第10話 僕は天音のクッキーが気になる


天音が見つからずしょげている僕を見かねたのか、弥生は一晩中側にいて慰めてくれた。


同じベッドで同じブランケットを被り、じゃれたり、ココアを溶かしたように曖昧な色の窓の外を見つめて物思いに耽ったり。


まるで普通の学校の寮と変わらない夜が更けていく。寮では二人部屋が基本だが内装は自由だ。お金を出せば大抵の希望は叶う。僕はこれといった要望がないため、弥生に全てお任せしている。


部屋に入ってすぐの所にシャワー室とトイレがある。続いて衣装部屋がキッチンに繋がっている。 


弥生が使う床の間とリビングが隣接

しており、その奥が寝室だ。寝室にはダブルベッドが一つと、庭園に面した円形の大きな窓がある。


「ふわぁ……、眠くなってきたわ」


弥生が午前三時頃ようやく眠気を訴えた。僕は早く寝ろと言ったのだが、意固地に起きていたのだ。


ベッドサイドランプの明かりを消して僕が腕枕してやると、弥生は目を閉じる。間も無く寝息を立て始めた。乱れた浴衣を直してやるとむずがるように体を震わせた。


「瑞樹はん、生まれ変わったらうちの旦那はんになってな。約束……」


僕は恋人ごっこと割り切っているが、弥生はどこまで本気かわかりづらい。いずれここを去るのだ。その時まで夢を見ても罰は当たらないだろう。


頭を撫でていると安心したのか、弥生は深い眠りに落ちていった。僕もうとうとしながら夜明けを迎えた。


寮に消灯時間はないが、朝食は全員で食べる決まりとなっている。遅刻しようものなら、朝に難ありと通知表に書かれてしまう。身請け人の多くが保守的な思想の持ち主で、女に家事を任せたがるから気が抜けない。


寮生が交代で朝食を作り、その結果も全て通知表に反映される。料理下手より、当然料理の腕がある方が気に入られるに決まっているから、当番が回ってくると調理室で自主練習する者も多い。


おかげで、僕らは毎朝おいしい食事にありつける。あまりに長く学校に居座ると、食事くらいしか楽しみがないと本気なのか冗談なのかわからない事を言う奴がいるが、僕もそうなりたくないと思いつつ、今朝もお茶碗三杯を平らげた。


朝食は七時から三十分の間に済ませなくてはならない。それから学校が始まる八時半までに準備を済ませて教室に向かうのが平日朝の主な流れである。


僕は準備に時間を取らないタイプだが、弥生は着物をあれこれ悩んで遅刻しそうになる事がたまにある。今朝もそうだった。


「誰もお前のことなんか見てないよ」


僕が何気なしに急かしたら、姿見の前で弥生は激怒した。


「なんなん、この人でなし! もう離婚や。別れる」


「僕だけ見てればいいんだろ」


弥生が喜びそうな事を言ったら、さらに怒られた。単純に扱われるのも不服らしい。めんどくさい奴。


昨日の今日でまた遅刻すると、三浦に嫌みを言われるので僕は先に部屋を出た。


寮の玄関に送迎用のバスが待機しており、それに乗って校舎に向かう。寮の敷地を出てすぐに地下トンネルに潜るため、外の景色を楽しむ機会は皆無だ。


地下墓地のような暗く冷たい駐車場に止まったバスを降り、あとはひたすら上階を目指すだけだ。通学は楽だが味気ない。


雌豚がひしめき合う中、エレベーターの前で見慣れた三つ編みを見つけた。


「よ、天音」


天音は右肩を不自然に垂らし、口を半開きにして立っていた。聞こえていないようなので、僕は天音の頬をつねってみる。


しばらく放置すると、天音は死にかけの茹でカエルのように跳ねた。


「あっ、あー……、おはようございましゅ、ふわふわ」


「早いな、今朝は」


「彩矢先生に、次遅刻したら、欠席扱いにするって言われたのら」


「そっかー、偉いじゃん。でも頭はちゃんとしないと駄目だぞ」


天音の髪は今日も不格好に編まれている。あとで弥生に整えてもらおう。


「え、へへ……、以後気をつけます」


ヘラヘラ笑う天音の腕に紙袋があるのがさっきから気になっていた。


「もしかしてお菓子? それ」


僕が水を向けると、天音は紙袋を隠すように抱き抱えた。


「そ、そう……、クッキー」


「へえ、マジで作ったんだ。味見してやろうか。せっかく身請けが決まったバニラが腹壊したら可哀想だからな」


天音は背中を震わせ、紙袋の上にぽたぽたと涙をこぼした。


「お、おい……、冗談だって。本の通りにできたんだろ? なら大丈夫だよ。うん、大丈夫」


天音は涙腺が弱いのか、比較的良く泣く方だ。三浦に苛められても泣くし、お菓子が食べられないだけで泣いている。でも子供と同じで三十分もすればけろっとしているのだ。今回もそうなると予想して、僕は深刻に捉えなかった。


「ふわふわ……、ごめんね……、ごめんね」


「謝るな。お前は悪いことしてないんだから」


天音は教室に着いてもめそめそしていた。みな不審がって、僕が何かしたと疑い始める。誤解が解けないまま三浦がやってきて、朝のミーティングが始まった。

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