第26話 僕は冬の雨が嫌いだ

冬の雨は嫌いだ。理由はないけど、気が滅入る。


僕は更衣室で着替え、帰る支度をしていた。晩ご飯を何にしようかと考えていると、予告なしに店長が入ってくきた。ファー付きのブルゾンを羽織った後だったので、肌をあまり見られずに済んだ。


「奈美ちゃん、はいこれ」


小太りの店長は遠慮なく近づいてくると、僕にビニール袋を渡してきた。袋の中には売れ残った弁当が入っている。


僕はお弁当屋で働く奈美ちゃん(14)になっていた。中学校に行かずにブラブラするのも世間体的にアレだったので、近所で働き口を探した。どの職種も資格は高卒以上だったし、僕は義務教育を終えていない年齢だったのでサバを読んで潜りこめる職種は限られてくる。最後にたどり着いたのが、この個人経営のお弁当屋さんだったのである。


「雨降ってきたからね、傘持ってっていいよ。お疲れさま」


店長の毛むくじゃらの手が僕の背中を撫でた。鯱の持っていた図鑑にゾウリムシが載っていたのを思い出す。ゾウリムシにはブラシみたいな細かい足がついている。店長の手はそれに似ていると思った。


セクハラさえなければ、単に息の臭いおっさんなのだが、セクハラも加わってはいよいよ救いがなくなってしまう。つまり最低の最低というわけだ。


更衣室といっても、店に隣接する店長の家の居間で着替えているため、のぞき放題だった。しかも僕が着替えるタイミングで入ってくるので油断ならない。


「小降りみたいだし、大丈夫です。お弁当ありがとうございました」


店長の気味の悪い好意を払いのけ、店を飛び出した。


この頃の僕は、できるだけ社会に対する負い目を減らしたかった。多少分別がついて自分がこれまでしてきたことの罪科がわかってきたのだ。


だいぶ前から車上荒らしの見張りもしていないし、万引きも、美人局もやらなくなった。


セクハラ店長のいる店をやめないのも、罪滅ぼしの一環だった。


店の前を制服を着た同世代の子が通りがかることがある。彼らを見るたび、憧れに似た気持ちを抱いてしまう。僕にはそんな資格もないのに。


店の軒先で雨だれを眺めていると、声をかけられた。通行人に地図を見せられ、目的地への道程を訊ねられた僕は固まってしまった。


漢字がろくに読めない。地図の見方は感覚でわかるから、冷静になればわかるはずだと集中する。上手く伝えようとすればするほど焦り、地図をずっとにらんでいると目の奥が痛くなる。


僕は弁解も忘れ、その場から走って逃げ出した。


冬の雨は嫌いだ。一人だった頃を思い出すからだろうか。



団地のエレベーターは相変わらず動かない。張り紙はだいぶ前から取り払われていた。エレベーターの故障は公然と認知され、修理の可能性は絶望的となった。


「ただいまー」


靴は以前より少なくなり、玄関は幾分すっきりした。それもそのはず、大量の靴を所持していた鯱がいなくなったからだ。


二年前のリュウと鯱は喧嘩が絶えなかった。喧嘩らしい喧嘩は以前からあったが、僕の教育方針となると二人は余計に意固地になった。小学校に行く行かないでもめ、鯱がランドセルを用意すると、リュウは大暴れして窓ガラスを割ることもあった。


鯱の嘴は生活態度にも及んだ。盗みなどの違法行為から手を引き、全うに生きるべきだと再三説得したが、リュウは聞く耳を持たなかった。


結果、決裂。他にも言いしれぬ理由はあったのかもしれないが、鯱は荷物を纏めてあっさりと団地を去った。


鯱は一緒に暮らさないかと僕を誘ったが、リュウを残しては行けないと断った。


施設で育った三人は、こうしていともたやすくバラバラになった。まるで離婚した夫婦みたいだ。僕は二人に挟まれた子供で、どっちに味方するか迷っている。


リュウを選んだ時は迷っていなかった。鯱のことも好きだったが、リュウと生活したいという気持ちはとても強くてどんな困難にも負けない自信があった。


でも、リュウと二年あまり暮らしてみると、その気持ちは揺らいできた。


部屋の壁の至る所に穴が開いており、そこを画用紙で塞いでいた。床には弁当の空き箱が散乱して異臭を放っている。


リュウは電気もつけずソファに寝転がり、目を閉じていた。


その姿を見た僕はかちんと来たが、黙って弁当を床に放り投げ、服を脱いだ。僕もリュウのことをあまり悪く言えない。片づけられないのは僕も同じだった。そこらに服を脱ぎ散らかし、下着姿で冷蔵庫を開けた。冷気に身を震わせていると、後ろから声がした。


「なんて格好してやがる」


リュウは非難するような低い声を発した。


「別にいいでしょ。見慣れてるんだし」


だいぶ前から僕らは一緒に風呂に入らなくなったし、寝る部屋も別々になった。僕の体は忌まわしい膨らみで満たされ始めたのだ。リュウに甘えても煙たがられるようになって、軋轢は増えた。


どうしていいのか、僕もリュウにもわからなかった。見えない仕切りができたように遠慮がちに生活を送るしかなかったのだ。


「コーヒー飲む?」


「ああ」


リュウはめんどくさそうに返事をすると、寝ころんだままテレビを付けた。こじんまりとした明かりがリュウの周りにだけ差した。


「新しい仕事どう?」


鯱がいなくなってからというもの、張り合いがなくなったのかリュウの無茶は目に見えて減った。


この時期はクラブの用心棒をしたり、街金の取り立ての仕事をしていたようだ。それに僕のバイト代を合わせてその日暮らすのがやっとだった。


「どうもこうも普通だよ」


リュウは投げやりな態度で言って、テレビの音量を上げた。


またクビになったと推察した。日雇いみたいな仕事がほとんどだったし、安定収入とはほど遠い。明日の暮らしに陰りが見えると、気分まで落ち込む。


偶然、国選花嫁のCMが流れているのが耳に入った。しょっちゅうやっているので見なくてもわかる。


「あーあ、結婚したい」


冗談ですらなく、自然に口をついて出た言葉だったが、リュウは聞き逃さなかった。突然跳ね起きると僕の間近に立った。


「今何つった」


リュウの三白眼は迫力がある。ずっと一緒にいるが、見下ろされると萎縮しそうになった。


「素敵な結婚に憧れて悪いのかよ」


苦し紛れに開き直ると、リュウは汚いものを見るような目で僕を見た。


「誰彼構わず股を開くのは豚のやることだ」 


「はあ!?」


根拠のない侮辱に涙が出かかる。リュウに詰め寄ろうとしたが、既に部屋に籠もった後だった。


無情なタイミングで国選花嫁のCMが流れる。


白い歯を見せる自衛官の太い腕の中に、花嫁が抱かれている。二人は幸せそうだった。わかってる。余りに遠い世界は手を伸ばそうとする気力も失せる。本気で言ったわけじゃない。


僕はテレビを消し、雑然とした部屋に立ち尽くした。かなり長い時間ずっとそうしていた。

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