第40話 罪と罰 Ⅱ

 ショウエルは、玉座の間の床に穿たれた穴へと近づいていく。

 そこには黒いものがみっしりと詰まり、ゆらゆらと瘴気を噴き上げていた。


「クエンティン家とヴィーゲル家の戦争のあと、玉座の間はここに作られたの。『王の血』がいつもこれを抑えつけておけるように。でも、カームラ陛下には血の加護がないから……これは簡単にお母様の物になった」


 でしょう?お母様、とショウエルが背後のフレンジーヌに尋ねる。


「そうよ。そして私は最後のクエンティン家の直系。かつての臣下であるヴィーゲル家の王に裁かれるくらいなら、私は自分の誇りに殉じましょう。

 その前にショウエル、一つだけ母親らしいことをさせて頂戴」


「お母様?!」


「カームラを殺せばハイレッジ家の反乱はあなたたちしか知らないことになるわ。ショウエル、お願いだから私のような生き方は選ばないで。あなたは幸せになって。私が気づくことができなかったハイレッジ様の願いをかなえて……。

 そのための、これが私の最後の『力』よ」


 フレンジーヌの言葉とともにヒュッと細い黒い糸が宙を舞う。それは気を失ったままのカームラの首を狙っていた。


「ショウエル様、文様を!」

「間に合わない!」


 ショウエルの悲痛な叫び。また一人、自分のために母が誰かの血を流させるのか

と____。

 

 思わずショウエルは目を瞑る。戦場ではしてはいけない行為だが、彼女の中の少女の部分がそうさせたのだ。


「させませんわ!」


 けれど、予想していた王の最期の呻きの代わりに、鈴のように良く通る声が響き、驚いたショウエルは目を開ける。

 フレンジーヌもエルリックもまた、その声の主を驚愕の目で見ていた。


「ユーエ様?どうしてここに?」


「陛下の気まぐれで婚姻の約束を結んでいただけた者にはわからないでしょう。王宮には何かあった時に王族が逃げるための隠し通路が無数にあるの。わたくしはそのひとつをたどっただけ。戦争が始まっているのならせめて陛下のおそばにと……」


 そのあとはもう言葉にならなかった。

 ユーエはカームラを庇うように、彼の座る玉座の前に立ち大きく両腕を広げていた。

 カームラを縊り殺すための黒い糸は彼女の前腕に強く巻きつき、その腕は今にもちぎれ落ちそうだった。

 ユーエは歯を食いしばり、苦しそうに激しく呼吸していたが、それでも十字型にピンと伸びた腕は降ろされることはなかった。


「なんてこと!痛いでしょう。すぐに取って差し上げます!」


「陛下を、守る、ためならば、痛み、なんて。それより、陛下、の、役に、立て、た方が、嬉しい、わ。だって___」


 ユーエの口から途切れ途切れに出る声は痛みに震えていた。だが、その声に悲しみの色はなかった。


「愛してるん、ですもの」


 そう唱えるユーエの唇には、笑みさえ浮かんでいた。国家や自身の野望のために武器をとったものとは全く違う顔をしていた。

 痛みをこらえながら、さらにユーエは言葉を紡ぐ。


「陛下を、殺す、くらいなら、わたくしを、殺しなさい!」


 舞踏会の日の、雨にうたれればしおれるような弱い美しさのユーエはもうそこにはなかった。

 カームラへの深い愛情を表すように、深手を負いながら凛と立っていた。


「そんな必要はありませんわ。わたしは陛下に仇なそうとは考えておりません。エルリックに命じた言葉をお聞きになっていたでしょう?」


 ショウエルがユーエに向かって手を伸ばし文様を光らせると、黒い糸は霧のように消えていく。


「……ええ。そのようね」


 ユーエの表情が和らいだ。荒かった呼吸も少しずつ整っていく。


「憎んだ相手に助けられるなんて、皮肉なものですわね」


「生きていくというのはそういうことかもしれませんわ」

 ショウエルが微笑んだ。

「それに、わたしはもう、陛下の妃になることは望んでおりません。ユーエ様はご自分の意思でこんなにも陛下を愛されたのでしょう?誰かに踊らされていたわたしとは違いますもの。偽物の愛など……どちらも不幸になるに決まっています」


 ショウエルの手がユーエの腕を優しく下に降ろす。ユーエも、ショウエルたちに敵意がないことがわかったのだろう。素直にそれに応じていた。


「ユーエ様、護衛兵は?」

「おりません。城下で戦争が始まったと聞いて、わたくしは秘かに屋敷を抜け出してきましたのよ。どうせ皆、わたくしが陛下の元に参じたいと言っても反対するに決まっていますもの」

 

 少しばかり誇らしげに胸を張るユーエにも、ショウエルは女性貴族式の最敬礼をしてみせた。


「勇敢なユーエ様に祝福を。

 ユーエ様、陛下とお幸せに。きっと陛下もあなたの気持ちをお分かりになる日が来るはず」


「なんてこと……!最後くらい、母らしくあなたの役に立ちたかったのに……やはり運命は善き者に味方するのかしらね……」


 フレンジーヌの悲痛な声を聞いて、ショウエルは微笑みを浮かべたまま母の方を振り向いた。


「運命などありませんわ、お母様。ここまで来て、わたしはそう思いますの。わたしはお母様がわたしを本当の娘だとわかってくださっただけで……もう、十分です」

 そして、ショウエルは黒い『力』の詰まった穴へと跪く。

「ショウエル様?!」

 エルリックが引き戻そうとしたときはもう遅かった。


 ショウエルは文様どころか全身を発光させ、穴へと覆いかぶさろうとしていた。


「いいのよ、エルリック。こんなものはあってはいけないわ。『王の血』で眠らせるなど迂遠なことをするより、消してしまった方がいいの……」

 

 バチバチと激しい音がショウエルと穴の間に起こる。

 そのたびに、ショウエルの体は苦しげに跳ねた。


「やめなさい!」

 

 フレンジーヌが叫ぶ。


「確かに文様の贄を捧げればそれは消えるわ!でもそんな必要はなくてよ!本物の王がここに戻ればいいだけのことでしょう!」


「もう、誰にも、重荷を背負わせたくありませんのよ、お母様……。わたしはもうひとりのショウエルを利用した罪深い娘……これでそれが許されるなら……おかあさま……」

 

 少しでも母に近づくように持ち上げられていたショウエルの手がくたりと倒れた。

 音は一層激しくなり、ショウエルの体から生まれる青い光と穴の黒いものが戦うように絡み合う。


「エルリック、あの廃嫡子をすぐに呼んでらっしゃい!」


 フレンジーヌの声は半ば絶叫だった。目の前で本当に愛すべきだった娘が死んで行く。それはフレンジーヌにとってどんな痛みより耐えられない苦痛だったのだ。


「しかし、ショウエル様をこのまま……!」


「あの光に触れればブロォゾ一族のおまえなど消し飛ぶわ!あれをなんとかできるのは私だけよ!早く!この拘束を解かせなさい!」

 未だ、文様に拘束されたままのフレンジーヌがもどかしげに声を上げる。

「早くなさい!今ならまだ助けられるのよ!」


 マダ、タスケラレル___。


 その言葉を聞いて、エルリックは走り出した。玉座の間の扉に向かって。

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