第43話 終焉の赤、永遠の青 Ⅱ

 その扉が開くのを、フレンジーヌは朦朧とした目で見ていた。


 夫が死んで以来、自分は娘を守りながら一人で生き、一人で死ぬと決めていた。

 だから、いまこうして、一人で最期を過ごすことにもなんの痛痒もなかったのに。


 ……なかったはずのに。


「イ・サ……」

「よ、元気……なわけねえか」


 なのに、隣に腰を下ろした男を見て、ちくりと胸が痛んだのはなぜだろうか。


「ナンセも連れてきた。一緒に逝けなきゃ寂しいだろうからな」


 どさりと音を立てて、フレンジーヌの隣にナンセの体が置かれる。

 ちらりとフレンジーヌはそちらへ視線を向けた。


 幼いころからの自分だけの忠実な守護者。

 自分に世界との戦い方を教えた者。

 かなえられない恋心を抱いて、愛した女の娘に殺されることを望んだ男。


 そんな男の亡骸になんと言葉をかけていいかわからず、フレンジーヌは半ば自棄のようなことを言い捨てる。


「どうでもいいわ……そんなこと」

「よくねえよ。ったく、怪我した体を押してここまでこいつを連れて来た男にひどいことを言いやがる」

「あなたが勝手にしたことでしょう」

「ああそうだよ。俺の勝手だ。全部、ぜーんぶ俺の勝手だよ。王様と戦ってうちの私兵の数を減らして領土も取られて爵位も取られた」


「私のために」


「そう。おまえのために」


「それであなたは何が欲しいの?家も領土も引き換えにして私から何を受け取ろうとするの?」


「『憎まない』

 おまえのその一言だけ。味方になれば憎まないって言ってたろ」


「馬鹿な男」


「馬鹿どころじゃねえ。おまえに惚れた男はみんな狂うのさ。俺も、ナンセも」


「ハイレッジ様だけは別よ」


「いいや。あのお方も狂ってた。あれだけ賢く、分別のある方が、自分では本当のお前を知っているとも言えず、おまえを止めることもできずに、なにもかもあのちっちゃい嬢ちゃんにぶん投げていきやがった。

 あの方も、もう自分ではどうしようもできないほど、おまえに惚れてたんだ」


「……知らなかったのよ、私は。ハイレッジ様が私の本質を見抜いていたこと」


 フレンジーヌの頭を「お父様は本当のお母様をご存じで……」というショウエルの言葉がよぎる。


「私は……本当はどうするのがいちばん正しかったのかしら。もうわからないわ」


「おまえらしくもない。おまえはただにっこり笑って命令すればいいんだよ。

 嬢ちゃんは自分の意思でナンセを撃ち、俺に銃口を向けた。あの子はもう大丈夫だ。エルリックも新しい王も一緒にいる。必ず、このことも乗り越える」


 イ・サの指がフレンジーヌの髪を梳いた。


 ショウエルの時とは違い、黒い穴は穴に覆いかぶさるフレンジーヌの体を包む赤い光を吸い込むようにしていく。

 

 それはまるで、命の炎が少しずつ消えていくようだった。


「ああ、本当にきれいだな、おまえの目」

「どちらが?」

「両方だ。右目はルビー、左目はエメラルド。きれいすぎてこの世に生まれちゃいけなかった人形みたいだ」

「馬鹿ね。生まれていなかったら会えないわ」


 フレンジーヌが目を細める。

 細い指が探るように空中に伸びた。その指を取り、イ・サは微笑う。


「……その通りだな」


 そして、問うた。


「もし……もしもの話だ。ハイレッジ公より俺が先におまえに会ってたら、おまえは俺の物になってたか?」


「どうかしら。本当に、もう、わからないのよ」


 フレンジーヌは初めて困惑したような笑みを浮かべた。

 いつも、イ・サの前では君臨する女王のような顔をしていた彼女にははじめてのことだった。


「でも、最期にそばにいるのがあなたでよかったとは思うわ」


「そいつは男にとって最高の褒め言葉だ」


 イ・サが煙草をくゆらす。

 脇腹からの血はもう手で押さえるくらいでは止まらず、床を赤く汚していた。


「俺も、最期を迎えるのがおまえの傍でよかった。愛してる。___フレンジーヌ」


「……ほんとうに、ばかな、おとこ」

 フレンジーヌの声が急に小さくなった。

 かわりに、彼女の体は燃え立つように赤い光に覆われる。


「まったく、こうなっても悪態だけは忘れないんだな、おまえは」

 イ・サが声をかけてもフレンジーヌはもう返答はしなかった。

 その宝石のような瞳は光を失っていた。


「そうか……。先に逝っちまったか。しょうがねえ。お互い、殺しすぎたな。 

 よし、地獄で会おうぜ、フレンジーヌ」


 イ・サの言葉が契機となったようにフレンジーヌの体が燃え上がる。

 それは穴の中の黒い『力』を焼き、玉座の間全体に飛び火した。

 まるで、何かを浄化するように。


 火はイ・サの体にも燃え移る。


 イ・サはそれを煙草をふかしながらじっと見つめていた。

 

 愛した女の傍で、その女の瞳の色と同じ色に焼かれるなら、それは自分にとって刑罰ではなく僥倖だと、彼は心の底から思っていた。

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