第45話 最後の夢のそのあとに

 ショウエルは穏やかな眠りの中、自分を呼ぶ声に気付いた。


「ショウエル、起きなさい」

 

「ほら、ショウエル、目をお覚まし。御寝坊さんは淑女にはなれないよ。きみのお母さんはとても早起きだ」


どちらも聞き覚えのある、懐かしい声だった。


低いしずかな、優しい男の声。

そして、ショウエルがいつか自分もこうありたいと願う、鈴を振るような女の声。


「それは公が早起きだからですわ」

 女がふふっと笑う気配がした。

「なんだ、じゃあ僕のせいなのかい?」

男の方も楽しげな声で応じる。

「いいえ。妻ならば夫の傍を離れないのが務め。私はその務めを喜んでこなしているだけですの」

「僕は素晴らしい妻君を娶ったな」

「そのようなことを人前で公然とおっしゃっては威厳を落としますわよ。公はなんでも私に御命じになられればよいのです」

「そんなのは僕の考えている夫婦じゃない。僕が考え、きみも考え、そして二人で答えを出す。折角縁あってきみを妻にできたのだからね」


 そうだった。こんなやり取りもショウエルの記憶の底に沈む憧れだった。

 いつか自分でもこんな話を好きな人としたいと思っていた。


「嬉しいことを言ってくださるのね。でも、公、これではいつまでもショウエルは目覚めませんことよ。____ショウエル、さあ早く目をお覚ましなさい。今日は何の日か、わかるでしょう?」


 体を柔らかく揺すられ、ショウエルは瞳を開く。


 ショウエルはいつものように、桃色を基調とした自室のベッドの上にいた。そこにはひらりとした天蓋が幾重にも垂れ、それをかき分けるようにして二人の人間が立っていた。


「お父様……お母様……?」


 そこにいるのは自分とよく似た顔立ちの金髪の男性と、長い黒い髪を肩から滑り落ちさせている品のある美貌の女性____ショウエルの父のハイレッジ公と母のフレンジーヌだった。


「お、ようやく眠り姫が目を覚ましたようだ」


 ハイレッジ公がおどけたように手を叩いて笑う。なぜかとても嬉しそうだ。

 フレンジーヌはベッドの端に腰かけ、五月の森のように優しい緑の目をひらめかせながら、ショウエルの髪をゆっくりと梳いていた。


「本当に、ショウエルは公にそっくりですわね。夏の日差しのような金色の髪、青空のような瞳。羨ましいわ」

「でも、きみにもよく似ているよ」

「あら、どこが?」

「いや、そう言われると困るのだがね、僕ときみの娘なんだから似ているに決まっている。

 ……ほら、ショウエル、早くちゃんと目を覚ましておくれ。このままではお父さんはお母さんに負けてしまう」

「そうよ、ショウエル。せっかく御仕度をしてくれたお父様が気の毒ではありませんか」

「忘れたのかい?今日はきみの誕生日だ。庭をきれいに飾らせたから早く行こう。そこで朝食をとって、馬車に乗って湖に行って、今日だけはきみの厳しいお母さんが禁じるお菓子も食べ放題だ。夕食の時には贈り物も待っている」


 さあ、と促すハイレッジ公の顔を見ながらショウエルは口を開く。


「なんだか……とても長い夢を見ていた気がするのです……」


 ベッドの上のショウエルがぽつぽつと口にした。ゆっくりと、柵のない橋を渡っているような頼りなげな口調だった。


「まあ、どんな?」

「お父様がいなくなって……わたしはいくさ事を覚え……お母様もいなくなる……かなしい……ゆめ」


 口にすれば、それは本当に起きたことのように思えて、ショウエルの胸がツキンと痛む。目にも涙が浮かんだ。


「どうしたんだい、泣かないでおくれ?そんなのただの夢だよ」

「そうね。今日のような日には似合わない夢ね。早く忘れてしまいなさいな。誕生のお祝いは一年に一度しかない日なのよ」


「お母様……また髪を伸ばしたのですね……」


 フレンジーヌのつややかな黒髪へ指を伸ばし、ショウエルは触ろうとする。

 夢の中の母はこの自慢の髪を肩までにばっさりと切ってしまっていた。

 こんな風に笑うこともなく、もっと怖い顔ばかりをしていた。


「あらあら、この子は何を言っているのかしら。私の髪はずっと長いでしょう?お父様が褒めてくださったから切らないのだと話したじゃない」

「眠り姫はどうやらずいぶん寝惚けているようだね。もう少し寝かせてあげようか」

「そうですわね」

「また迎えに来るよ、ショウエル。そのときはちゃんと目を覚ましておいで」


 二人は御簾のようになっている天蓋をかきわけ、また、ショウエルの枕元から離れていく。


 大きな窓にかけられたカーテンからは暖かな光がさし、寝具からは花のような香りが漂っていた。

 そのふっかりとした枕に頭を預け、ショウエルはまた目を閉じる。怖い夢のことなどはもうすっかり忘れていた。


 しばらくすればまた大好きな両親が起こしに来てくれるはずだ。

 だからもう少しだけ、この心地のいいまどろみの中にいようとショウエルは思っていた。






                 ※※※






「姫はまだ目覚めないのか」


 イザナルがショウエルの枕頭に侍り、聞く。


「ええ」


 エルリックがそれに答えた。

 もともと痩せ形ではあったが、今ではもう、その顔も体も、やつれている、としか言えなかった。


 あの戦いが終わり一か月。


 ショウエルはイザナルに眠らされて以来、目を覚ますことがなかった。

 いくらイザナルが目覚めるように文様を光らせても彼女の瞼は開かなかった。


「兵たちはもう皆起きたというのにな」


 イザナルの『王の血』は、王ではない物にその力を与えるときに代償を求める。

 今回のそれは傭兵たちの体力だった。

 故意に使った回数はわずかとはいえ、短いものでは三日、長いものは一週間ほど眠りについた。


 けれど皆、時が来れば陽気に目覚め、自分たちとイザナルが為したことを心から喜んでいた。


「いい加減に即位の式典を行ってはどうですか?あなたはもう、この国の王なのですよ」


 エルリックの言うとおり、譲位の儀は滞りなく行われた。


 カームラ王の頭上に会った王冠は、正統な王であるイザナルの元に戻ったのだ。


 しかし、イザナルの王位継承の儀はまだ行われていなかった。


 事実上の王であるというのに、正式な王である声明を発しない王。

 戦争功労者を讃えるでもなく、王位簒奪者を罰するでもない王。


 心さがない者は彼を『空位王』と呼んでいた。


 答えないイザナルにエルリックが畳み掛ける。


「空位王などと呼ばれるのは残酷王より不名誉ではありませんか?せめて即位と叙勲の儀だけでも行われては?」


「姫が目覚めない限りは誰にも名誉は与えない。命を賭け、血縁を超えてこの国を守ろうとした姫以上に名誉のある者はいない。____少なくとも、俺にその資格はない」


「あなたがそう言い張るならば私には何も強制できませんが……眠るショウエル様はとても幸せそうですよ。

 時折笑うのです。私が見たこともないような顔で。眠りの中でそれほど幸福なら……無理にそこから出ろとは私は言えません。ショウエル様にとって、世界は過酷な物でしたから。もしこのまま眠り続けても……それが逃げだとしても、私はショウエル様にはそれが許されると思っています」


「そう言われれば、俺は何も言えない。だが少なくとも____生涯を空位王として過ごし、愚かだと笑われる覚悟もできている。俺はこの国さえ守れれば、自分が何と言われようとどうでもいい」


 イザナルが立ち上がった。


「また来る。

 ____姫、次に来るときはその美しい青い目を見せてください。約束通り、あなたの靴を用意して、俺はいつまでもお待ちしています」

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