第45話 ホモ・サピエンスの可能性
「ん……たぶんそろそろいい感じですね」
焼き始めて十数分。
えりりの職人的な判断によって、オーブンが開けられる。
「おー、めっちゃいいにおいだな」
「火傷しないように気をつけてください」
「ああ」
言われたとおり注意しながら、俺は二枚の天板を取り出す。
「陽那さんと千絵さんのほうはかなりいい感じですね」
「わっ、やったね千絵! 師匠のお墨付きだよ!」
「うん。タイミングをはかってくれた、えりりちゃんのおかげだね」
たしかに三浦・長峰ペアのクッキーは、見た目もたいへんよくて、実にうまそうだった。
「悠真さんのほうは……初めてのわりには、悪くないと思います」
「……いちおうクッキーと言える形はしてるもんな」
やはり切りかたが悪かったのか、あるいは生地の混ぜかたに問題があったのか、向こうに比べるとあまり綺麗とは言いがたい焼きあがりだった。
なかにはちょっと焦げてるのもあるし……。
まあでも、それだって食べられないことはなさそうだし、半分くらいはわりとうまそうに見えるので、俺にしては上出来だろう。
えりりの指導のおかげだ。
すぐに食べてみたいところだが、あら熱をとらないといけないらしい。
三十分は我慢してください、と言われてしまった。
「そのあいだに、残りの生地もガンガン焼いていきましょう」
「「「はーい」」」
それから冷蔵庫で冷やしていた生地を順番に取り出し、第二陣、第三陣と焼いていく。
そして、第三陣が焼きあがったところで、
「悠真さんが早く食べたそうにしているので、最初のやつはそろそろ試食してみてもいいですかね」
と、えりりからお許しが出た。
もちろん反対するものはおらず、待望の試食タイムとなる。
俺とえりりは、俺が作ったなかで出来がよさそうなクッキーを。
三浦さんと長峰さんは、自分たちが作ったクッキーを。
「「「「いただきます」」」」
ぱくりと、同時に口に運んだ。
あたたかく、やわらかな食感とともに、チョコの風味がいっぱいに広がり――
「――うまいっ」
「おいしいですっ」
「売り物になっちゃうレベルだねっ」
「それは言いすぎだけど、うん、すごくおいしい」
俺、えりり、三浦さん、長峰さん。
四人とも大満足で、笑みを浮かべた。
「思ったよりやわらかいんだな」
「まだできたてですからね。もっと時間を置けば、さくさくになっていくと思います」
なるほど、そういうものなのか。
「でも、ほんとおいしくできましたねー。ちょっと感動しちゃいました」
「おおげさだな。えりりがたまに作ってくれるクッキーはもっとうまいじゃん」
しみじみもらすえりりに、俺はやや照れながら言った。
えりりお手製のものは、それこそ売り物になるくらいのうまさだからな。
「ふふ、そう言ってくれるのはうれしいですけど、わたしはやっぱりこっちのほうがおいしいと思いますね。あのどうしようもないほどポンコツだった悠真さんが、ここまでちゃんとしたものを作れるなんて……ホモ・サピエンスの可能性のすごさを、あらためて感じました。アポロの月面着陸をリアルタイムで観ていた人は、こんな気持ちになったんでしょうか」
すごいスケールで褒めてくるな……。
グルメレポーターでもなかなかそこまでは言わないだろ。
「おふたりも、うちの悠真が作ったクッキーを食べてみてください」
「うん、いただくね! 師匠もこっちのクッキーを食べてみて!」
「川原くんもどうぞ」
「ああ、いただきます」
お互いのクッキーを交換して、それぞれ口に運ぶ。
当たり前といえば当たり前だけど、俺のクッキーよりも三浦・長峰ペアが作ったもののほうがうまく感じた。
えりりも同様の感想を抱いたらしく、
「あー、悠真さんの感動補正を抜きにすれば、やっぱり陽那さんと千絵さんのクッキーのほうがよくできてますね」
と、ふたりに伝えた。
「ありがと師匠! でも、川原くんのもふつうにおいしいよ」
「うん。川原くんにこれだけのものを作らせるなんて、えりりちゃんの指導力は本当にすごいと思う」
「不器用でハラハラしてましたけど、ちゃんとわたしの言うことを聞いてくれましたからね。ちらほら残念なのもありますけど、うちの悠真にしては本当によくがんばったと思います」
どこか誇らしげに語るえりりが微笑ましいのか、三浦さんと長峰さんはにこにことやわらかな笑みを浮かべていた。
無駄に上からの物言いなのはアレだけど、俺も実にいい気分だ。
やっぱりえりりが楽しそうだと、あたたかい気持ちになる。
日頃からお世話になりっぱなしで、もはや家族みたいなもんだしな。
俺にとって、世界一身近な存在と言っても過言ではない。
だから、えりりが無邪気に笑っていると、安心できるんだと思う。
……ただし、俺をからかって楽しんでいるときは除くけどな。
まあ、なので。
三浦さんと長峰さんが許してくれるなら。
今後もえりりとなにかするときは、俺もご一緒させてほしいと、あらためて思った。
…………そして。
このままなにごともなく、バレンタインの準備を終えられたらよかったんだが……。
あいにく現実は、カカオよりもビターであり……。
俺のちょっとした油断によって、悲劇は、起こってしまった。
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