダガーは無い。ドアからフードを被った男が入ってきたが、目の前のカナタに気づき、驚いたようにこちらを見る。


 二人は一瞬、お見合い状態で固まる。


 だが、男の方が速かった。手が伸びて何かがちらりと光る。カナタは無意識に右手をかざして体を守る。腕にちくりと小さな痛みが走る。

 バックステップし、背中からドアにぶつかり、後ろを見ずにドアレバーを捻る。寝室へ飛び込むと、枕元に置いたダガーに手をばす。

 だが、どさりと柔らかい衝撃。カナタはベッドに突っ伏していた。


 あれ……? 体に力が入らない。

 毒……、か?


「ったく、驚かせやがって……」


 背後から2人分の足音が聞こえる。カナタは猿轡を噛まされ、手首を後ろで縛られ、足首も縛られる。力の抜けた状態ではなされるがままでいるしか無かった。最後に大きな麻袋に入れられ、担ぎ上げられる。

 意識が朦朧として時間の感覚が曖昧なまま、どこかへ連れていかれた。



 パン、と頬が張られ、カナタは気が付いた。


「目が覚めたか?」


 目の前にエクレフがいた。動こうとしても動けない。自分が椅子に縛り付けられていることに気づく。

 そこは薄暗い石壁の部屋だった。カナタの背後とエクレフの背後には腰に剣を佩いた護衛と思しき体格の良い男が立ってる。


「喋れるか? 何か言えよ」

「糞野郎」


 エクレフの言葉にカナタは言い返す。次は頬を殴られる。口の中が切れて血の味がする。


「痺れは取れたみたいだな。会頭がお前に話があるらしい。ちょっと待っていろ」


 正面にドアがあり、エクレフはそこから出て行く。鉄格子の嵌った覗き窓のある頑丈な木のドアだ。

 カナタの近くにある小さなサイドテーブルに燭台があり、その光だけを頼りに再度部屋を見渡す。他に出入口らしきものは無い。


「へ、おまえも運が悪いな……」


 背後の男が嘲るように言う。

 しばらくして、エクレフがサンダール商会会頭ヘドバル・サンダールを連れて戻ってきた。エクレフは部屋の隅にある椅子をカナタの前に動かし、サンダールが座る。


「小僧、お前に用がある。断ることはできん」


 サンダールはそう言って手に持った何かをカナタの足元へと投げる。暗くて分からなかったが、近くで見てそれが何か分かった。そして、歯噛みする。

 それは、カナタが作ったマジックバッグの一つだった。


「マジックバッグを作れ。そうしたら、生かしてやる」


 今までで最悪の状況。

 サンダールの街に来て最初に考えた、一番最悪の状況。それが、今だ。


「そのバッグは、おまえがラーベ商会に売ったものだ。ラーベ商会から、ヴェストラプラ侯爵領の商人に渡り、そして、そこから三人の貴族へと渡った。その三つのうち、一つを譲り受けることができた。

 焼き印が削られているが、そのバッグの型はヤッシュ工房でしか作られていない。おまえが間抜けなら、ラーベの若造は大間抜けだな。取引相手の能力さえ隠せないとはな」


 こんなヤツにラーベを馬鹿にされるのは業腹だったが、実際、このヘドバル・サンダールはその目利きにおいて、ラーベを上回っていたということだ。


「なぜ私がサンダール商会と名付けたのか、それはな、自分の家名だからではなく、私が一番サンダールの街を知っているからだ」


 エクレフは前に出てマジックバッグを拾い、また後ろに下がる。


「しかし、小僧。悪いのはお前だ。おまえがそこで負け犬になっている決定的な原因はお前にある。分かるか?」


 ヘドバル・サンダールは胸元から葉巻のケースを出し、一本咥える。エクレフが燭台を近づけ、それで火を点ける。ヘドバルは大きく煙を吸い、鼻から出す。

 自分が悪いのは分かっている。それをわざわざ上から指摘して悦に入るなど、卑小なやつだと心の中で笑う。


「やはり、分かっていないようだな。おまえはせっかく偽装スキルを持っているというのに、何を偽装している? それに意味があるのか?」


 体中の毛が逆立つ。


 そう言われて気づく。血の気が引いて頭がくらりとする。そう、何もかも、自分のせいなのだ。ずっと前からこの結果は決まっていたということ。まったく見直さなかった自分が悪いのだ。

 当然、辣腕の商人であるヘドバル・サンダールは人物鑑定スキルを持つだろう。しかし、どうしてカナタが偽装スキルを持つと気づいたのか。それは、



「どうして魔術陣スキルを隠した?」



 カナタは草原で気づいてすぐ、最初に『空間魔術スキル』と『魔術陣スキル』を隠した。


 魔術陣をスキルを隠したまま、最初にサンダール商会で、熱風の魔道具をおまえが作ったのかと問われ、作ったと答えてしまった。だから、鑑定偽装スキルを持つと気づかれたのだ。


 であれば、他に何かスキルを隠している可能性が高い。バッグがそれほど古くないこと、ラーベ商会にマジックバッグを3つも持ち込んだこと、偽装スキルを持っていること。この条件が揃えば、マジックバッグを作れると推測できる。

 カナタは愕然とし、サンダール商会会頭を見る。


「おまえは、人生を賭けるべき時に間抜けな失敗をした。だから負け、地を這い、泥を啜るしかないのだ。生き延びたければマジックバッグを作れ」


 サンダールは燭台を灰皿代わりに葉巻を押し付け、立ち上がる。


「他に魔術が使える。気を付けろ」


 配下達はサンダールの言葉に頷く。サンダールは部屋から出て行く。

 エクレフは俯くカナタの髪を鷲掴みにして顔を無理矢理上げさせ、蔑むように笑う。


「さて、カナタ君。君の仕事のため、明日から大量の中古バッグを仕入れることになった。一日くらいは余裕がある。ゆっくりと敗北を噛み締めるんだ。なに、この世にマジックバッグが溢れ、富める者も貧する者もマジックバッグを持てる時が来れば、君は自由になれるさ」


 それは嘘だ。他の商人を誘拐して無理矢理働かせたのだ。犯罪と分かってやっている。あとは口封じするだけだ。

 護衛の一人が剣を抜いてカナタに突き付け、もう一人が椅子に縛り付けていた縄を解く。足首だけは木の枷が嵌めてあり、速く歩けないようになっている。


 エクレフと護衛達は部屋を出て、分厚いドアが閉められる。金属音がして鍵が閉められた。外は廊下らしく、燭台の明りが小窓から漏れている。警備の一人がドアのすぐ近くにいるようだ。

 部屋の中には、トイレのつもりなのか蓋つきの桶が、寝床のつもりなのか大きな布が一枚ある。


 カナタは屈辱に酷く打ちのめされた気分だったし、自分の至らなさに敗北を受け入れていた。だが、絶望はしていなかった。自宅に魔術陣を置いてある。空間魔術スキルがLV2になったので、2x2x100÷60で、6.5km。この街の中ならどこへでも転移できる。


「あれ?」


 転移を阻害する魔術文明は無いはず。転移さえできれば、どのような方法であれ、ここから逃げることは可能だ。なのに、どうしてサンダールもエクレフも監禁できると思っていたのか。


 もしかして、空間魔術についてよく知らないのか?


 失われた魔術系統だ。マジックバッグを作れると推測することはできても、転移できるとまでは思い至らなかったのかもしれない。だとすると、転移できると知られずにここから脱出したほうが、後々面倒が少ない。


 でも、脱出してどうするのか。脱出したところで、この街にいる以上常に奴らを敵に回したことになる。すでに非合法な手を使っているのだ。次からは同じような手しか使わないはず。

 だったら、商業ギルドに訴えるか。それとも、警備兵に保護を頼むか。しかし、監禁されたという証拠を出すことができない以上、しらばっくれるに決まっている。多少はサンダール商会の足を引っ張ることが出来る程度で、根本的な状況を変えられるほどではない。

 ラーベを頼って保護してもらおうか。しかしそれだとラーベまで標的にされてしまう。もしかしたらシーラまで巻き込むことになるかもしれない。迷惑がかかりすぎる。

 ラーベにヴェストラプラ侯爵領へ連れて行ってもらうか。それでも、商人ギルドに登録している以上、所在は掴めるはずであり、やつらはカナタを追って来るだろう。

 脱出しても、脱出しなくても、満足いく未来が思い浮かばない。


 いや、そんな先を考えるのは後だ。


 まず、転移できることを知られないよう、ここから脱出することが先だ。それが今一番マシな選択。ここでやつらの言いなりのままマジックバッグを作るなんてまっぴらだ。それははっきりしている。

 脱出してからどうするかは、ラーベと相談してからでいい。何か別の良い方法を思いつくかもしれない。


 そうと決まれば……。カナタは少し考える。


 足枷を『空間切断』の魔術で切る。

 音を立てないようサイドテーブルから燭台を下ろし、テーブルをドアの前に移動する。

 その上に椅子を重ねる。

 寝床の布を割き、口に巻くと、残りの布を椅子とテーブルの間に挟む。

 そして、燭台で布に火を点ける。あっという間に火が布に燃え広がり、木とテーブルもパチパチと音を立て始める。カナタはドアの覗き穴から見えないよう、通路側の壁にへばりつき、煙を吸わないように身を低くして口に巻いた布を押さえる。


「なっ、何やってやがる!」


 男はドアの小窓から覗こうとして煙でむせる。


「くそ、自棄になりやがった! おい、火事だ! 火事だ! 水を持ってこい!」


 男の声が遠ざかってゆくのを確認し、カナタは覗き穴を見て廊下に転移する。男が行った方向へと走り階段を見つける。

 通路充満する煙を避けるように階段を駆け上り、開けっ放しのハッチを出て1階に上がる。予想通り地下だったらしい。火事で危ないのは一酸化炭素中毒と二酸化炭素中毒だ。火が広がらなくとも、煙の出口がない地下で火事が起これば消火などできない。火が消えて空気の入れ替えをしてからやっと入れるようになる。

 そのときには扉が焼けて無くなっているはずだ。いつ逃げたのか護衛たちには分からないが、扉が燃えて無くなっているので、逃げたように見えるだろう。



 カナタは自宅へと転移した。


「助かった……」


 床に膝と両手を突く。脚が震えている。手に負い切れない状況になっている。


「ダメだ、弱気になるな、まだやることがある……」


 足を踏みしめ、立ち上がる。自宅に置いてあるものを片っ端から亜空間収納へ放り込む。空間魔術スキルがLV2になっているため400kgまで収納できる。これだけ容量があれば持ち物はすべて入れられる。

 部屋を出て鍵を閉め、足音を忍ばせ階段を下りる。


 一階に降り、音を立てないよう大扉を薄く開け、外をうかがう。誰もいないのを確認して外へ出る。

 周りを伺いつつ、北の大通りへと向かう。松明を持った警備兵が歩いている。警備兵に縋るか? いや、サンダール商会相手に警備兵じゃ時間稼ぎにしかならない上に、所在がばれる。

 闇に身を潜め、彼らが通り過ぎるのを待ってから、ラーベ商会へと向って移動する。月明りの中、ラーベ商会の看板が見えた。少しだけほっとした。


 ラーベ商会の屋上へと転移し、崩れるように座り込む。心臓がばくばくといっている。胸を押さえゆっくりと息をする。手足を投げ出し仰向けに寝転がる。空には満月が浮かび、カナタを照らしている。


 まだ息は荒く、心臓は高鳴ったままだった。

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