第8話 かくして扉は開かれた
「ふぅ」
馬車の窓から流れる景色を見ながら、ショウエルはため息をついた。
よく使う道を逸れ、普段は通ることのない道に入ってから、それは何度も繰り返されていた。
「後悔をなさっておいでですか」
いつのまにか、元の優しい顔に戻ったエルリックが聞く。
エルリックはショウエルの心を慮るように、対面ではなく横に座っていた。
事情を知らない人間が見たら、仲のいい兄弟か、それとも恋人どうしにでも見えたかもしれない。
「いいえ。こんなに揺れる馬車に乗るのははじめてだから……」
微笑みはいつもの通りだったが、ショウエルの語気は固い。
エルリックを安心させようと無理に笑っているのがよくわかる。
「無理をおっしゃらなくてよろしいのですよ。フレンジーヌ様のことをお考えですね?」
「___ええ。あなたには何も隠し事はできないわね」
エルリックに尋ねられ、ショウエルは先ほどまでと違うため息をついた。
漠然とした恐れや不安からではなく、自分の心をぴたりと見抜かれたことへのため息だった。
「私はお子様のころよりショウエル様のことを見ておりますれば」
「そういえば、あなたはどこから来たの?エルリック。
あなたはよく自分のことを、わたしを悪魔のような女にするために呼ばれた悪党だというけれど……そんなことをせずに、こどものころからわたしの傍にいてくれたわよね?」
「悪党は悪党から生まれ、幼子のころより悪に染まっているものです。
ショウエル様が白い絹であるように、私は生まれた時より黒い布。そしてショウエル様を黒い絹にすることを命じられたのも幼い私です。
ですからどこから来たかはできれば聞いていただきたくはありません。
___それがショウエル様のご命令ならばお答えいたしますが」
エルリックは悲しみに満ちた笑みを浮かべた。
これまで、完璧な従僕としてショウエルに仕えて来たエルリックがはじめて負の感情を顔に出した瞬間だった。
あ、とショウエルが口元に手を当てる。
なぜだか、絶対に聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。
「いいえ。いいのよ、エルリック。嫌なことを聞いてごめんなさい。今のあなたが本当のあなただわ。
城での唯一の友達、わたしの味方、お母様に意見ができるのはあなただけだったもの」
「それでも大したことはできず……カームラ王との顔合わせも阻止できず……このような貧しい逃避行になってしまったこと、心から謝罪申し上げます……」
エルリックが深く頭を下げる。
それを見て慌てたようにショウエルが首を振った。
「いいのよ!わたし一人では馬車の手配一つできやしない!
わたしね……歩いて逃げようとしていたのよ……。馬鹿よね……。まともに歩いたこともないのに、あのお母様からこの足だけで逃げようなんて……」
ショウエルが目を伏せる。
ふっさりとした睫毛が白い頬の影を作った。
「その意思こそがショウエル様の輝きですよ。黒い布であった私を後悔させた」
失礼、と言ってエルリックがショウエルの手を取る。
「この細い指先にどれほどの力があるか、ショウエル様は気づいておられないのです」
「エルリック……」
「お雇い主の指先を触るなど不敬。罰してくださいませ」
エルリックの指が離れると、ショウエルの手が名残惜しげにそれを追いかけた。
「罰しなどしないわ……。あなたはわたしの大事なエルリックだもの……」
「ありがとうございます。従僕として、ショウエル様のその御言葉、終生忘れることはないでしょう」
エルリックが微笑う。つられたようにショウエルも笑った。
「大袈裟ね」
「大切なショウエル様のお言葉でございますれば」
「おかしな人。ならばこれからもたくさん言って差し上げる。あなたは私の恩人だもの」
ショウエルの煌めく青の瞳が柔らかく蕩けた。
それを見てエルリックは嬉しそうに、恥ずかしそうに、下を向く。
「どうしたの?」
「照れております」
「まあ」
ショウエルが胸元に両手を当て、おかしそうに笑った。
「あなたにこんな弱点があったなんて。これからあなたに叱られたらこの手で行くことにするわ」
我慢しようとしてもこらえ切れない笑い声をクスクスと漏らしながら、ショウエルはそんなことを言う。
「ひどいことをおっしゃる」
顔を上げたエルリックの頬は薄く赤く染まっていた。
耳も赤い。
もしも本人が否定したとしても、その色が今のエルリックの心情を如実に表していた。
「ところでショウエル様、しばらくの間互いの名前を変えましょう。追っ手を撒くためにも、ショウエル様の居所を知られないためにも」
「いいわ」
「何かお好きなお名前は?」
「そうね……」
しばらく唇に人差し指をつけて考えていたショウエルが、花のように微笑んだ。
「ルカ!ルカ・ルアがいいわ!むかし、本で読んで憧れていたの。自由で頭がよくて、素敵な発明をたくさんする女の子なのよ」
「それではこれよりあなた様はルカお嬢様です。私のこともザレックと」
「ええ」
ザレック、ザレック、とショウエル___ルカ___が繰り返す。
その様子をほほえましそうにエルリックは見つめていた。
「うん。大丈夫よ。わたしはルカ。あなたはザレック」
「これからの私たちは王都を見て領地に帰る田舎貴族とその従僕です。いいですか。忘れてはいけませんよ」
「ええ」
こっくりとうなずくショウエルを見てエルリックは満足げな顔をした。
そこにうっすらと影が映ったのを、ショウエルは気づくはずもなかった。
緊張が途切れたのか、ふわ、と欠伸をかみ殺すショウエルを見て、エルリックは「よろしければ」と膝を差し出す。
「枕を持ってくれば良かったですね」
「いいわ……あなたの膝で十分よ……」
そして、ショウエルはぱたりとエルリックの膝に伏した。
エルリックの膝に金の髪を散らしながら、ショウエルは瞼を閉じる。
はじめはただ横になっているだけだったが、その呼吸がすう、すう、という穏やかな寝息に変わるのにつれ、エルリックの顔がまた変化した。
嘲笑する剝き出しの歯、糸のように吊り上った目。
「謝らねばいけないのは私の方です」
エルリックは人とは程遠いその顔のまま、膝の上のショウエルを見下ろす。
ショウエルは化物の膝にいることにも気づかずに、穏やかに深い眠りについていた。
「それでも……それでも……あなたを心から好いております……ショウエル姫……」
エルリックの顔に深い悔恨が浮かんだ。
そして、触れるか触れないかの距離まで、ショウエルへとその指を近づける。
座席でそんなことが起こっていることなど何も知らないまま、馬車はどこかへ向けて疾駆していた。
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