第3話 人生をすこしだけ豊かにするエレベーターの乗り方
平日の朝。
いつものようにねみーと思いながら家を出ると、エレベーターの前に女の子がいた。
えりりだ。
雨の日に一緒に帰って以来、会うのは三日ぶりだった。
「おはよう」
「――あ、悠真さん。おはようございます」
俺が挨拶すると、うれしそうに返してくれた。朝っぱらなのにハキハキしている。きっと寝起きがいいのだろう。うらやましい限りだ。
「悠真さんって、この時間に家を出るんですか?」
「そうだよ」
エレベーターがきたので、ふたりで乗りこむ。一階を押して、閉まるボタンを押す。ドアが閉まって、エレベーターが動き出す。
「悠真さん、ひとついいことを教えてあげます」
「いいこと?」
エレベーターが一階に到着する。開くボタンを押しといて、えりりをさきに行かせる。俺も続いて下りたところで、
「はい。悠真さんの残りの人生をすこしだけ豊かにします」
えりりは自信満々にうなずいた。
「それはぜひ教えてほしいね」
実際に有益な話かはさておき、えりりがなにを言うのか興味があった。
エントランスを抜けて外に出る。今日は久々にさっぱりとした青空だった。梅雨入りしてから雨ばっかりだったので実にすがすがしい。
「では、途中まで一緒に通学してもいいですか?」
「もちろん」
俺もえりりも電車通学で、俺の高校とえりりの麗千女学院の最寄り駅は隣同士である。なので駅までの十分弱と、電車に乗っている十分強は同じ道程なのだ。断る理由はない。
それに、暇な登校中に話し相手がいるのはうれしいことだ。しゃべってたら目も覚めるしな。
「では、お供させていただきます」
と、えりりは微笑んだ。
俺は苦笑する。
一緒に登校するくらいで、いちいち大げさな物言いをするなー。
そもそも、確認しなくてもいいのに。
「で、いいことって?」
並んで歩き出しながら訊ねる。
えりりはこほんとわざとらしく咳払いをして、解説を始めた。
「悠真さんはさきほど、エレベーターで一階を押してから、閉じるボタンを押しましたね」
「え? ……ああ、うん、そうだと思う」
普段、特に意識しているわけじゃないけれど、そうしてるな。
「それを逆にするんですよ」
「逆?」
「閉じるボタンを押してから、行き先の階を押すんです」
えりりはキメ顔で言った。どうやらこれが核心らしい。けど、
「えーと……なんで?」
いまいちピンとこなかった。
「単純に時間の節約ですよ。閉まるボタンを押してから実際にドアが閉まるまで、すこし間があるでしょう? その間に行き先の階を押すんです」
「ああ、なるほど」
言わんとすることを理解する。たしかにそのほうが効率的だ。料理で言うなら食材を茹でている間に、サラダを作るようなものか。
なら……その上であえて、反論させてもらおう。
「でも、ふたつのボタンを押す時間差って、長く見積もっても一秒だろ? たったそれだけの時間を節約したって、そんなに意味なくね?」
「たった一秒、されど一秒ですよ」
考えてみてください、とえりりは言う。
「一日に二回、エレベーターに乗るとします。一回で一秒の節約なら、一日で二秒ですね。一年でおよそ七百秒。十分強ですよ? 十分あればいろんなことができます」
「まあ、そう返ってくるよな」
塵も積もれば山となる理論。これがくるのは予想どおりだった。勝負はここからである。
「十分はまとまってこその十分だろ。単体で一秒じゃあまり使いようがないよ」
「そうですか? バトル漫画において、時を一秒止められたらすごい強いじゃないですか」
「話を逸らすな。ここは現実だし、そもそも時を止められたらって話じゃないだろ」
「……それを言われると、たしかにそうなんですよね」
思いのほかあっさり、えりりは認めた。
「では、そのさきを考えてみましょう」
「そのさき?」
「一秒をどう使うのが人生において有意義か、です」
なるほど。
「悠真さんだったら、一秒でなにができます?」
「そうだなぁ……」
考えてみる。一秒、ねえ。
「Tシャツを脱ぐとか?」
「脱がないでください。なにいきなり変態アピールしてるんですか」
「そんな意図はねえ」
「ほかにはなにができます?」
「えーと……水をひと口飲める」
「一秒を惜しむほど水が飲みたいって、できればそんな窮地には立ちたくないですよね」
「そりゃそうだ」
でも、それを言ったら大抵のことはそうじゃねえか。
一秒でどうこう焦りたくない。
「じゃあ、えりりだったら一秒でなにができるんだよ?」
「そうですねえ……」
えりりはしばし黙考して、こう答えた。
「世界を救えますね」
「大胆なうそをつくな」
おまえはいつから世界系のヒロインになった。
「一秒間を数えられますね」
「節約した意味がぜんぜんねえ」
「好きな人にキスができます」
「ロマンチックだけど、相手がいないとダメだ」
「スカートを脱げます」
「脱ぐな。あと俺の真似すんな」
「なるほど。脱衣は悠真さんの専売特許だと?」
「ちげえ」
人に変なキャラ付けするな。
「うーん、やっぱり難しいですねー」
えりりはうなる。
「ま、結論としては、一秒を節約することよりも、日頃から効率を意識して動くのが大事って感じですかね」
「そうだな。そんなところだろ」
なんにせよ、聞いておいていいことだった。
「ありがとう。これからエレベーターに乗るときは、閉まるボタンをさきに押すよ」
「そう言ってもらえると、わたしも話した甲斐があります」
あ、でも、とえりりは付け足す。
「わたしといるときはこれまでどおり、階数のボタンを先に押してもらって構いませんよ」
「え、なんで?」
「だって、一秒でも長く、悠真さんと一緒にいたいですから」
「……そりゃ、どーも」
だけど、あんま軽々しくそんなこと言わないほうがいいんじゃないかな。
男なんてすぐ勘違いするんだから。
俺も言われたのが小学生じゃなくて同級生だったら、変な期待をしてしまうところだ。
でもまあ、同感である。
えりりと話すのはやっぱり楽しい。一緒にいる時間を節約したいとは思わないね。
それから俺たちは、麗千の最寄り駅で別れるまで、電車内でも他愛のない話を続けた。
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