第36話 僕は治外法権に足を踏み入れる


お兄さんと入れ違いで、謝のじじいが戻ってきた。トイレに行っていたらしいが、偶然にして出来すぎている。


「念のため聞くけどさっきの人は身請け人じゃないよね?」


じじいは笑顔で手を振り、店の人からチーズケーキの皿を受け取った。向かいの店から運んで貰ったらしい。


「その時になればわかります。運命の相手、瑞樹の伴侶」


チーズケーキを食べながら、じじいに手相を見て貰った。子供は三人、孫は十八人、僕は百十八歳まで生きるらしい。人生設計の参考にもならないが暇つぶしには丁度良かった。


そうこうするうち岩永さんが買い物を終えて戻ってきた。


「ついでに他の買い物もすませちゃうから、不破さんも準備して来てくれる?」


「準備って?」


観光気分はここでおしまい。重い腰を上げていよいよ本格的に豚の顔になる必要があるようだ。


ここから謝のじじいと僕は岩永さんと別行動になった。僕はドレスに着替える必要があると知らされ、その準備に追われる。パーティーは夜なのでブルーのカクテルドレスを買った。


次の目的地はロシア大使館。大使の娘さんの誕生日の招待されたのだ。こうなるとわかっていたら自前のドレスを用意したのに、ギリギリまで目的地を知らされないものだから参ってしまう。


「どうして僕はロシア大使館にお呼ばれしたんだろ」


僕を身請けしたい人はロシア人なのだろうか。当然の疑問を口にしても、じじいは笑っているだけだ。大人は本当のことは教えてくれない。


ロシアとアメリカは未だ敵対しているが、日本がロシアからエネルギーを輸入しているのは公然の秘密だ。その縁で豚が輸出される話は聞いたことがあるが、いざ自分がそうなると、気持ちの整理がつかないでいた。


天音はロシアの気候に馴染むだろうか。寒いのが苦手かもしれない。帰ったらピロシキを食べさせて慣れさせていかなくちゃ。


ロシア国旗が目に入ると、緊張感が増した。


坂の上にあるロシア大使館は一件なんの変哲もない白い建物だった。重厚な鉄の門の上に監視カメラがあるのを覗けばだが。


車を降りたじじいがどこかに電話をし始めた。聞きなれない言語だと思ったらロシア語だ。恐らく大使館に連絡しているんだろう。


じじいが電話を終えるとほぼ同時に、正門が音もなく開いた。手鏡で身なりを確認する。じじいと連れだって大使館の敷地入った途端、目の前が真っ暗になった。目の異常を疑う暇もなく景色が一変する。


前方に赤い鳥居が延々と続いている。鮮やかな臓腑の色だ。僕は夢の中のような光景に棒立ちになった。歓迎の挨拶にしては悪趣味だし、ロシアがここまで親日派だとは思えない。来なきゃ良かったかなと後悔がよぎる。


鳥居に触れてみたが、冷たい柱の感触が指の腹に残る。かなり高度なVR技術だ。粒子フラッグが、飛び交う粒子を吸着し、折り紙のようにひだを形成する。学校の舞踏会場にも似た技術が使われ、中世ヨーロッパの王宮から鹿鳴館まで自在に内装を変えられる。


じじいがいない。どうせいてもいなくても大して変わらない。僕は鳥居の道を進んだ。


十メートルも進まないうちに、人らしきものに出会った。金髪の髪に鳶色の瞳、巫女装束を来た小さな女の子だ。


「こんにちは」


僕が挨拶すると、女の子の頭の上にある耳らしきものをピンと立てた。


「うむ」


鷹揚に頷いてから、ついてこいといわんばかりに女の子は背中を向ける。彼女の尻には狐のようなしっぽがついていた。彼女の見た目の異様さは、外殻兵装アバターの一種だろう。義体を応用した軍事目的のパワードスーツの開発は進んでいるが、仮装に使われているのを初めて見た。


女の子は脇目もふらず、鳥居を進む。小柄な割に俊敏で、ついていくのがやっとだ。鳥居を抜けた先に古めかしい引き戸があり、中は真っ暗だった。女の子がスイッチを押すと、埃っぽい中の様子が明らかになる。床をけばけばしい色の雑誌類が占拠している。棚にはかつて日本で流行していた漫画本がぎっしり詰まっていた。どれも所持しているのがバレれば禁固十年は確実な代物。発禁処分になったものばかりだ。


「どうじゃ、わらわのコレクションは」


「すごいですね」


僕は素直に感心し、「どっせいもん」という漫画をパラパラとめくった。ページは赤茶けているがすんなりと頭に入る。


「大使館は治外法権じゃからな。税関さえ通れば持ち込み放題じゃ」


僕はロリ狐に脱法行為を教わりにきたわけではない。国選でも似たようなことをしているので驚きも少なかった。


僕は静かに本を戻し、ロリ狐に目を戻した。腕を組んで頬を紅潮させている。自慢のコレクションを披露できてご満悦って所か。悪いが僕にはどうでもいい。


僕は勢いをつけて女の子の顔の脇に手をついた。いきなり距離を詰められ、女の子は目を白黒させている。これはかつて日本で栄えた制空技術、壁ドン。弥生に教わった技術がこんな所で役に立つとは思わなかった。


「君は誰? どうして僕をここに呼んだの」


目をそらさずに少女を詰問する。体を大きく見せ、心理的に圧迫感を与えることも忘れない。


女の子は耳を垂れさせ、目を潤ませた。


「わ、わらわは、アナスタシア。大使の娘である」


「招待状を出したのは君か」


アナスタシアちゃんは、何度もこぎざみに頷いた。ようやくからくりが飲み込めた。身請け人が名乗りでなかったのも、目的地がギリギリまで明かされなかったのも必然だった。名乗りたくても出でられなかったのだ。大使の娘が性奴隷を欲しがっているなんて大っぴらに口に出せるわけがない。大方誕生日のプレゼントとして僕を買うつもりだったのだろう。


涙ぐむアナスタシアちゃんの顎を持ち上げ、しげしげと観察する。アバターとはいえ、並外れた美貌が歪むのは愉快だ。それでも威厳を保とうとしたのか、青ざめた顔で僕を非難した。


「こ、国選の人間は常識がないのか」


「何を今更。こんな手の込んだやり方をしてまで僕が欲しいくせに」


情報によればアナスタシアちゃんは十歳。今のうちに手篭めにしておけば後々の交渉が有利になる。こんな部屋まで用意するなんて両親も親馬鹿なんだろう。がっぽりふんだくって天音の薬代にしてやる。


襟に手を入れようとした刹那、渾身の力ではねのけられた。


「いい加減にせよ! お前は変態か」


怒らせてしまった。もっとやさしく手ほどきした方が良かったのか。僕を所望するくらいだからMっ気があると思うのが普通じゃないか。オーケー、方針を変えよう。


「ごめん、気づかなくて。やさしくする」


背中に手を添え、体を引き寄せる。ここから触れるか触れないかの接触で感度を高める。弥生はこういうのが好きだった。体の芯が崩れるまでとろけさせたこともある。ところがアナスタシアちゃんはこれも拒否した。腕を振り回し、叫んだ。


「やめろと言うておる! わらわはお前の身請け人ではない」


それは聞いた僕は一瞬で熱が冷めた。座り込んでうなだれる。時間の無駄だったし、早とちりで子供を開発しようとした自分が恥ずかしくなった。


「……、じゃあなんなんだ。おませさん」


面識もない。身請け人でもない。この子は一体何者だ。


「わらわは……、ただ頼まれて」


アナスタシアちゃんはただ利用されただけのようだ。本当だとしたら身請け人は用心深いどころか病的な奴に違いない。


「そっか……、怖い目に合わせて悪かったね。もうあんなことしないから」


一定の距離を保ちながら、アナスタシアちゃんが訊ねてくる。


「国選の人間はみんなこうなのか」


「まあ……、そうだね、普通かな。もっと性格の悪い奴なら、君を廃人にしてただろうね」


さらにアナスタシアちゃんが僕から距離を取った。まだ聞きたいことがあるので逃げられるわけにはいかない。言葉を慎重に選ぶ。


「答えたくないことには答えなくていいから質問に答えてもらっていいかな。君に招待状を送らせたのは男?」


首肯。


「そいつは日本人?」


無反応。


「そいつは僕と顔見知り?」


首を横に振る。


「ここに留まればそいつに会える?」


執拗に何度も頷く。もっと聞きたかったが、アナスタシアちゃんは息をするのも辛そうなので諦めた。彼女も被害者なのだ。これ以上鞭を打っても仕方ない。


「漫画、おもしろかった。もっと見ていいかな」


僕がそう言うと、少し警戒を緩めたのか近寄ってくれた。しっぽがこぎざみに揺れている。感情が把握しやすくて助かる。


二人で闇金ヤギシマ君を読んでいたら、アナスタシアちゃんが目を上げた。


「そろそろ時間じゃ」


誕生日会は予定通り行われるようだ。気を張りすぎて疲れてきた。本音を言うと帰りたいが、ここで帰ると負けな気がする。


アナスタシアちゃんが僕の耳に唇を寄せてきた。


「一つ忠告してやる。治外法権なのは大使館だけではないぞ」


国選に気をつけろという意味かと思った。元々信用していないから生返事をしてしまう。彼女は必死に教えようとしてくれたのだ。この世界がどれほど恐ろしいものなのかを。


「てんもうかいかいそにしてもらさず。おてんとうさまがみている」


呪文を唱えると、アナスタシアちゃんの指先に光が灯る。燐光のようなそれを見つめていると、風景が輪郭を失っていった。


気づくと僕は赤い絨毯の上に座り込んでいた。見覚えのない建物内にワープしている。前後に窓のない通路が続いており、何者かの足音が反響していた。

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