第30話 僕はリュウノイチバンではなくなった


リュウは僕に何の要求もしない。ただ黙々と仕事に出かけるようになった。これまで僕がやっていた洗濯とかも自分でやっていたらしい。作業着が部屋に干してある。皺を伸ばした方がいいかと迷ったが、結局しなかった。


不思議に思ったことがある。リュウが用意してくれていたのはコンビニの弁当やデリバリーがほとんどだったが、以前食べていたものより値段が一回り上だった。給料だって安いだろうに。


僕へのご機嫌取りのつもりだろうと思って、ほとんど手をつけなかった。


風呂も入らず、わずかな水で喉を湿らすだけの生活だったが、思ったより不便はなかった。何故リュウの側を離れて一人で暮らさないのか? という指摘を受けそうだが、当時の僕は全く考えもしなかった。


リュウを一人にしたら、何をしでかすかわからない。追いかけてきて僕を殺すかもしれない。リュウを恐れながらも、リュウの監視を怠るわけにはいかなかった。


冬を越して春になっても僕は押入の生活を続けていたが、リュウの監視だけにかまけているわけにはいかなくなった。見知らぬ来客がやってくるようになったのだ。


これまで友達一人呼んだことのないリュウがどういう風の吹き回しかと興味を持った。


相手の顔は押入から見えなかったが、リュウより年上のようだった。いつもスーツ姿で、言葉遣いは丁寧だったが、時折噛んで含めるような言い回しをするのが気になった。


「これから国を立て直すのは君のような人間なんだ。だが、原石は磨かなければ意味がない。しっかり励むようにね」


教師のような言い回しにリュウが嬉しそうに返事をするのを忌々しく聞いた。どうせ百分の一も理解できやしないのに。


「あの人だれ?」


ある日、思い切ってリュウに訊ねた。


「俺の恩人だ。今の仕事もあの人に紹介してもらった」


僕には腑に落ちなかった。リュウとあの男はどこで知り会ったのだろう。男は毎週水曜日に団地にやってきて難しい政治の話をしていく。リュウとはまるで接点がなさそうなのだが。


リュウはあの男に傾倒していった。受け売りの警句などを紙にかいて壁に貼ったり、難しい本を図書館から借りてきた。


「日本はこのままじゃいけない。民衆は立ち上がらなくちゃいけないんだ」


周知の通り、日本の人口は減り、外国人の移民を大量に受け入れざるを得なくなった。同時に、一部の外国人に参政権が与えられるようになった。自然、移民に有利な法案が通りやすくなり、雇用や生活の場を奪われたと感じる日本人の鬱憤が限界に近くなった時期でもあった。


(人の庭より自分の庭だ。リュウは僕をどうしたいのだろう)


僕の関心時といえばそれだけだった。リュウはあれから僕に指一本も触れていない。妊娠はしていないとわかってからも生活圏が重ならないよう互いに気を配ってきた。 


リュウも僕を避けていた。理由はわからない。いや、薄々わかっていた。僕はもうリュウにとっての一番ではなくなっていたのだ。


「ねえ、リュウ、やっぱりあの人おかしいよ」


僕は半年ぐらいぶりにリュウに話しかけた。あの男と顔を合わせた印象を伝えようとしたのだ。


僕は来客中、思い切って押し入れから出てみた。ちょうど痛んだソファーに座っていた男と目が合った。


「おや」


僕を見るなり、男は薄くほほえんだ。声だけの主と初めて相対したが、思ったより穏やかな顔をしていた。銀縁眼鏡をかけ、まるでこの世の汚らわしいものとは無縁の生活を送ってきたようなきれいな目をしている。


「君が君の妹だね」


男は落ち着き払った様子で足を組んだ。


「あ、う、あ」


僕はほとんど喋らずに暮らしていたので、上手く喋れなくなっていた。相手は僕の知能に問題があると解釈したのか同情するような目を向けた。


「君たちは不幸な生い立ちだそうだね。でももうすぐ報われるよ」


僕の頭を撫でて、帰り際ハンカチでその手を拭っていた。僕は半年近く風呂に入らなかったので、それは仕方ないとして、あろうことかあの男はリュウの名前をを言い間違えた。信頼に値しないのは誰でもわかる。


入れ違いに帰ってきたリュウにそのことを伝えようとしたのだった。


リュウは僕の聞き間違いだと取り合わなかった。あいつは僕らを見下している。リュウはそういう大人と袂をわかったのではなかったのか。迎合している。おもむねっている。そのようなことを言ったら殴られた。奥歯が折れた。


僕は諦めずにリュウに抱きついた。普通の兄妹に戻ったみたいに。でも、リュウの反応は冷ややかだった。


「触るな、雌豚」

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