第10話 プール

 えりりが我が家のキッチンの主になったことで、えりりと一緒に過ごす時間はさらに増えた。

 帰宅時間も遅くなり、いまでは夜の九時でも俺の部屋にいたりする。

 そして、慣れとは恐ろしいもので、一週間もすると俺はそれを自然なこととして受け入れていた。


 妹みたいに思っていたが、本当の妹になったみたいだ。

 えりりの俺に対する態度も、日増しに遠慮というものをなくしていた。

 たとえば今朝。つまりはついさきほどのこと。俺はえりりに叩き起こされた。


「悠真さん、起きてください」

「うわっ……!?」


 正確に言うと、叩くというか、枕を引っこ抜かれたのだけど。

 無理やり覚醒させられて、


「朝ご飯が片づかないので早く食べてください」


 と、えりりにリビングまで引っ張られて食卓につかされた。

 まるで怠惰な息子と、それを注意するお母さんみたいなやりとりだ……。


 これはさすがに、年上としての威厳がやばい。元々そんなものはなかったかもしれないけど、それにしたってこの状況はよろしくない。


 なんとかしないとなぁ……。

 とぼんやり思いながら、カリカリに焼かれたトーストをかじる。


 今朝のメニューはトーストにベーコンにスクランブルエッグにプチトマトにレタス。洋風か和風か、前日にリクエストするとえりりはそれに応えてくれる。味つけも俺の要望を聞いて、微妙に調整してくれる。どれだけ優秀なんだよ。


 いや、本当に……。

 申し訳ないとか年上としてとか、いくらそんな気持ちを抱いたとしても、これだけうまい料理を食わされ続ければ、あらがうことが難しくなってくる。


 朝昼夜の食事だけではない。

 唐突に、おやつにホットケーキが食べたくなったときのことだ。

 思わず「ホットケーキ食いてえな」と口に出してしまい、そしたら十五分後……


「おあがりよ、悠真さん」

「あ、はい……いただきます」


 こんがりきつね色のふかふかホットケーキができあがっていた。

 そして、これがまた最高にうまかったりする。

 それに引き替え、ちんけなプライドなんかなんの腹の足しにもならない。

 えりりに甘えてしまう俺を誰が責められようってもんだ。


 ……いや、待て。自己弁護で自己完結してる場合か。思いやりは常に循環すべきなのだ。えりりにいろいろよくしてもらっているなら俺もそのぶん、否、それ以上にお返しをしてやらねばならない。


 というわけで。

「よし、えりり。どこか行きたいところはないか?」

 朝食を食べ終えたところで、俺はえりりに訊ねてみた。


「……はあ、悠真さん。やっとですか」

 喜んでくれると思ったのに、えりりはやれやれとため息をついた。


「やっと?」

「遅いですよ。そう言ってくれるの、わたしずっと待ってたんですから」

「……そうだったの?」

「ですよ」

「だったら言ってくれればよかったのに」

「それもそうですが、できれば悠真さんから自発的に誘ってほしかったのです」

「……それは気がつかなくてごめん」


 素直に頭を下げた。


「まあ、いいですよ。家でゆっくり過ごすのも楽しいですし、遅まきながらもこうして言っていただきましたしね」

 と、寛大なえりりは許してくれた。


「そう言ってくれると助かる。で、どこに行きたい?」

 金銭的な制限はあるが、極力要望には応えるつもりだ。


「べつにどこでもいいですよ」

「え、行きたいとことかないの?」

「ないのではなく、悠真さんとならどこでもいいという意味です。おでかけはどこに行くかじゃなくて、誰と行くかって言うじゃないですか」

「そうだけど、ほんとにどこでもいいの?」

「はい。悠真さんにおまかせします」

「んー、そうかぁ……」


 それだと楽でいいけど、ちょっと拍子抜けだ。

 そこでふと、素朴な疑問が浮かぶ。


「てゆーかさ、根本的なこと訊いていい?」

「どうぞ」

「えりりは俺と一緒に出かけて楽しいの?」

「へ? そんなの、楽しいに決まってるじゃないですか」


 えりりはきょとんととして、


「なんでいまさらそんなこと訊くんですか?」

「だってさ、いまは夏休みだろ。よく考えたら、俺じゃなくても麗千の友達と遊びに行けるんじゃないか?」

「……悠真さん」


 えりりはまた深々とため息をついて、ジト目になる。


「あなた、さてはバカですね?」

「……なんでだよ」


 ここまで真正面からバカと言われたのは初めてだ。


「まず、麗千の生徒は夏休みもそれほど暇じゃありません。夏期講習とかありますし、家族で旅行に行ったりもしますし」

「……そうなのか」

「そうなのです」


 うーん、すごい。忙しい夏休みって俺には考えられないけどな。


「あと、わたしはたったいま、悠真さんとならどこでもいいと言いましたよね?」

「ああ」

「でしたらわたしが悠真さんとおでかけしたいということは、ご理解いただけると思いますが? というか、それ以外にどんな解釈があるというのですか?」

「……さあ?」

「さあじゃありませんよ、もう!」

「ちょ、わかった。わかったよ」


 声を荒らげるえりりに、俺はどうどうと両手を突き出す。


「……本当にわかってるんですか?」

「わかったって。だから怒るなよ」

「べつに怒ってません」

「……」


 いや、あきらかに怒ってるだろ。指摘したら火に油なので黙っておくけど。


「で、どちらに連れていってくれるんですか?」

「んー、そうだなー」


 腕を組んで考える。どうせなら夏らしいところがいい。となるとやはり、

「海はどう?」

 幸いにも俺らが住んでいるこの町には、海の家が建ち並ぶビーチがある。


「真っ先に海とは……悠真さん、わたしの水着姿が目的ですか? いやらしい」

 えりりは冷たく切り捨てた。


「ちげえよ! おまえの水着なんかに誰がそんな期待するか!」

「……失礼ですね」


 えりりはわかりやすくむっとする。


「いまのでわたしの乙女心はひどく傷つきました。お母様が帰ってきたら泣きつこうと思います」

「あっ、ごめんごめん! うそだよ! えりりの水着姿とか超見たい!」


 そんなことされたら鉄拳制裁と経済制裁を食らいかねない。

 慌てて俺はおべんちゃらを使う。


「あー、えりりの水着とかどんなんだろうなー。気になるなー見たいなー」

「……そんなに見たいですか?」

「見たいね! だってこんなにかわいい女の子の水着姿だぜ? 男なら当然だろ!」

「うふふ、まったく悠真さんったら、しょうがありませんねー」


 えりりはまんざらでもなさそうに笑い、大げさに肩をすくめた。ご機嫌メーターが一気に急上昇だ。ふっ、賢くても所詮は小学生か。ちょろいもんだぜ。


「では、悠真さんのご期待に応えるため、今日はプールに行きましょう」

「プール? 海じゃなくて?」

「海はしょっぱいですし、ベタベタするので好きじゃありません」

「……あ、そう」


 まあ、俺としてはどちらでもいいので、えりりの希望に従おう。


「じゃあ、いったん帰って準備してきますね」

「りょーかい」



 というわけで。

 準備をすませて自転車を漕ぐこと十分弱。大きな運動公園にやってきた。


 ここには広場や遊具だけではなく、野球場やテニスコート、そして目的の屋外プールがあるのだ。五十メートルプール、二十五メートルプール、幼児用プール、さらに流れるプールがある。まあ、市民プールとしては悪くないだろう。値段も大人二百円子ども百円と実に手頃だ。小学生の頃はよく遊びにきたものである。


 更衣室でえりりと別れ、水着に着替える。去年買ったハーフパンツみたいなやつだ。

 更衣室を出ると、殺人的な太陽光線が全身に降り注いだ。普段ならただの地獄だが、これからプールに入るとあってはこの熱さが心地よい。


 ただ、プール日和ということは、ほかの客も多いということでもある。まだ午前中だというのに、プールには大勢の先客(主に子ども)がいた。人が多いのはしんどいけど、この光景自体にはなつかしさを覚えた。


「悠真さん」


 声に振り向くと、水着姿のえりりが立っていた。


「おー、よく似合ってるじゃん」


 俺は素直に賞賛した。

 黒いキャミソールに、白黒チェックのミニスカートを合わせたような水着だ。落ち着いた色合いと、女の子らしいフリルの同居がえりりらしいと思った。


「あは、ありがとうございます」


 えりりはいたずらっぽく笑い、


「欲情しちゃいますか?」

「それはないけど」

「えぇー」


 不満そうな声を上げ、じっとりした目を向けてくる。


「なんでですか。やっぱり悠真さんって、女性に興味がない嗜好の方なんですか?」

「やっぱりってなんだ。きちんと女性に興味がある嗜好の方だよ。だからえりり」


 俺は冷静にさとしてやる。


「あと五年したらもっかい見せてくれよ。そんときは欲情するかもしれないから」

「……それはつまり、わたしの成長に期待していると?」

「そうだな。いまでも充分かわいいけど、五年後ならどんなアイドルにも勝っちゃうだろうな」

「ふふふ、そうですか。仕方ありませんねー。悠真さんがそこまで言うなら、五年後にまた水着姿を披露することを約束しましょう」

「どーも。楽しみにしてるよ」


 わりとまじで。まあ五年もすれば、こんな約束さっぱり忘れちゃうだろうけど。


「ともあれ、いまは目の前のプールを満喫しましょう」


 えりりが俺の手を取り、流れるプールへと足を向ける。


「ちょ、そんな慌てるなよ。急ぐと危ないし、まずはシャワーだろ」

「おっと、そうでした」


 えりりは素直に応じて方向転換する。

 ふたりして、冷たいシャワーをひゃーひゃー叫びながら浴びる。

 それから流れるプールでゆったりしたり、ハンデつきで競泳したり(えりりの泳ぎはなかなか達者だった)、思いのほかガチでプールを楽しんだ。

 休憩を挟みつつたっぷり三時間は泳いだところで、俺がさきにギブアップした。


「えりり、もう疲れたよ。そろそろ帰ろうぜ」

「えー、わたしはまだ大丈夫ですよ。もっと遊びたいです」

「俺は限界だよ。あと腹減った。家でえりりのご飯が食べたい」

「……わかりましたよ。まったく、しょうがないですね。その代わり、また一緒に来てくださいよ?」

「はいよ」


 水着を着替えて、売店でジュースを飲んでから帰宅した。

 昼飯はソーメンを作ってもらった。運動したあとだからかやたらとうまく感じられて、俺もえりりもいつもより箸が進んだ。


 で、なんだかんだいって、やっぱりえりりも疲れていたらしい。食後は自分の家に帰る気力もなく、俺のベッドで昼寝をした。

 ベッドを取られた俺は仕方ないので、リビングのソファで横になった。


 プールのあとソーメンを食ってエアコンが効いた部屋で昼寝。

 実に夏休みらしい、有意義な一日である。最高だね。

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