第12話 毒蛇は静かに微笑む
「ハイレッジ公未亡人よ、ショウエルはどこだ?」
「まあ、カームラ陛下、お出ましとあらばおもてなしの用意をいたしましたのに」
ふんわりとフレンジーヌが笑う。
咲き始めのすみれのような、可憐な笑顔だった。
甘やかされた、貴族の女そのものの。
ナンセやイ・サに見せた毒蛇のまなざしが、まるで嘘のようだった。
フレンジーヌはは見事に、無能な貴族の未亡人を装っていた。
「もてなしなど飽いておる。それよりもショウエルを出せ。私が直々に貴様の城まで足を運んでやったのだぞ!」
「それが……陛下……」
フレンジーヌが、白いレースのハンカチを目元に当てた。
「ショウエルは旅に出てしまったのでございます。陛下に申し上げればどのようなお怒りを買うかわたくしには恐ろしく……ご報告いたしませんでしたこと、お許しくださいまし」
フレンジーヌの唇から洩れるのは、最後はか細い涙声になった。
フレンジーヌは役者になっても一流になれたろう。
いま、カームラ王と相対していたのは、イ・サが「毒蛇」と名付けた女ではなく、巨大な権力におびえるただのか弱い女だった。
「旅に?!」
「ええ……。陛下の正妃になれば自由な旅などできないと言い放ち……わたくしは止めたのでございます。
陛下はあなたの願いならば聞いてくださらないことはないと。なぜって陛下はこの国の王ですもの……けれど……」
「けれど、なんだ!」
「あの子の最後の言葉が耳を離れませんの……『どんなことでも思い通りにならないくらいなら死んだ方がましだわ』」
「ではショウエルは?!」
カームラが掴み掛らんばかりの勢いでフレンジーヌに問う。
それをあくまでしんねりと避けながら、フレンジーヌは弱々しい言葉を返す。
「陛下、このようなお見苦しいものをお見せすることをお許しくださいませ」
涙声のフレンジーヌがドレスの肩を下げた。
そこには血のにじんだ包帯が巻かれていた。
「あの子は自分ではなくわたくしを殺すことを選んだのです」
ドレスの位置をそっと直し、またハンカチを目元に当てながらフレンジーヌはうつむく。
そして、それだけでは抑えきれない涙が頬をつたった。
「母親とはいえ……わたくしにはもう……わたくしとハイレッジ公の間にどうしてあのような娘が生まれてしまったのか…。
陛下のご寵愛をお受けできたのが唯一の救いでございます……」
「そうか!そういうことか!ならば許そう!鬼姫!私と同じ生き物!
嘆くでない、ハイレッジ公未亡人。私も母殺しだ。だからそれでショウエルをなんと思うことはない。むしろ___」
カームラが目を細める。そこにあるのはまぎれもない歓喜だった。
「いとしさがさらに募った。おそらく私を真に理解できるのはショウエルだけであろうよ。
なるほど、そういうことならば突然の旅も許そう。母殺しをたくらんだ功績で勲功も与えねばな」
う、とフレンジーヌが涙をかみ殺す。
それがいま、フレンジーヌがすべき演技だったからだ。
「しばし待とう。どうせこの国にいる限り、姫の居場所などすぐわかる。
戻ればすぐに婚姻の式の準備だ!わが理想の花嫁のためにどのような余興をさせるか、今からでも胸躍るわ!
そうだな、罪人どもの首をいちどきに撥ね、姫の衣を赤く染めよう。撥ねるほどでもない罪人は花垣がわりに周りに吊るそう。姫の喜ぶ顔が見えるようだ!」
「ありがたき幸せ……陛下……」
涙で声を詰まらせながら、それでもフレンジーヌはなんとか言葉を返す。
それをみて、カームラ王は喜ばしげに笑った。
「礼などいらぬ!私の求めた理想の生き物を貴様は私に与えたのだからな!
姫がいないならこのような城に用はないわ。
帰るぞ」
カームラはつき従ってきた護衛兵たちに傲然と命じ、きびすを返した。
そして、数歩歩いて振り返る。
「ところでハイレッジ公未亡人、その肩の傷は痛かったのかね?」
わっとフレンジーヌが泣き伏した。
その姿を見て愉快そうに笑った後、今度こそカームラはフレンジーヌの城を出て行った。
※※※
「フレンジーヌ様」
「ああ、ナンセ。ショウエルの居場所は分かって?」
「申し訳ありません、まだ___。
それよりもその涙を……」
「ああ、こんなもの。いつでも好きなように出せるわ。馬鹿をだますには馬鹿を装うのは一番なのよ。
カームラの中では私は夫の財産を守るだけの無能な未亡人」
ククっとフレンジーヌが口の端を持ち上げる。
そこにいたのはもはやすみれではなく、深紅の薔薇だった。
そして、隙を見せれば牙を突き立てる、毒蛇の目。
「それでいいの。無能な人間は馬鹿にされるだけで警戒されないわ。
でも……おかげでそこに牙があるのも気づかれないのよ」
「肩のお傷は」
「少し深く切りすぎたわ」
「私に御命じになれば、うまく薄皮一枚でおすませいたしましたのに」
「駄目よ。カームラが包帯を解いたらどうなるの?傷跡が無残なほどやつはショウエルを恋慕うわ。
この世で出会えた、たった一人の同類だもの」
煙管を手に取り、立ち込める紫煙の中、ゆったりと微笑むフレンジーヌをナンセはじっと見ていた。
「おまえだって同類だと言いたいのではなくて?」
「そのような不敬なことは考えも致しません」
「いいのよ。おまえは私に正直にいても。
私はね、違うのよ。確かに私は手段のために目的を選ばない外道だわ。
でも、自分が外道なのはわかっているし、ハイレッジ様さえ生きておられれば、きっと平凡な貴族の妻を死ぬまで演じきって見せたわ。
ハイレッジ様が愛したのは、良き妻、良き母、そして家族で歌う優しい歌だったから……」
フレンジーヌの目に初めて感傷らしいものがよぎった。
「私の最後の幸福な日々……幸福など……知らねばよかったのに……」
ナンセが何かを言いかけて、やめた。
どれほど幼いころから尽くしても、自分ではフレンジーヌに幸福を与えられなかったのがわかっていたからだ。
「それだけはおじいさまをお恨みするわ。わたしをこう育ててからハイレッジ様に嫁がせたんだもの。
___ねえ、ナンセ、すこし、眠らせて頂戴」
「は。人払いをいたします」
「いいわよ。私とあなたが二人でいれば、みな恐れて入ってこないわ」
ショウエルとイ・サ以外は。と小さな声で付け加えて、フレンジーヌは寝椅子に身を横たえる。
「ナンセ……眠りにつくまで……手を握っていて頂戴……」
「フレンジーヌ様に触れることなど……!!」
「いいのよ」
身を起こしたフレンジーヌが嫣然と微笑んだ。
「わたしはずるい女よ。おまえの心を知っていて命じているの。
ほら、命令よ、ナンセ。私の手を握りなさい」
そしてまたフレンジーヌは寝椅子に横たわり、白い、細い、砂糖細工のような指をナンセに差し出す。
しばらくの逡巡のあと、ナンセは震える手でそっとその指をとった。
※※※
がばっとショウエルが起き上がる。
すべてが夢のようだった。
エルリックの裏切りも、突きつけられた無数の武器も、そして、あの髑髏のようなエルリックの顔も。
けれど___夢ではなかった。
ショウエルが寝かされていたのは、清潔ではあったが簡素な木のベッドであったし、眠っていた部屋も同じようによく整理された平民の部屋だった。
「お目覚めですか、ショウエル様」
「エルリック!」
反射的にショウエルは毛布を体に巻きつけ後ずさる。
それを見て、エルリックは今にも泣きだしそうな顔をした。
「御心配なく。私はショウエル様に一切危害を加えません。
むしろ、お守りするおつもりです」
「でも、でも____!」
「なにをそんなにお怯えですか?逃避行ですか?傭兵団ですか?それとも___私の姿ですか?」
悲しそうにそう問われ、ショウエルは言葉を失った。
確かにエルリックは恐ろしい顔を見せた。
けれどいまのエルリックはいつもと変わりなく、それに、ここまで自分を守ってくれたのもエルリックだった。
「怯えてなどいないわ……。
ただ、聞かせて。わたしには知らないことがたくさんあるのでしょう?
あなたのことも、あの男たちのことも、それから___わたしのことも」
最後の言葉を聞いてエルリックが目をそらす。
けれど、これだけは言わなければならないと決心したのだろう。
かつての従僕そのものの忠実な目でエルリックはショウエルを見つめた。
「あなた様は___」
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