第32話 僕は不破瑞樹としての幸せを考える
温い潮風が頬を撫でる。海を眺めると、嫌でもリュウを思い出す。
僕は奈美という名前を捨て、不破瑞樹としてこの船に乗っている。過去を語る資格はない。それなのに岩永さんに語って聞かせたのは自己満足に他ならない。批判したければすればいい。自分の責任から逃げた臆病者とでもののしって欲しかった。
身構える僕をよそに、岩永さんは涼しげな顔をして船の欄干にいたカモメに目をやっていた。
「不破さん、フクロウ触ったことある?」
「いいえ」
「都会にはフクロウカフェという場所があって、本物に触ることもできる」
学校で動物の持ち込みは禁止だが、鳥かごだけは寮に置いてある。いつかフクロウを飼おうなどという愛護的理由ではなく、自分の罪を忘れないためだ。
「興味ないですね」
「そう? 今でも好きなのかと思った」
僕に奈美の心があるのか試したのか。当てつけを言う程度には、岩永さんは怒っている。表情はわかりづらいが多分そうだ。
僕の過去は天音にすら話してない。なじって欲しかった? 単なる甘えじゃないか。この人の子供はテロで死んだ。リュウが殺したわけじゃなと思うけど、僕はその子を口実に贖罪を願ったと受け取られても仕方ない。
自己嫌悪に落ち込んでいると、岩永さんに持ち上げられた。脇に手を入れられ高い高いするみたいに。このまま海に投げ落とされるのかと思った。
「海、見える?」
うねり猛る海面が見晴らせる。目を背けても、どこまで行っても海と空とたゆたう雲しかない。
「海は広いな大きいな」
「そうね。今ここにいるのは海とカモメと私たちだけ。さっきの話、全部胸にしまっておく」
プロらしい幕の引き方だ。小娘の感傷につき合ってくれたことに感謝する。
「気持ち悪いの良くなりました。部屋に戻っていいですか」
岩永さんは僕を下ろし、先を歩いた。山のように大きな背中は頼もしい。
「岩永さん、僕の専属ボディーガードになりませんか」
「冗談? どうしてそうなるの。突き放したつもりなのに」
狭い階段を手を繋いで降りた。狭い通路に立つと、揺れを大きく感じる。
「僕を気遣ってくれたじゃないですか」
「まさか。君みたいな生意気な子、好かない」
岩永さんはあけすけに物を言う。生意気なのは自覚しているから腹は立たなかった。
「上に言っちゃおうかな」
「そういうとこよ。いけすかないのは。子供の癖に」
岩永さんは僕の髪をぐしゃぐしゃにかき回した。この人は僕を国選花嫁とも第七世代とも見なさない数少ない大人だ。無性に欲しくなってしまった。
「子供だからですよ。自分の身は自分で守らなきゃ。身請け人はどんな奴かわからないし」
いじましく笑って見せると、岩永さんはおもむろに問いかけてきた。
「不破さん、今幸せ?」
「はい」
「よく考えて答えて。私は幸せになろうとしない人間の警護はしたくない」
よくわからない職業倫理を持ち出されて困惑する。ドライに見えて以外とめんどくさい所がある人だ。普段、言語化しない自分の感情を話すのはためらわれる。
「まあ満たされてはいますね。友達はいますし、守らなきゃいけない奴もいる。そのためなら僕の命なんか」
岩永さんの分厚い手のひらが僕の頬に触れる。
「それよ。誰かのためじゃなくて自分のために生きなきゃ。約束できないなら今回の旅で私たちは終わり」
男らしい。惚れちゃいそう。このまま身請け人候補をうっちゃって二人で逃げることも検討したい。でも僕には天音がいるからそうもいかない。
「自分が二の次って美談として成立しませんか」
「君の場合、不安になるのよ。さっきの話聞いてたら、自分を苛むために国選花嫁になろうとしているみたいだから……」
岩永さんを攻略するために僕の過去を話す必要があったが、今はそれが足かせになっている。ままならないものだ。しかも的外れな指摘ではない。
「本音では楽したいだけです。アラブの王族と結婚した同級生もいるんですよ。夢見るなっていうのも無理な話です」
何とか誤魔化したが、図星だったのは否めない。遅かれ早かれ向き合う話だが今の僕にはこれが精一杯だった。
「いずれにしろ私の一存で決められる話じゃないね。君の、えーと、婚約者? が許してくれるかわからないし」
個人契約に切り替えると、岩永さんの組織と交渉しなくてはいけない。パイプのある学校に相談するといいと肯定的な返事をもらう。
歩きながら、そのような話をしていると部屋に着いた。
岩永さんが僕の部屋の扉を開けると、まばゆい光と共に大音量のダンスナンバーが耳を聾する。中には金色の悪趣味なスーツを着た謝じいさんがいて、こぼれ落ちそうな目玉をぎょろりと向けてきた。
「はああい、瑞樹ちゃあん! お爺ちゃんと遊びますかあっ!!!」
岩永さんはそっと扉を閉めた。
忘れてたけどあのじいさんはいらない。
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