第13話 僕はずっと亡者だった


一人で屋内プールに行っても、練習に身が入らなかった。プールサイドばかりに目がいってしまう。


弥生は僕よりだいぶ遅れて到着した。幼さの残る肢体をスクール水着で包み、ピンクのゴーグルで目を覆っていた。臆することなく飛び込み台に立つと、指先から水面に潜り込んだ。


僕はプール内の隣のレーンにいて、弥生の型どおりのクロールを見送っていた。大会に出たら勝負にならないだろうけど、学校の授業なら及第点の泳ぎが繰り広げられている。


学校で水泳が奨励されるのはあくまで豚の肉質を良くするためだ。やりすぎると肉が硬くなるから泳がないという奴もいる。本気で打ち込む奴は稀だ。


速さを追求するのは無意味だが、水中を漂うのは健康に良いらしい。さすがに水中にカメラはないから、誰かの視線を気にする必要がない。水の抵抗が僕の鋳型を形作る。僕は普段より少し大きな存在となって弥生を包み込んだ。


「ぎにゃっ!」


僕は隣のレーンまで潜水し、弥生の腰に抱きついた。弥生はか弱い悲鳴を上げ、溺れた時のように水面を叩いた。


監視員の警笛が空気を立ち割る。僕は厳重注意を受けた。


「おいたが過ぎるわ」


プールサイドのベンチに並んで座り、僕らは話す機会を得た。弥生はむくれた表情で水面に目を向けている。


「弥生、五十メートル泳げるか」


「なんやの、藪から棒に」


「いいから。どうなんだよ」


「余裕よ、余裕」


一年ほど前、弥生と初めて会ったのがこの第一プールだった。


弥生は泳ぎが苦手だったのか、インストラクターに教えを受けながら地道な努力を続けていた。


本人としてはもっとやれると思ったのか、ビート板を使わずに自力で泳ぐと主張しているのが耳に入った。


インストラクターの制止を無視し、弥生はしゃにむに手足で水面をかき回していたが、自己評価の高さとは裏腹にすぐに沈んだ。


僕はたまたま近くにいたので、すくい上げてプールサイドに引き上げた。とても軽くて、金魚を扱ってるみたいだった。


青ざめた弥生の唇の動きが、昨日のことのように思い出される。


「余計なことせんといて」


弥生は死ぬつもりだったのだ。彼女はこの学校に自分の意志で来たわけではなかった。貧しい家庭が謝礼目当てに子供を入学させる例は後を絶たない。詳しくは聞いていないが、弥生もそうだったようだ。


逃亡を邪魔した僕を、弥生は恨んだに違いないと思うのだ。第七世代同士ゆえに毎日露骨な敵意を浴びねばならかった。その癖、弥生は表面上は愛想良く振る舞うから性質が悪い。


僕はずっと弥生が怖かった。弥生は男に貢がせるだけ貢がせて破滅させるのが大得意で、戦利品のお下がりをよく僕にくれた。贈り主の色々な感情が流れてきて吐いた。弥生はそれを見て笑い転げた。


相部屋になった時には毒を盛られるのを心配したくらいだ。嫌われないように気を遣って、弥生に好かれるように努力した。といっても、こびへつらうだけでは足りなかった。弥生が求めていたのは従順な奴隷ではなく、主にもの申す執事だった。弥生は理不尽な人生の指針を求めていたのである。


僕に利用価値を見いだした弥生は次第に依存してくれるようになった。来世で結ばれるために、二人で妙な宗教家にお布施をしたこともある。


いつしか僕の恐怖は不安へと変わっていた。弥生を失うことに対する不安。互いに依存する愚かな豚に成り下がってしまった。


「五十メートル勝負しようぜ。僕が勝ったら……、しろよ」


弥生は、僕の肩に頭をもたせかけた。こういう時の弥生は特別に意地悪になる。せっかく譲歩したのに聞こえない振りをしたのだ。


「なんて? もっぺん言うて」


僕はせき込んでもう一度畳みかけようと試みる。顔が唐辛子を噛んだようにかっかして弥生の顔が見れない。


「だから……、考え直してくれ」


弥生は僕の指に指をからめてきた。本来ならこの手を振り払わないといけないのだろうけど、僕は流されるまま握り返していた。


僕は弥生に先輩らしいことは何一つしていない。ずっと水の中で弥生の足を引っ張る亡者だった。


合意が形成され、弥生と勝負するためプールサイドを歩いていると、呼び出しの放送が入った。


「不破瑞樹さん、至急職員棟にお越し下さい。繰り返します……」


弥生はじれったそうにゴーグルを額に押し上げた。


「せっかく瑞樹はんが愛の告白してくれはったのに野暮やなあ」


「どうせ彩矢ちゃんだろ。すぐ済ませるから待ってて」


いつもなら快く送り出してくれる弥生が、ため息をついてプールサイドに腰掛けた。今にも水に吸い込まれそうな心細い肢体に不安が残る。


「はよいかんと大目玉」


「あ、ああ……」


弥生を一人、置いていかざるを得なかった。僕は彼女の手を離したことをずっと後悔することになる。

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