第37話 僕はようやく身請け人と会う


現れたのは三十代前後の男だった。タキシードに黒い皮の手袋をしている。黒い髪は天パみたいなもじゃもじゃ。緊張しているのか固い表情をして歩いている。


男の革靴が僕の手前で止まった。


「白……、か」


男に下着の色を指摘されたとすぐに気づいた。僕は足を開きっぱなしで座っていたのだ。淑女らしくゆっくり足を閉じる。男は未だ僕を見下ろしていた。心なしか鼻の下が伸びている。


「失礼……、立ちくらみがして休んでいましたの。手を貸してくださいますか」


立ち上がる際、男の腕を折ってやろうと力を込めたが微動だにしなかった。それどころか男は薄ら笑いを浮かべ、気取った口上を述べた。


「東京の暑さは聖女さまには堪えたようですな。まあそのうち慣れますよ」


唖然とする僕を後目に男はさっさと歩いていった。


僕は手を差し出した姿勢のまま、男の陰毛のような頭髪をどうやってむしろうか考えていた。


パーティーは五時過ぎに始まった。公式のお堅い雰囲気とはほど遠く、招待客は大使のプライベートの知り合いが多いようだ。


僕は同じテーブルに就いたロシア人ビジネスマンと談笑した。彼は大使の大学の同期らしい。同じ教授の元で経営学を学び、アイスホッケーに心血を注いだという。僕は筋肉フェチなので、鍛えた筋肉を触らせてもらった。ナイスバルク!


アナスタシアちゃんの辿々しいピアノ演奏が、来賓の集まったホールを包み込む。きらきら星。初心者向けの練習曲のはずだが、もつれた指の動きのせいでなかなか終わらない。あくびが出そうになった。


「ううっ……!」


僕の隣で天パが呻いた。さっき僕のパンツを覗いた奴だ。こいつも招待客らしい。さっきからキャビアばっかりつまんでいる卑しい奴だ。


「アナスタシア、立派になって……、前は猫ふんじゃったしか弾けなかったのに」


大した進歩でもないようだが、天パにとっては目頭を押さえるほどの大事らしい。


今のアナスタシアちゃんは狐の装束をまとっていない。ブロンドの髪を背中に垂らした白いドレスのあどけない少女だ。内気なのか、入ってくる時はうつむきがちで自信がなさそうだったが、いざとなると果敢にピアノに向き合っている。 


鍵盤から指が離れると、柔らかな頬を紅潮させ笑顔でおじぎ。顔を上げた際に目があった気がしたが、僕は素知らぬ顔で大衆に混じり拍手を送った。


「はあ……、俺一生分の涙を流したよ。いいもの聞いた」


白々しい天パの元を離れて別のテーブルに移る。大使の奥さんが作ったらしいロシアの家庭料理が並んでいた。僕が動くと謝のじじいが影のようについてくる。僕は中国の自動車メーカーの曾孫という肩書きを与えられていた。アナスタシアちゃんは僕を国選だと知っていたのに、父親に知らせていない。汚れた豚を大使館の敷地に入れたことを知られたくなかったのか、身請け人の指示か。後者だと思うが、いずれにしろもう少しではっきりする。


この会場にいる二十人あまりの人間の中に、僕を買おうとしているクソ野郎がいるのだ。


これ以上は好きにさせない。僕は警戒心を持ってテーブルを回り、積極的に会話に加わる。ロシア語がわからない時はじじいに通訳してもらった。こういう場でも恥をかかないように学校で教育を受けている。淑女に見えているか不安だったけど、なんとか乗り切れそうだ。


会が始まってから二十分程すると、岩永さんが合流した。少し離れた所から見守っていてくれているが心強い。


大方のテーブルを回ったが、それらしい人間は見つからない。それなりの社会的地位にある人間が多いが、僕への下心や格別強い好奇心は感じなかった。


焦りを感じ始めた頃、アナスタシアちゃんと目があった。彼女はおかあさんの後ろに隠れるように立っていたが、身を乗り出して親指を立てている。何の合図かいぶかっていると、急に背中が冷たくなった。場が凍り付いたように静まり返る。


僕に視線が集中している。振り返ってみると、グラスを持った天パが立っていた。


「いやあ、わざとじゃないんだよ……、手が滑ってさ」


口では謝りながら目が笑っている。確信犯だろう。


ドレスが水分を含んで重くなっている。こいつにぶっかけられたと思うと、頭に血が上った。反射的に僕は中身の入ったグラスを握って天パの顔に向けていた。


「あなたは最低です。こんな不意打ちみたいな真似して恥ずかしくないんですか?」


僕の非難は正当なものだと印象づけるために胸を張る。


ところが誰も僕のアピールを見ていなかった。アナスタシアちゃんがちょこまか走ってきて、僕の手を握って引っ張ったのだ。彼女は姫をさらう王子のごとく、僕をホールから連れ去る。


「Bystreye(急いで)!」


走りながらアナスタシアちゃんはロシア語で僕をけしかけた。風のような速度に食らいつくのがやっとだ。ヒールなんだぞこっちは。


扉をいくつも通りぬけ、僕らは大使館の中を駆け回る。豚じゃなくてネズミになった気分だよ。


着替えを用意してくれているのかと思いきや、最後に開いたドアの先にあったのはバルコニーと、星くず舞う夜空だった。


「ここはアマテラスの光が届かない岩戸の中だ。入ってこいよ」


僕は呼ばれるままバルコニーに立った。背後で扉が音もなく閉まった。


「やっぱりあんたの差し金か」


僕はバルコニーから真下の芝生を見下ろした。芝生にいたのは天パ。こいつがここにいるってことは、最悪の結末を受け入れなくてはならないらしい。


「俺は嶽魅火鎚たけみかづち論美男ろみお。お前さんを救いに来た!」


勝ち名乗りのように堂々と名乗った天パは、爛々とした目で僕を見上げている。こいつが僕を呼び出した身請け人候補らしい。


散々振り回された僕の気持ちは冷えきっていた。手すりに近づいて、棘のある言葉を投げかける。


「ねえ、あんたいくら持ってる」


天パは太い眉を持ち上げた。


「僕を身請けしたいならそれなりの金額を用意してるんだよね?」


僕は貧乏人とブサイクが嫌いだ。こいつはどっちも当てはまる気がする。答えを聞く前にきびすを返すつもりだった。


「あるぞ」


こともなげに言うのが聞こえる。僕は足を止めた。


「お前さんが一生食うに困らない金なら用意できる。お友達も含めてな」


僕は我を忘れて身を乗り出し、男の顔色を伺った。子供みたいに笑う男の姿があった。からかってるのか。


「……、上がってきなよ」


僕が許可すると男は木の陰から梯子を持ち出して、バルコニーまで上がってきた。


改めて向き合うと背が高い。飄々とした雰囲気のせいか威圧される感じはしなかった。


僕はわざと男の胸に倒れ込み、おもむろに腕を掴んだ。そのまま自分の胸に近づける。


「お金持ってるんでしょ? だからサービス。身請けしてくれたらもっとしてあげる」


男の手袋に包まれた五指は、僕の胸の上で泳いでいる。どんな不埒な表情をしているか確認すると、男は仏頂面を貫いていた。


「お前さん、誰にでもこんなことしてるのか」


「……、うん。気に入った相手ならね」


男は頭をかいた後、いきなり僕の頬を張った。


「二度とするな。次やったら怒るからな」


殴ってから真顔で説教してきた。普通順序が逆だ。僕は屈辱に震えながら吠えた。


「あんた……、誰に向かってこんなことしてるのかわかってんのか」


「さてね。大人をなめてる子供をしかるのは当たり前のことだろう?」


頭ごなしに叱られたのはいつ以来だろう。学校では、人間は己の欲望に忠実な奴隷だとしか教えられてこなかったし、それを利用することに躊躇しなかった。なんなんだ、こいつ。国選の豚にかかれば思い通りにならない男はいないはずなのに。


「子供扱いしてんじゃねえよ」


だからといって僕にも第七世代のプライドがある。男の手を再度掴んだ。もう容赦しない。僕の力でこいつの秘密を洗いざらい手に入れてやる。


ところが、僕の脳には何の情報も流れてこなかった。


「彩矢から聞いてるよ。人の過去が視えるんだってな。ここではお前さんの力は使えない。アマテラスの光が届かない岩戸の中だ。ロシア大使館のファイアーウォールは世界一ってな」


男がウインクした先に、子ぎつね姿のアナスタシアちゃんがいた。彼女はこの男の協力者なのを忘れていた。この空間も、先ほどの倉庫と似た閉鎖空間のようだ。


「わけわかんない……、あんた何者なんだよ」


「肩書きはITジャーナリストって所かな。国から目をつけられてるからどこ行っても、記事は書かせてもらえんがね」


「ジャーナリストが僕に何の用だ」


「だから救いに来たって言ったろ」


殴ったのが嘘のような手つきで僕の頬を撫でる。


「回りくどい真似して悪かった。気取られるわけにはいかなかったんでな」


「気取られるって誰に?」


男は満点の星空を指さした。


「おてんとうさまが見てる」


アナスタシアちゃんも確か同じことを言っていた。何かの符丁だろうか。段々気味が悪くなってきた。


真意を訊ねようとした所、警報音のようなサイレンが鳴り響いた。アナスタシアちゃんがつむじ風のように僕らの間に割り込んでくる。


「警邏システムにログを辿られとるぞ。このままではに探知される」


「わかってる。頃合いだろう。それでは聖女さま、俺と一緒に参りますか」


僕は差し伸べられた手を払いのけた。


「あんたは信用ならない。身請けの話はなかったことにしてくれ」


推論すれば三浦とこいつはグルになって、正規のルートではない方法で僕を売り飛ばそうとしている。とりあえず学校に戻るのが先決だ。


「国選はやめておけ」


僕の思考を読んだように男は鋭く牽制した。


「今戻ったら間違いなく殺される。俺と出会った時点でお前さんの運命は決まっていたのさ」


「殺される? そんなはずない。僕は国の宝。第七世代の豚だぞ。そんなことあるわけ」


男が腕を振りあげた。また打たれる。衝撃に備えて目をつむったが、男はそっと僕の頭に手を載せただけだった。


「お前さんは豚じゃない」


やめろ。同情も憐れみも僕には相応しくない。何でこいつにこんなこと言われなきゃならないんだ。一番言って欲しかった奴はもういないのに。


「お前さんは、ただの性格のねじ曲がった子供だよ。自分を虐めるのは金輪際なしだ」


大使館内に戻ると、騒ぎが大きくなっているのが手に取るようにわかった。怒鳴り声や、靴音がそこかしこから聞こえてくる。


アナスタシアちゃんが姿を消したのが主な要因だろう。当の本人は天パの後ろにしっかり隠れている。僕は嫌われてしまったのか目も合わせてくれない。


「気にするな。こいつは人見知りで誰に対してもこうなんだ。アナスタシア、今度漫画買ってきてやるからな」


天パが頭を撫でると、アナスタシアちゃんはくすぐったそうに笑った。漫画と引き替えに、さっきの隠し部屋を提供する契約のようだ。


僕はしゃがみこみ、彼女の顔をのぞきこんだ。青い目の少女は先ほどまでのような雄弁さを発揮しない。翻訳ソフトがなければ日本語もわからないようだ。それでも僕は語りかける。


「ここに来てよかった。またね」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る