第6話 真夜中の逃避行

「ショウエル様」


 背後から声をかけられ、ショウエルは肩をすくませる。


「エルリック……?」


「このような真夜中へどちらへご出立に?」


「……何もかも、わかって言っているのでしょう?エルリック?私はこの城から……」


 し、とエルリックがショウエルの唇に人差し指を当てた。


「そこから先は言葉にしてはいけません。それだけはフレンジーヌ様がお許しになりません」


「エルリックも……お母様の味方なのね……でも私はもう嫌なの!

 血も戦争も嫌いだわ!わたしが好きなのはお母様とお父様のような幸せな家庭を作ることなのよ!王妃になんか……王妃になんか……なれなくていいのよ……」


 ショウエルが顔を覆う。指の隙間からほろほろと涙がこぼれ落ちた。


 そこにいたのは舞踏会でどんな言葉をかけられても傲然と微笑んでいた、残酷王の妃になるはずの鬼姫ではなかった。


 年相応の、無力な少女の姿だった。


 心優しいショウエルにとっては「地獄の女王」などという称号も、カームラ王の真の婚約者であったユーエ公女の悲しみも、どちらも耐え難いものだったのだ。


「ですからフレンジーヌ様の御許しを請わねばいいのです。あなた様は次期ハイレッジ家の跡継ぎであり、おそらくはこの国の王妃となる方。そのような方が婚姻の前に下々の者に身をやつし、その生活を知ろうとするならば……それは賞賛の的になるのではありませんか?

 フレンジーヌ様もお悔しいでしょうが、表だって反対することはできないでしょう」


「エルリック……」


「ただそれには条件がおひとつ。私を変わらず従僕としてお連れ下さいませ。

失礼ですが、貴族のショウエル様は世間を知りません。このようなときに役に立つのが私ですよ」」


 エルリックが笑った

 本当に優しい微笑だった。


「私に与えられた職務はショウエル様の従僕。お守りいたしますよ。どこに旅立っても……ああ、泣かないでくださいまし、ショウエル様。冷酷な悪党だという理由で雇われた私を変えてくださったのはショウエル様です」


 そう言いながら、エルリックがショウエルの涙を拭う。


「優しさ、温かさ、思いやり、与えて頂いたものは数えきれません。初めてショウエル様にお会いした時のこともまるで昨日のように覚えています。

 もしかして、生まれた時からあなたのような方に出会っていたら、私は今のような生き物にはならなかったのかもしれないと思うのです」


 そして、エルリックがショウエルの手を取った。


「行くならば夜明け前に。できるだけ夜のうちにフレンジーヌ様の影響の強い場所を抜けていきましょう。

 ご用意できたのは早さだけを優先した粗末な馬車ですが、これもフレンジーヌ様の目をそらすためです。お許しくださいませ」


「ありがとう、なにもかも、エルリック」


「いいえ。ショウエル様は私の大切なお嬢様ですから」


「あなたがいて、本当によかった」


ショウエルも空いている手で涙を拭いながら、エルリックの手を握り締める。


「もう大丈夫よ。あなたと行けるのなら何も怖くないわ」


「過ぎたるお言葉、ありがとうございます。

 それでは、失礼ですが、お走りになってくださいませ。裏門に馬車を待たせております。時間を過ぎれば契約はないものとみなされてしまいますから」


「わかったわ。走るのは不慣れだけど……頑張るわ!」


 エルリックに手を引かれ、ショウエルは必死に走り出す。

 貴族の彼女は走るなどということに慣れていないのだ。


 だからだろう。


 ショウエルはエルリックの容貌の変化には気づいていなかった。


 それまでの白い肌に金の髪がこぼれる、柔らかい花のような従僕の表情……それは脱ぎ捨てられ、やさしく穏やかだったエルリックの顔立ちは、髑髏のように変わっていた。

 そしてそれは嘲笑うように歯を剝き出し、いまにもカタカタと歯を打ち合わせて音を立てそうな笑みを浮かべていた。


 化物。


 最も短い言葉で表すのなら、それが一番ふさわしかっただろう。


 ショウエルは、化物に手を引かれながら城の廊下を疾走していた

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