第46話 そして、それから

 眩しい。

 

 ショウエルが初めに感じたのはそれだった。

 

 凪いだ海から浮上するような感覚。あと少しだけ寝ていたいような、早く明るい場所に行きたいような。


「きみがあんまり目を覚まさないから窓を開けてしまったよ」

「お父様……」


 さやりと風に頬を撫でられて、ショウエルの意識はだんだんはっきりしていく。


「さあもう眠るのは無しよ。このままでは朝餐が午餐になってしまうわ」


 ふふ、と含み笑いをしているのは母のフレンジーヌだ。


「起きなさい、ショウエル。あなたはそうしなければいないの」

「そうだよ。お母さんの言うとおりだ。きみはもう起きなくちゃいけない」


 父と母に交互に話しかけられ、ショウエルはぼんやりと首を振った。


「まだ……眠っていたいのです……」

「なぜだい?」

「目を覚ませば、お父様もお母様も消えてしまうような……こわいのです」


 ショウエルの目尻を涙が伝った。

 幸福な今この瞬間こそが夢のような気がしていた。


「あらあら、この子は何を言うのかしら。おかしな子だこと」

 ころころとフレンジーヌが笑う。


「僕もこどものころはそんな風に思うことがあったよ。でもね、ショウエル、一番の悪夢は幸せな夢なんだ。醒めたことを後悔するような夢なんだ。もしこれが夢だときみが思ってるのだとしたら、早く悪夢から目覚めさせてあげたいよ」


 ハイレッジ公の手がショウエルの頭を撫でた。


「きみは将来ハイレッジ女公としてこの家を守るものになる。僕はもしかしたらきみに重い荷物を背負わせてしまうかもしれない。でもね、それでも僕はきみの幸せを心から願っている。それだけは、信じておくれ」


「お父様……」


「公、そろそろ行きませんと」

「ああ、すまないね。やはり僕はきみがいないと駄目だ」


「どこへ?どこへ行かれるのですか?お父様、お母様……!」


 ショウエルの質問には答えず、ハイレッジ公はその髪をもう一撫でした。


「きみは幸福になるべきだ、ショウエル。いつまでもここにいてはいけないよ」

「今度こそ私もあなたの本当の幸せを祈りましょう。むかし私に話してくれたように、愛する人を見つけ、その人と家庭を作りなさい。私のようになっては駄目よ。愛することの意味を間違えては駄目よ」


「生まれてきてくれてありがとう、ショウエル」

「愛しているわ」


 遠ざかっていく美しい黒髪と金髪。

 ショウエルは必死に手を伸ばす。

 起き上がろうとする。


 けれど体が動かなかった。

 先程までは簡単に動いた指先さえ。


「どうして?今日はわたしの誕生の日だとおっしゃいましたのに。祝いの用意があるともおっしゃいましたのに。どこへ行かれるのですか、お父様、お母様!」


 なんと言葉をかけても二人は振り返らなかった。

 ショウエルはこれが夢ならば覚めてほしいと必死で願った。

 父の言うとおり、幸せな夢のふりをした悪夢だと思いたかった。


 目を覚まさなければ。

 早く、早く。

 目覚めさえすれば、父がいて、母がいて、いつも通りの日常に_____。

 

 ようやく上がった手でショウエルは空中をかく。


 気づいて、お父様、お母様。わたしの手を取ってください。


 そう言いたいのに動かない唇がもどかしい。


 そのとき、誰かの手がショウエルの指に触れた。


『ここに。ここにいるよ。ショウエル』


 そう言ってくれたのは父だったのだろうか。


 やっと訪れたそれを逃すまいとショウエルはぎゅっと力を込めてその手を握る。


 ようやく夢から覚めることができるのだと、そう思いながら。




                ※※※




 エルリックはいつもの通り、ショウエルの枕元に座っていた。


 侍医があり得るだけの治療法を試み、イザナルも何度も文様の力を使ったが、ショウエルは杳として目覚める気配がなかった。


 それでもエルリックはショウエルの枕元に座り続けた。

 いつか主人が目を覚ました時に、寂しい思いをしないようにと。


 かさりとショウエルの寝具から音がした。


 音のする方を見やると、それまで何をしても動く様子のなかったショウエルが、誰かを探すように手を伸ばしていた。


 反射的にエルリックはその手を取る。


「ここに。ここにいます。ショウエル様」


 声が聞こえたのか、ショウエルの手に力がこもる。

 エルリックもその手をきつく握り返した。


 ショウエルの瞼がゆっくりと開いていく。

 そこにはいつものように、空のように青い虹彩があった。

 エルリックがもう一度でいいから見たいと焦がれた色だった。


「お父様……あら、エルリック……?」


 どうして……?とショウエルの唇が小さな声で言葉をつづる。


 そして、何度かぱちぱちとまばたきをした後、その眼はエルリックに焦点を結んだ。


「そう……そうなのね……」

「ショウエル様!私がおわかりですか?!」

「勿論よ……あなたはエルリック……私を守ってくれる人……」


 見開いたエルリックの目からぼたぼたと涙が落ちる。

 イザナルの前では平気なふりをしていたが、本当はとても怖かった。

 この大切な自分の主人は、永遠に眠り続けるのではないかと。


「ゆめを……見ていたわ……」


 エルリックの涙が自分の顔に落ちるのも構わず、ショウエルはゆっくりとつぶやくように話す。


「お父様の言うとおり……いちばん怖いのは幸せな夢ね……」

「ご安心ください。ここは夢の世界ではありません。ショウエル様は大変長く眠っておられたのですよ。

 ああ、イザナル殿に連絡しなければ!それよりも侍医が先か?」


 慌てるエルリックの服の袖をつかみ、ショウエルが微笑む。


「それより先に言うことがあるわ。____ただいま、エルリック」


 エルリックがはっと動きを止めた。


 そして、涙を拭きながら答えた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」

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