第38話 母と娘~終わりの真実~
「生意気な娘。もうおまえの戯言などどうでもいいわ。生まれたことを後悔するような目にあいなさい!」
フレンジーヌが大剣を振りかざす。
ヒュッと黒いものがショウエルへと飛んだ。
しかし、ショウエルは持っていた剣でそれを軽々と受ける。
そのままショウエルが剣を振ると、文様が鮮やかな色を放ち、剣にからみついた黒いものは四散した。
「先程は油断しておりましたから。まさかお母様がこうも完璧に『力』を蘇らせるとは思っていなかったんですもの」
少しばかりの憐みまで含まれた言葉に、フレンジーヌの目が大きく見開かれる。そこにあるのは凍てつくような憎悪だった。
名門クエンティン家から、同じく名門のハイレッジ家に嫁ぎ、生まれてからこれまで、王家以外の誰にも頭を下げることのなかったフレンジーヌの傲慢なまでの誇りと矜持。
それがいま、蔑んできた目の前の娘に剥がされかけようとしているのだ。
戦うショウエルに加勢しようとイザナルとエルリックが走りかける。
けれど、その足元に鞭のように黒いものが絡み付き、二人は身動きが取れなくなった。
「いい眺めだこと。そこでこの娘が殺されるのを待ってらっしゃいな。次はおまえたちの番なのだから」
「『王の血』と『神聖文様』を舐めるなよ。これを倒すためにこの血が作られたのなら!今だってできるはずだ!こんなもの、叩き切る!」
「イザナル様、無理はおやめになって!イザナル様は次にこの国を守る大事な御方です!
大丈夫ですから!わたしなら大丈夫ですから!この日に備えて『本』の教えを忠実に守ってきたんですもの!」
何本もの触手を伸ばしてくる黒いものを、次々と切り落としながらショウエルが叫ぶ。
その剣の速度はイザナルさえ次の太刀筋が見えず、それでいてショウエルの体が動くたびに、床の上には断末魔に震える黒い触手が増えていく。
踊るように軽やかに剣を振るうドレス姿のショウエルは、伝説の戦姫のように見えた。
「何もできぬ娘などと嘘をついたことを二人に心から謝罪いたします!わたしは本当は剣も槍も扱えますのよ!お父様が『本』を託してくださったことを無駄にしないために!」
「偽物の娘ごときがハイレッジ様をお父様などと呼ばないで!」
ガキンと音を立ててフレンジーヌの大剣とショウエルの剣がぶつかりあう。
『力』だけでは埒が明かないと判断したのだろう。フレンジーヌは自らの手でショウエルの首筋を薙ぎ払おうとした。
しかしそれはすんでのところで阻まれる。
今では文様と同じく青い光をまとわりつかせたショウエルの剣は、信じられないような早さで動いていた。
「お母様『本』にありましたでしょう?神聖文様は魔術でも魔法でもなく奇蹟だと。いくらお母様の剣が鋭くても、わたしには止まっているように見えますわ」
「偽物はいい加減に口を閉じなさいな!」
フレンジーヌの大剣は今度はショウエルの頭部を狙う。避けきりはしたが、刃先はショウエルの髪をかすめ、床にふわりと金の髪の束が落ちた。
「さあ、次は首よ」
たん、とフレンジーヌが踏み込む。重い大剣を持ちながらの踏込だというのに、すさまじい速度だった。
もちろん、フレンジーヌはそれに合わせてショウエルが後退することを見越していたのだろう。腕も大剣も前に向かって真っすぐに伸ばされていた。
けれど逆にショウエルはフレンジーヌの胸元へと飛び込んでいく。ショウエルがフレンジーヌよりずっと小柄だからこそできる技だった。
虚を突かれたフレンジーヌの速度が一瞬だけ落ちる。
それはまばたきするほどの短さだったが、その一瞬がショウエルの勝機だった。
ショウエルに残されたのは頬への一筋の傷。そして、フレンジーヌの首筋にはショウエルの剣。
「殺しなさいな。おまえごときに情けをかけられるのはごめんだわ」
「……できません……わたしにとってお母様はお母様……」
幾条もの青い光がショウエルの文様から現れ、フレンジーヌの体を拘束する。 そのうちの一本はまるで意思を持つように、フレンジーヌの手から大剣をもぎ取った。
フレンジーヌの背後の黒いものも急激にその大きさを狭めていく。
どちらが勝者かは、もうはっきりとしていた。
「これでもうお母様に戦うすべはありませんわ……。どうか法の裁きを受けてくださいまし」
「何を言うの?偽物とはいえ、おまえはまだハイレッジの名を冠する娘。私が裁かれればおまえも連座するのよ!」
「かまいません……わたしはお母様がひとりの方の人生を壊すのを知りながら、見て見ぬふりをしたんですもの……」
「人生を、壊した?笑わせないで頂戴。私が誰の人生を壊したと?
ああ、おまえは私に人生を壊されたと言いたいのかしら?平民の娘がひとときでも大貴族の暮らしを味わえるなど、壊されるどころか恩寵でしょうに!」
吐き捨てるフレンジーヌに対して、ショウエルはあくまでも穏やかだった。
剣をとっていた時の姿でなく、この姿が本当のショウエルなのだろう。
「おそらくお母様の『本』には載っていなかった言葉があります。それは、『先祖帰り』。昔は王家以外の多くの人間がこの文様を持っていたことから、今でもときには不完全な文様を持ってうまれるものがいるのです。もちろん、その文様には本来の力はありませんわ。でも……文様のあるものを探そうとすれば、その網にはかかるのです……。
ねえお母様、お父様は最期にお母様になんとおっしゃられたんです?」
「ハイレッジ様は息を引き取られる間際にこうおっしゃったわ。『僕ときみの大事な娘をこの国で一番幸せにしてほしい』と。私は答えたわ。『ええ。必ず』とね!
この国で一番幸せなのは王よ。誰にも首を垂れる必要がない絶対者。けれど私の可愛いショウエルはこのままでは王妃にはなれても王にはなれない。だから、文様の力を使い王も邪魔者もすべて消し、『力』を利用して、女王ショウエルを擁立しようとしたのよ。それでこそ、この国でいちばん幸せな娘だわ。このままならもう少しでハイレッジ様の最期の願いがかなったというのに!それを『先祖帰り』ですって?説明しなさい、偽物!」
死地にあっても、フレンジーヌは潔いまでにフレンジーヌだった。
文様の光に全身を拘束され、これまで見下してきた娘に悲しげな眼で見られても、なお、その傲慢さと誇りを失ってはいなかった。
その恐ろしいまでの精神の強さ。それゆえに、進む方向が誤っていなければ、彼女は歴史に残るような善行を為しただろう
「お父様……そうでしたのね……」
ショウエルが泣き出しそうな顔をする。
最期まで自分の幸福を願ってくれた父の言葉が、母を、そして多くの人間を不幸にしたことを知ってしまったのだ。
それは、どうしようもない悲しみだった。
「お母様、わたしは本当にお母様とお父様の娘です。お父様がお元気だった最後のわたしの誕生日、お父様がくれたのは黒い革表紙の百科事典。お父様が好きだった歌は空と海の歌。あまり上手ではなかったけれど……お母様といつも楽しそうに歌っておられて……。ほら、顔の移植で消えたはずの記憶がわたしにはきちんとありますのよ……」
はじめて、フレンジーヌの表情に狼狽が走る。
ハイレッジ公が死去したあとに屋敷に迎えたもうひとりの娘なら知らないはずの記憶。
そして、これまで本物の娘だと信じて疑わなかった娘にもない記憶。
顔の移植という大規模な魔術を行ったことでそれまでの記憶をなくしたのだろうと思ってきたそれは、いま、粉々に打ち砕かれた。
「もうひとりのショウエルは『先祖帰り』です。文様はあっても、なんの力もない……。けれどお母様方はそれを知らず、うまく隠していたおかげでお母様方はわたしの本物の文様にも気づかず……もう一人のショウエルを文様所持者として捕らえてわたしとすりかえようとした…。わたしは罪深いことにそれを利用しました。すり替えられた娘のふりをしてお母様とお父様とは血のつながらない文様の娘を装おうと。
顔を移植されたのはわたしではなく、あの子でしたのよ」
フレンジーヌが声にならない悲鳴を上げる。
「嘘!嘘よ!」
ハイレッジ公の忘れ形見として、彼女の愛___それはとても歪んではいたけれど___を一心に与えた娘が偽物だったと断じられれば、フレンジーヌのこれまではすべて無駄になる。
その上、彼女は本当に愛すべき人間には剣を向けてしまったのだ。
「ご病気が進まれたお父様は自分がいなくなった後のことを随分心配されていました。消された歴史についての『本』をくださり、この手に文様があるのを教えてくれたのもお父様です。でも、お母様には決して言ってはいけないと。きっとお母様はそれを使って何かを始めるからと。
お父様は本当のお母様をご存じで、それでも……それでも大切に思われていましたのに」
ショウエルの瞳の中で涙が膨らんでいく。
そして、ただ、呆然とした顔のフレンジーヌをじっと見ていた。
「だからわたしは、お母様が何かを始められた時のために、この文様を使いこなすことを目指しましたの。お母様にもエルリックにも知られないように練度を上げるのは地獄の苦しみでしたわ。時間もかかりましたわ。でもわたしはやっぱりお母様の娘。なんとかやりこなしてみせましたのよ」
ショウエルがエルリックたちの方を振り向く。
涙をいっぱいにためたまなざしが二人に注がれた。
音にならない言葉で「ごめんなさい」とその唇が動く。
そしてまた、ショウエルはフレンジーヌを見上げた。
次々と瞳から滑り落ちる涙は頬の傷の血と混じりあい、まるで血の涙を流しているように見えた。
「あの状況での逃亡も、文様を伯に見せつけるのも、イザナル様に合流するのも、本当はすべて計算づく。ようやく、文様を使いこなす自信がついたんですもの。でも……お母様がここまでなさるなんて、そこまでは考えが至りませんでした。わたしの中のお父様の部分が、お母様を甘く見積もってしまいましたのね。
私が約束したのはお父様でしたの。お母様が悪しきことを為すときはやめさせて、と。それこそがお母様を守ることになるのだから、と」
ほう、とショウエルが悔恨のため息をつく。母の強さを受け継ぐと同時に、父の優しさも受け継いでしまった自分を後悔しているようにも見えた。
「お父様のいう幸せは残されたわたしとお母様が幸せに暮らすこと。どうしてお母様はそれをわかってくださらなかったのですか?
たくさんの人を殺して、その血の上で女王として戴冠するわたしを見て、お父様が喜ぶと思ったのですか?」
ショウエルに泣きながら問いかけられ、フレンジーヌは答える言葉をなくしていた。
フレンジーヌはただ、血にまみれた玉座の間に呆然と立ち尽くしていた。
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