第21話 僕は二人の兄に出会う


朝目覚めた時、僕の布団は湿っていた。五歳までの年少組は同じ部屋で雑魚寝している。僕はその中で一番年長だったので示しがつかないと思い、慌てた。プライドという奴が芽生えた瞬間だ。


みろく園はオフィスビルと線路に挟まれた場所にある。電車が通過する轟音が朝から建物を揺さぶった。


僕が中庭に布団を干していると、背後に視線を感じた。僕の背後にいたのは脱色したような白い髪をした男だった。まだ少年と言ってもいい歳だったが、僕には彼が大人の男に見えて後ずさりした。昨夜の光景がフラッシュバックする。


「……、ブス!」


その男は僕に乱暴な言葉を投げつけると、怒ったように戸を閉めてしまった。


僕は男が去ったのを見て、胸をなで下ろし、建物の中に戻った。落ち着いて部屋を眺めると、雑然としている。おむつとか、噛み跡がついて黒ずんだ子供用の玩具が転がっていた。


一歳くらいの赤子がピンクの布団に寝かされている。ナンみたいな白い顔をしていた。お腹が減っていたのでなんでも食べ物に見えたのだろう。


部屋には僕らの他誰もいない。赤子がぐずり出したので、渋々抱き上げた。思いの外重くてよろけるが、放ってもおけない。僕もお腹が減ったので何か食べ物がないか探しに出た。


迷路みたいな通路の真ん中に、人がいた。腰まで届く長い黒髪を垂らしている。きれいな女の人だと思った。僕は警戒心を下げて近寄った。


女(?)の人は床に座って何かしていた。側には紙が散乱していた。拾い上げてみると、自動車の絵が鉛筆で描かれていた。写真のような精緻な絵に僕は固唾を飲んだ。


「あ、おい、何してる」


女の人は僕に気づくと声を荒らげた。男みたいに野太く低い声だったので、僕は急におじけづいた。


「んー? 見ない顔だな。そういや昨日新しい奴が来たってリュウが言ってたか。ま、どうでもいいや、それ返せよ」


大きな手のひらを突きつけられても、僕はどうしていいかわからなかった。僕は簡単な英語がわかる程度で日本語が話せなかったし、相手の横暴な態度にすっかり肝を潰してしまったのだ。


僕の不安が伝わったのか、赤子がぐずりだした。すると女(?)は慣れた手つきで赤子を取り上げた。重心が崩れた僕は尻餅をついた。


「おーおー、泣き虫め。腹が減ったのか。しょうがねえな」


長い足をモデルのようにくねらせながら、赤子を抱えて女(?)は行ってしまった。


僕は一人になるのを恐れ、必死で後を追った。


たどり着いたのは白いドアだった。刃物でつけられたような細く深い傷が僕の頭当たりに何本もつけられていた。


部屋の中からジュースミキサーが稼働する音が聞こえてくる。僕はドアの隙間に体を滑り込ませるように中に入った。


狭い部屋の中にはテーブルと食器棚、キッチンがぎゅうぎゅうに押し込められていた。くすんで見えたのは玩具だけではなかった。みろく園にあるものは全て古び、打ち捨てられていた。


ミキサーはテーブルの上に載っていて、その脇に人間の足が見えた。誰かが椅子に座った状態で足を乗せていたのだ。それ自体は何ら不思議ではないのだが、その何者かの右足には指が六本あった。中指の付け根が二股に割れている。僕は自分の足と見比べ、首をひねった。


「便所が汚ねえとよ、気が滅入るよな」


足指がひくひくと動いた。僕は背伸びをして、足の主の正体を見極めようとした。


「わかる。でも、後から気持ちいいとわかっててもめんどくさいのも事実なんだよ。前戯みたいなものさ」


「前戯っていや、昨日、グスタフがやったらしい」


「春だからねえ。豚箱に行きゃ、やり放題なのに。ああ、ここが豚箱みたいなもんか」


二人の笑い声が絡み合うように頭上を行き交っている。僕はテーブルに手をつき、懸垂のように身を乗り出そうとしていた。やっとテーブルの上が見えたと思った瞬間、手が滑り、僕は床に後頭部をぶつけた。


「おい、なんか音がしたぞ」


「リュウ見てくれ。僕は手が放せない」


「赤ん坊なんかほっといて俺のために働いてくれよ、しゃち。親がなくても子は育つんだから」


「お前が言うかね。とにかく今は駄目だ」


僕が身を起こすと、ウサギのような赤い瞳と目線が交錯した。テーブルの下にいたのは髪も肌も白い男だった。中庭で僕をにらんだあいつだった。


「おい、ガキがいんぞ」


「みろく園にはガキしかいないだろ。忘れたか」


「ブスのガキだ。こんな奴見たことない」


白い男が僕の髪を引っ張って揺さぶった。抵抗したらもっとひどいことをされそうで声も出せない。


「ああ、その子か。さっき僕の絵を盗んだんだぜ」


廊下で出会った女(?)が告げ口した気配がした。


「なに? 人のもの盗むなんていけないことなんだぞ。わかってんのか」


僕は恐怖で気を失いそうだった。それなのに体の機能は何を間違えたのか腹の虫をならした。


「その子、言葉が喋れないみたいなんだ。ちなみに赤ん坊を運んできたのもその子だよ」


白い男は一度テーブル下から出て、コップを持って戻ってきた。


「おいブス、偉かったな。これ飲むか」


コップには粘着質の白い液体が縁ぎりぎりまで注がれていた。男は僕の口元にコップを持ってくる。飲まないと許されそうもない状況だった。観念して僕は曇ったコップに口をつけた。


するとこれまで味わったことのない暴力的な甘さにめまいがした。


生まれて初めてフルーツの芳醇な香りが鼻を突き抜ける。僕は乾きを癒すように啜り、舌が底に行き着いても必死で舐めとろうとした。


全部飲み終えると、男は僕の唇の端を指ですくって口に含んだ。とても汚らわしい行いをされた気がして、ジュースの味は消し飛んでしまった。


「うめえだろ? ここにいればいくらでも味わえる。天国の味だ」


テーブルの上から忍び笑いが漏れる。僕は椅子に座るように促された。


白い男と、髪の長い女(?)二人が並んで座り、僕は赤子を膝の上に乗せたまま向かいに腰を下ろした。


六等分に分割されたピザが目に飛び込んでくる。ピザとは何か知らなかったけれど、鮮やかな色彩と自然と唾液があふれてきた。


僕は犬のようにピザを貪った。


僕は知らなかった。その日の朝、デリバリーピザのバイクが襲われて配達人が怪我をしたこと。スーパーからレジを通さずメロンが消えたこと。


僕は何も知らない子供だった。目の前の二人がどれほど自分の運命に影響を与えるか、知る由もなかったのだ。

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