第15話 僕はいつかに打ちのめされる
指に蟻がたかっている。蟻って人間の皮膚を食べるんだっけ。豚の肉汁に惹かれているだけか。
僕の皮膚を食い破って中までおいで。空っぽの中身を蟻の巣にしたら、見せ物にして弥生に帰ってきて貰えるから。
「ふわふわ」
遠慮がちに僕を呼ぶ声がした。囁きに近く、綿毛のように繊細な声に僕の心は震えた。
「弥生……? 弥生だね」
「こちら天音でし。どーぞ」
天音は豚の被りものをして壁際にひっそりと立っていた。僕は天音をもっとずうずうしい生き物だと思っていた。天音が知らない場所で居心地悪そうにしているのは、僕のもてなしが足りないせいだろう。
「座れよ。羊羹があるんだ。一緒に食べよう」
天音は僕の指についた蟻を、長い舌の先で払いのけた。蟻はぱらぱらと砂のように散らばったが、何匹かが天音の舌の上で冒険を続けている。
「羊羹は蟻のお腹の中を回遊しててね、ふわふわのもてなしを受けるには蟻を体内に摂取する必要があるんでし」
「弥生と食べるはずだった。砂糖一粒すら蟻にやるつもりはなかったんだ。わかるだろ」
僕は天音の考えが読めないけれど、天音は僕の考えを正確に理解して反映してくれる。まるで天音が第七世代の子供みたいだ。
「解せぬ」
「いいからわかれよ。物わかりのいい天音ちゃん。お前は僕の前からいなくなったりしないよな」
「あーちゃんはいなくなったりしないよ。いつか、ふわふわがあーちゃんの前からいなくなることはあるかもしれないけど」
天音は舌に載ったままの蟻を丸飲みにすると、割烹着を着て部屋を掃除し始めた。
僕は椅子の背もたれにもたれたまま天井を見つめていた。いつか、が恐ろしいのはいつそれが訪れるのか誰にも予測できないためだ。いつかなんて言葉がどうしてあるのだろう。意味のわからない言葉を振りかざすのは子供の特権だけれど、僕は今ほど大人になりたいと思ったことはなかった。
「天音はいつ大人になる?」
天音を生物のカテゴリーから除外するような稚拙な質問だった。天音以外にはとても口に出せない。天音の答えは予想通り頑なだった。尻を振り乱して怒鳴ってきた。
「ならないならないあーちゃん大人にならないんだっ!」
「そうだな、人のお菓子を黙って食べる奴は大人じゃないよな」
クラスの奴らが天音にお菓子を与えるのは、自分たちが失うであろう心を託すためなんだろう。大切な心を置いて学校を卒業する。僕は弥生に対してその役目を果たせただろうか。
天音は整頓という名の家捜しをしていたが、ある時、物音がぱたりと止んだ。身に堪えるような静寂に耐えられなくなり、僕は部屋から部屋をうろついたが天音はどこにもいなかった。
一瞬、夢かと訝ったが、テーブルの上に見覚えのない食べかけのスナック菓子と折り鶴があり、天音の訪問を裏書きしていた。
弥生が身請けされたからって、いつまで落ち込んではいられない。僕も身請けを成功させなければならないのだ。天音のためにも、自分のためにも。
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