第28話 僕の願いは叶えられた
僕の願いはリュウと遠出をすることだった。ここ数年はそれすら難しく、叶えられるとは思わなかった。
「今度の日曜でいいか」
「いいの!?」
僕は飛び起きてリュウの顔をのぞき込む。
「……、うるせえ。もう寝ろ」
話は打ち切られたが、僕の目は冴えたままだった。今すぐにでも出かけられるよう旅のプランを練り始めた。
僕がうんうんうなっていると、リュウが寝返りを打ち、顔を付き合わせる形になった。
「何かまだ困ってることないか。仕事のこととか」
「別にないよ。店長が時々触ってくるだけだから」
僕は軽い調子で応えた。最近では店長の扱い方もわかってきてセクハラを回避する方法も覚えた。特に問題はないと伝えたつもりなのに、リュウは大事と捉えたみたいだった。僕の肩を強く掴む。
「触るってなんだよ。お前もそれを許してんのか」
「許してるわけないだろ。嫌だけど仕方ないんだよ。他に働ける場所もないし」
それで話は終わらなかった。リュウは僕が具体的にどのような身体的苦痛を味わったか訊きだし、髪をかきむしらんばかりに怒り狂った。しまいに僕は怖くなってきて全部冗談だと言ったら頬を打たれた。
「ねえ……? リュウ、マジでなんともないから落ち着いてよ」
僕の声が耳に入らなかったみたいに、リュウは壁を殴り、それでも高ぶりを押さえきれずに頭から水を被った。水道の音が止まると、リュウは戻ってきて、僕の隣に腰を下ろした。
「明日、俺が話つけてきてやる」
リュウから立ち上る怒気に当てられ、僕は自分が取り返しのつかないことをしてしまったと悟った。明日はなんとしてもリュウを止めなければ、死人が出ると確信した。
案の定、早朝リュウは包丁を持って出かけようとした。羽交い締めにして止めようとしたが、力及ばず出ていってしまう。
窓からバイクが遠ざかるのが見下ろせた。時計に目をやる。バイトまで三十分といったところだ。こうなったら腹を括るしかない。いつも通り支度をして、団地を出た。
特別急ぎはしなかった。いつも通る道を同じ歩幅で移動したものだから、バイト先についたのも定刻と変わらなかった。
いつもと違う場所に店のトラックが止まっている。店と隣のビルの間からうめき声がしたから行ってみると、店長が倒れていた。
「うう……、奈美ちゃん……」
暗がりだったが、店長の足下に結構な血だまりができているのが見えた。
「あれー、店長、どうしたんですか」
僕は驚いた振りをしながら、靴に血がつかないように注意深く近づいた。
「変な男にやられて……、警察、いや救急車呼んで、死ぬ……」
店長はすっかり肝を潰し、僕に縋ろうとしてきた。手を握ると、汗と血でぬるぬるしていた。気持ち悪い。
血は額から滴っているが、それほど深い傷ではなかった。このくらいで死ぬわけがないと笑いそうになった。
「包帯巻いとけば平気ですよ。それより店長、今日で辞めさせてください」
「え?」
その時の店長の梯子を外されたような顔は何とも哀れだった。
「それじゃ」
僕は店長から手を離し、駅の方に引き返した。
リュウは駅近くのガードレールに腰を下ろしていた。雪みたいに白い肌だから雑踏にいてもとても目立つ。僕が行くと貧乏揺すりをしていた足がぴたりと止まった。
「ねえ、あのお願い、今じゃ駄目?」
リュウは顔を上げなかった。真冬なのに顎から汗が滴り、アスファルトに染みを作っていた。
「……、それどこじゃねえ」
「いいじゃん。行こうよ」
僕は血にまみれたリュウの手を握った。清らかな手。僕を守ってくれる英雄の手だ。誰にもやるもんか。
「海に行きたい。お願い」
リュウは顎をしゃくって、僕にバイクに乗るよう促した。精神的に不安定なリュウに運転を任せたら事故を起こす可能性は十分あった。その時はその時で一緒に死ねばいいと思った。
霙混じりの寒空の下、僕らは湘南方面に走り出した。不謹慎かもしれないが、胸がすく思いだった。
嫌ったらしい店長に一泡吹かせた爽快感と、リュウに大事にされているという安堵感で満たされている。リュウが絶望すればするほどあの行為の価値は高まり、僕の自尊心を満たしてくれた。
ところが、いざ海にたどり着くと、叩きつけるような波しぶきの音と、底知れぬ海の暗さに僕は恐れをなした。口から出たのは悲観的な言葉だった。
「ねえ、リュウ、死んじゃおうか」
浜辺に漂着した丸木船に僕らは腰掛けている。船の横腹には英語で何か書いてあって読めなかったが、「お前がやった!」と言われている気がした。
風になぶられるたびに僕らは肩を寄せあってやり過ごした。リュウも僕も震えが止まらなかった。
鯱が去った時、残された二人で決めていたことがあった。リュウか僕、どちらかが罪を犯したら、もう片方が付き添って警察に出頭する。
僕はその誓いを破って逃げた。リュウは悪くない。僕がやらせた。僕が全部悪いのだ。
「死んで……、どうなる」
「わかんない」
深い考えがあって口にしたわけではない。今更警察に行って、リュウと離れるのは嫌だった。思いの外、店長が重傷で、死んじゃったらどうしよう。自分勝手な考えだけが頭をよぎる。
「リュウ、ごめんよ。巻き込んじゃって」
リュウのかじかんだ手をさする。固まった血が爪の間にこびりついている。離れたくない。一人になるのは絶対に嫌だ。
物心ついた時から僕らに親はなく、自分たちの力で生きていくしかなかった。互いの存在を支えにしなければとっくにのたれ死んでいただろう。
でもリュウの気持ちは僕と全く同じではなかったのだ。それを最悪の形で思い知らされることになる。
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