第2話 毒蛇降臨
同じころ、ショウエルの母のフレンジーヌの私室。
そこでフレンジーヌは来訪者の男を迎えていた。
年齢はフレンジーヌと同じくらい、30代半ばから後半と言ったところか。
いかにも伊達男らしい洒落た着こなし、それが気障ではなく、また似合う美丈夫だった。
柔らかな紅茶色の髪に、同じ色の瞳。些細なことでも陽気によく笑う唇。
顔立ちだけで彼を判断するのならば、10人のうち9人は優れていると判定するだろう。
それを証明するように舞踏会での彼の周りにはいつも女性たちの影があった。
ただ、一見柔和に見えるその瞳の奥には、時折、剣呑な光が灯ることに周りの男たちは気づいていた。
なにしろ彼はできるだけ自分の名前が表に出ないようにしながら、自家の財産を増やすためにあらゆることを行い、気に入れば他人の妻でも傍に侍らせていたからだ。
そのうえ彼は伯爵と言う立派な爵位を持ちながらも、陰で異様な二つ名で呼ばれていた。
『父殺しのイ・サ』と。
「相変わらず化け物みたいにきれいだな、フレンジーヌ。いや、ハイレッジ公代理か?」
「イ・サ伯こそ息災のようで何よりよ」
意匠を凝らし、華麗な模様に織られた布に覆われた猫足のソファ。
そこに身を横たえたフレンジーヌは、鵞鳥の羽の扇で軽く自らを扇いだ後、目の前に立つイ・サにも風を送る。
「横に座ったら?」
「いいのか?」
「あなたと私の仲でしょう」
そう言って、フレンジーヌはニィと口角を上げた。
フレンジーヌは恐ろしいほど蠱惑的な女だった。
手のひらにすっぽりと収まってしまいそうな小さな顔の中には、完璧な部品が完璧な形で配置されている。
人形師が精魂込めて作りあげたような鼻筋、ぽってりした深紅の唇、そしてガラス玉のように透き通った大きな緑の瞳。
何より印象的だったのが東洋の絹のような黒い髪だった。
伸ばせばさぞ麗しいであろうそれを、残念なことにフレンジーヌは肩のあたりでばっさりと切り離していた。
「おお恐ろしい。おまえにそれを言われた男はだいたい次の瞬間殺される」
そう言いながらも、イ・サはフレンジーヌの横に腰かける。
イ・サ____正式にはイ・サ・アギネスティ・フォン・ハリティアス伯。
ショウエルやフレンジーヌの属するハイレッジ公家と同じくらいの家格を持つ大貴族の嫡男だ。
ただし、それはイ・サの父が金で買った爵位だった。
投資に失敗し没落寸前のハリティアス伯家に、汚い手で財を成した商人のデ・ラ・アギネスティが出資したのだ。
それはもちろん、自らの血にない貴さと、そしてもうひとつ、王国の歌姫と称されていたハリティアス家の長女、ユーエル伯姫を手に入れるため。
ユーエル伯姫は契約通りデ・ラとの間に男子___イ・サ___を生み、産褥の床で胸を刺し貫いて死んだという。最期の子守歌を歌いながら。
「あなたは殺さないわよ。私の本性のことをよく知って、それでも協力するほど私に恋する男だもの」
「ずいぶんな言い方だな」
「だって本当のことでしょう?」
イ・サの指がフレンジーヌの華奢な顎を持ち上げる。
フレンジーヌが華やかに笑った。
何をしても、目の前の男が自分には何もできないのを知り尽くしている顔だった。
「でもどれだけ協力しても無駄よ。私は亡くなられたハイレッジ様を今でも心から愛してるの。
あの方の言葉が私のすべて。あの方の思いが私の思い。だからあの方との子供のショウエルも心から愛しているのよ。あの子はあの方の分身。金色の髪も、青い瞳も……びっくりするほど優しいところもそっくりだもの」
「じゃあどうしてショウエルに辛いことをさせる。どうして優しいはずの子に悪女を演じさせる」
初めてイ・サの顔が歪んだ。
「あの子はいい子じゃねえか。こんな腐った貴族社会にはなかなかいねえ。なにもあんな残酷王カームラに嫁がせなくても、いくらでもいい縁談があるはずだ。おまえとハイレッジ公みたいな、な。
なんなら俺が仲介してやってもいい。領地も財産も腐るほど持ってる上に性根もいい次男坊を何人も知ってるぜ。もちろん、ハイレッジ家と釣り合うような血の奴を探してやる」
イ・サがハ、と笑う。
生まれたときに母を亡くし、その母の為に、母を金で買った父を15歳で殺し、後ろ盾のないまま、イ・サは巨大なアギネスティ商会と、同じく巨大なハリティアス家の繁栄を支えてきた。
若いと侮られることも、彼がした父殺しのせいで忌避されることもあった。そのせいで、彼はできるだけ人に心を許さないように生きて来た。
イ・サはいつでも孤独で、そんな彼の世界には敵か味方しかいなかった。
その中で、フレンジーヌとショウエルは数少ないイ・サの味方に分類されていた。
そして、そのような苛烈な人間の常として、イ・サは味方とみなした者にはひどく優しいのだ。
特に、妻も子供もいないイ・サは、ショウエルを我が子のように可愛がっていた。
その上、善にも悪にも嗅覚の鋭いイ・サは、ショウエルがあえて悪女を装っているのを苦しんでいうのもわかっていたのだ。
「駄目よ」
ふふ、とフレンジーヌが笑う。
「私とあの子は鏡だわ。私は悪い女だけれど、ハイレッジ様に愛されるために良き妻、良き母を装った。そして、あの子はカームラに愛されるために鬼姫になるの。
悪しき妻、悪しき母、けれど美しい女。残酷王はどれだけあの子を愛するでしょうね」
「フレンジーヌ……おまえ、狂ってるぜ……ショウエルが好きなんだろ?!なんでショウエルの本当の幸せを願えないんだよ!」
「それが約束だから」
フレンジーヌは間髪入れず答え、微笑む。
「約束って、おまえに何かを強制できる人間なんかそれこそカームラ王くらいしかいないだろ?!
なあ、最高級大貴族、フレンジーヌ・スプリングス・デ・ターリア・ハイレッジ公代理!答えろよ!」
「いやよ」
フレンジーヌがイ・サの指を顎から外す。
「これは神聖な約束なの。いくらイ・サでも言えないわ」
そして、もうお帰りなさいと扉を指さしてから、また、鵞鳥の羽の扇で優雅に風を起こした。
「ただひとつ言えることは、あの子は必ず私のように悪い女にならなければいけないということ。これはもう決まったことなの。私は覆さないわ」
「カームラ王の命令か?!」
「いいえ」
フレンジーヌが目を細める。
「ハイレッジ家が本気になれば、あんなもの、いつでも傀儡にできるわ」
「じゃあ、なんで……!」
「言ったでしょう、神聖な約束だって。……今日は嫌な思いをさせたわね。この埋め合わせはきっとするわ。
でも……私とショウエルのことには二度と口を出さないで頂戴ね」
にんまりとフレンジーヌは笑い、パンと手を叩いた。
どこに隠れていたのか数名の護衛兵が姿を現す。
「また遊びに来てくれるのを待ってるわ。私が真っ黒な蛇なのを知っているのはイ・サだけだもの」
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