第18話 僕は身請けの旅に出る
シャンパングラスを相手の顔に向けるなんて非常識、学校では教わらなかった。つまり僕の意思は生きていたって訳だ。
「こんな騙し討ちみたいな真似して恥ずかしくないんですか。あなたは最低です」
ロシア大使館で僕は運命の相手と巡り合った。彼は僕の兄に似ていた。出会った時はそう思わなかったが、後で嫌ってほど思い知らされる事になる。
僕は自分の罪を棚に上げて、他人を傷つけるようになってしまったよ、リュウ。だって仕方ないじゃん、僕の周りには誰もいなくなってしまったんだから。
大使館に向かう数日前、僕は急に三浦に呼び出された。授業中だったし、弥生ロスが治っていなかった僕は何のための呼び出しかわからず困惑した。
「瑞樹ちゃん、喜びなさい。王子様から招待状が届いたわよ」
三浦の興奮具合から、慶事が起こったのが伝わる。僕は身よりのない子供みたいに縮こまってアイスコーヒーをちびちび飲んでいた。職員棟の会議室は寒気がするほど広く、圧迫感がある。壁には下品な色使いの抽象画がかけられており人を幻惑した。
きっとここで日常的にパワハラが行われているんだろうな。ホワイトボードには、「きよくかわいくいやらしく」という文字が消し忘れて残されていた。教育方針だろうか。控えめに言って気持ち悪い。
「亜矢ちゃん、端っこ行っていい?」
「え、ええ……」
三浦の返事を待たず、僕は部屋の端っこに移動してしゃがんだ。みみっちくなった鉛筆が転がっている。すかさず手をかざす。この鉛筆の持ち主は、手帳に嬉しいことを書き付けるのが趣味だった。どんな些細なことでも書き留めて、日々の慰めとしていた。でもこの学校で働くうち、嬉しいことが減り、嫌なことの方が増えていった。この鉛筆を使う機会が完全になくなった時、彼女は自ら命を絶った。
おおざっぱだが、そんな所だろう。僕は物に染み着いた情念に対する感応機能が高い。意識しなくても映像が飛び込んでくることがある。弥生は人間の情動が色の帯になって見えると言っていた。第七世代によって能力に個人差があるようだ。
喜びより悲しみが勝るなら、僕らはどうやってそれをやり過ごせばいいのだろう。
「感傷に浸ってる場合かな? 瑞樹ちゃん」
三浦の言葉が僕に響いたことはかつて一度もない。こいつは教師としては無能だ。女衒としては有能なのが無性に腹が立つ。
「お友達がいなくなったのは堪えるだろうけど、やるべきことはやらないとね」
「お前に何がわかる。半身をもがれた気分だ。こんな気持ち、あの時以来……」
心ないことを言いながらも三浦は僕の背中をさすってくれた。前言撤回。いないよりましかもしれない。
少し落ち着いた僕は三浦の話を聞く気になった。
「餌に喰いついたって?」
「この場合どちらが餌がわからないけどね。まあ進展したってことは伝えとくわ」
僕の狙い通り、じれた向こうからアクションを起こしてきた。
謎の紳士はどうしても僕に会いたいと言ってきている。シャイな奴なのか、臑に傷のあるのかわからないが、この期に及んで正体は伏せたままだ。
「彩矢ちゃん、もしかしてそいつは彩矢ちゃんの知り合いか?」
「……、ノーコメントで」
以前、最初に話を持ち込んだ時に三浦は、オファーの相手を知っていそうな口振りだった。三浦は何だかんだで、仕事に手を抜かない。バニラの身請けが失敗した時には本人の前で土下座したくらいだ。無責任な仕事はしないと信じる。
「隠すとためにならないよ。もう一個穴を増やしてお嫁に行けなくなってもいいのかな」
それでも僕は探りを入れた。対面のリスクはギリギリまで下げておきたい。このタイミングなら三浦も対応するしかないと踏んだ。
三浦の額を鉛筆でつついたが、やはりこの件に関して三浦の口は固かった。
「どうせもう毛穴一杯広がっちゃってるもん! やるならやれば? 私だって先生だもん、怖くないもん」
精一杯の抵抗が、ファンデーションで隠しきれなくなった毛穴とはかたはら痛いわ。呪いの鉛筆で額に文字を書いてやる。
「ねえ! 何書いた? サノバビッチとか書いたでしょ。やだー、もうお嫁行けなーい」
「彼氏いない歴何年だ、お前。僕の方が先越しちまうかもな」
いつも通りからかうと、三浦が感極まったように目元をこすった。
「な、何だよ」
「だ、だって瑞樹ちゃんがようやく身請けの意志を固めてくれたのが嬉しくて」
「大げさだな。まだ身請けされるか決めてないのに」
「ううん、絶対決めてこなくちゃ駄目。さあ、善は急げだ。今すぐ出発よ」
「え? え?」
三浦は動揺する僕を、会議室の外に押し出そうとしてきた。してやられた感が否めない。
「これから? まだ心の準備が。天音にホウレンソウしてないよ」
「いいのいいの。先生やっとくから。楽しんでらっしゃい。グフフ」
急転直下で外泊が決まった。まだ見ぬ運命の相手と巡り会うためのお忍びの旅だ。この旅行が何を意味するか知らない僕は、まだ暢気な物見遊山の気分でいた。
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