第31話 僕ハブタノヤキイロヲシッテイタケドシラナイフリヲシタ


リュウは、僕が国選花嫁になりたいと言った時と同じ言葉を用いた。僕をつなぎ止めるための窮余の策だと思ったから許せていたのに。この時、僕の中の最後の綱が切れてしまった。


リュウが僕の髪を掴んでも、肌が引っ張られる感じがしない。他人の暴力を傍で見ているような感覚に支配されていた。


「お前、あの店長も誘惑してたんだろ」


体の感覚だけでなく、話の繋がりも見失いそうになる。いくら否定しても、リュウは無視して僕をなじり続けた。


今の境遇に落ち込んだのは僕のせいだと言うのだ。僕がリュウや店長を誘惑したから人生の歯車が狂った。リュウは国のために重要な仕事をするために生まれた。僕のせいで脇道にそれてしまったが、今は心を入れ替え、正道に戻りつつあるらしい。


話を飲み込めない僕に、リュウは笑いかけた。暴力を振るった後に僕を宥めるあの顔だ。


「安心しろ、俺はお前を見捨てない。最後まで一緒にいような奈美」


リュウがいなくなると、僕はタンスの下からいつぞやの手紙を引っ張りだした。児童相談所の住所を知るためだ。僕はわずかな語彙を使って、手紙を書いた。


「あたしは、ぶたになった。ぶたはどこひいけばいいですか」


唇から垂れた血が、便せんに染みを作った。裸足のままポストに行って投函したが、この手紙は届かなかった。切手を貼るのを忘れていたのだ。もしこの手紙が届いたら僕の運命は変わっていたかもしれない。


団地のバスタブは足が伸ばせない程狭い。子供の頃からそうだった。リュウと一緒に入っていたからだ。


一緒に入らなくなっても、足は伸ばせない。身長の伸びた僕だけでバスタブは満タンだ。一緒にいたい時に、リュウの入る場所がないのは皮肉だった。


ある日、バスタブに大量の一万円札が積もっていた。僕はその上に体育座りした。落ち葉みたいにかさかさと音が鳴る。


「これでフクロウが買えるな」


僕は風呂場からリュウの満足げな声を聞き、顔を上げた。枯れていたと思った涙が溢れてきた。あの時の約束を覚えていたんだ。リュウが約束を守ったのは数えるほどしかない。僕の兄が帰ってきたんだ。やっと。


幻を追うように風呂場を出る。テーブルには大きな鳥かごが置いてあった。やせ衰えた僕の手では持ち上がりそうにない。


金属質のドアが閉まる音が聞こえた。入れ違いで出かけたらしい。追いかけようとしたが、体が言うことを聞かない。


このお金の出所は、きっと汚い。リュウは報酬の前払いだと言っていたが、まともな仕事なわけがない。数日前から部屋にあったトランクケースが消えている。リュウが持っていったのだ。


もし僕が追いかけて振り払われたら、立ち上がれない。こんな鳥かごを見て、妹の顔を少しでも思い出した僕が馬鹿だった。


テレビをつけると、国選花嫁のCMが流れる。画面の中の女は獰猛な笑みを浮かべて男にしがみついていた。僕は明るい画面に手を伸ばす。


僕が豚に憧れたからいけないのか。リュウがおかしくなったのも、店長が怪我をしたのも、家に汚いお金があるのも。


リュウが壁に貼った紙には、こう書かれていた。


「おれも誰かに必要とされたい」


ぐらぐらする奥歯を触りながら、僕はリュウの帰りを待った。


ある時、弛緩していたテレビ番組に緊迫した空気が漂った。ニュース速報というテロップが流れ、事件らしき内要を放送し始めた。


『今日、午後四時三十分頃、池袋駅近くで爆発があり、多数の死傷者が出た模様です』


選挙カーの周りに黒々とした人だかりができている映像に画面が切り替わる。豚を見下ろす候補者のにやけ面がズームで映し出された後、爆音が響いて画面が一瞬乱れた。いくばくかしてカメラのレンズは煙渦巻く青空を映しそこで止まった。現場にいた被害者が撮影した映像のようだ。


『右傾団体、桜を仰ぎ見る会が声明を発表し、爆発は自分たちの犯行だと認めています。同団体は以前から排外主義的な活動をしており、移民に寛容な政策を謳った候補者を狙ったものだと思われます』


十数名が死亡し、三十名以上が重軽傷を負ったと知っても僕の心は動かない。所詮赤の他人だ。共感力の低い人間は、自分に火の粉が降り懸かってみないと痛みを実感できない。


画面はリアルタイムの映像になり、蜂に刺されたみたいに慌てたリポーターがまくしてたてていた。


警察官が血のついた地面を捜査する姿を、僕は食いいるように見つめた。


正確にはその傍らに転がっていたトランクだ。メタリックブルーのどこにでもあるデザインなのだが、うちにあったものに似ている。夕食の時間になってもリュウはまだ帰ってこない。サイレンがうなるような音を立てて行き交っていた。


十時頃、制服の警官たちが、部屋に押し入った。リュウを知っているかと、厳しい口調で詰問された。僕が黙っていると無理矢理立たされパトカーに乗せられた。パトカーは病院に直行し、僕はそこの霊安室でリュウと対面した。


リュウの顔面は焼けただれ、髪も歯も残っていない。リュウかどうか確認せよと言われたが、僕は首を傾げた。


「ぶたです。やきぶたです。おにいちゃんじゃない」


僕は遺体を指して、そう言ったらしい。栄養失調とショックで気を失ったので前後のことはよく覚えていない。


そのまま病院に入院し、警察に事情を聞かれた。リュウが何かしたらしい。リュウが被害者になって殺されたとは思ってなかったが、大きな事件の加害者として認識されると聞いても実感はなかった。


みろく園の園長がもろもろの手続きを代わってくれたので助かった。この人は僕が土壇場の時にしか助けてくれないらしい。


その後、火葬場で鯱と顔を合わせた。鯱は仕立ての良いスーツを着て髭を生やしていたから誰かわからなかった。向こうは僕のことがわかったらしくて恐る恐る話しかけてきた。


「……、大変だったな」


鯱の落ち着いた声を聞いたら、急にお腹がしめつけられる感覚がして彼に抱きついた。


鯱は僕の背中をやさしく叩いた。それに合わせて涙が出そうだったが我慢した。もう鯱は僕とは違う世界の人間なんだ。甘えるもんか甘えるもんか。歯を食いしばって堪えた。


リュウの葬儀に出たのは鯱と僕、みろく園の園長だけだった。葬儀といっても金がないので火葬しただけだ。薄っぺらくなったリュウの骨を鯱と共に骨壺に納め、お寺へと向かった。


檀家にまで見捨てられた墓地は荒れ果てていた。和尚は末法の世じゃとつぶやいてからお経を唱えてくれた。


リュウの骨を預けた僕と鯱は園長の車に乗る前に少し話した。


「お前、これからどうするんだ。当てがないんだったら、僕と」


鯱は僕を残していったことに負い目を感じている。やさしいからずっと僕のことを考えてくれていたんだ。でも僕は鯱とは行けないと断った。


どうして? と問われた。


「リュウと一緒にいたい」


鯱は僕が敵討ちすると早とちりしたらしいが、リュウに爆弾テロを実行させた男は逮捕されている。そんな男に興味はなかった。


なおさら一人にさせられないと鯱は粘ったが、僕の決意が堅いことを知ると、当面の生活費と連絡先をくれた。結局一度も連絡しなかったが、この兄には感謝してもしきれない。


「あいつは何がしたかったんだろうな。奈美を残して逝っちまいやがって」


施設で一緒だった鯱ですらリュウのことはよくわからなかったらしい。熱病に似た焦燥と暴力に少しずつ侵された相棒の死を嘆き、車の中でずっと信じられないと呟いていた。


「お前とリュウはガキん頃、店を持つんだって騒いでたよ。まさかこんなことになるなんてなあ」


園長が昔の話を蒸し返すと、鯱は目頭を押さえた。リュウの夢は僕が現れる以前から存在したのだ。僕は鯱に申し訳なくなった。僕がいなければこんなことにならなかったかもしれないのだ。


お寺の帰りに安い寿司を食べ、僕たちは別れた。それから二人には会っていない。


団地に向かう道すがら、国選花嫁のラッピングがされたトレーラーが目の前を横切った。電話番号を記憶し、警察に荒らされた部屋で電話をかけた。


「……、すみません。国選花嫁の試験を受けたいのですが」


駄目元で試験を受けた。一次試験はペーパーテストだった。0点に近かったはずだが何故か通過し、二次試験では新東京ドームでキックベースをした。それからあれよという間に僕は国の花嫁に選ばれる。


頭にチップを埋め込まれたテロリスト家族奈美ちゃんは第七世代という名誉称号と、不破瑞樹という新しい名前を手に入れた。


自分を捨てるのは、生活のためでもある。犯罪者の家族となった奈美ちゃんに生きられる空間はもはや残されていない。国選花嫁になれば以前の経歴は抹消される。生まれ変わって人生をやり直すにはもってこいだった。


もう一つの理由は誰にも話していない。リュウが最も嫌悪した国選花嫁という娼婦に僕はなりたかった。


リュウの霊魂がどこかで見ていたとしたら、きっと悔しがる。僕が、どこの誰とも知らない相手に体を許しても、リュウは手出しできない。


僕はもうリュウのものじゃない。誰のものでもない。自分の意志で人生を選ぶのだ。そう思わないとやってられなかった。

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