第9話 毒蛇の弓手
「どういうこと?」
豪奢な鏡台に向かい、起床後の習いとして侍女に髪を梳かせていたフレンジーヌが柳眉を逆立てる。
思わず、髪を梳いていた侍女が後ずさるほどの勢いだった。
「ショウエルがいない?探しなさい、もう一度!」
きつい言葉を浴びせられたのは、どうやらショウエルの朝食を用意した侍女だったのだろう。フレンジーヌに深く頭を下げ、小走りで部屋を出ていく。
「カームラとの縁談がうまくいきそうなのに、厄介ごとはごめんだわ」
流麗な細工の施された手鏡を覗き込み、赤い唇をさらに赤く塗りながら、フレンジーヌがひとりごちた。侍女に聞こえないように「お待ちになってらして、ハイレッジ様___」とつぶやきながら。
そのとき、目立たない姿の男が現れ、何やらフレンジーヌに耳打ちした。
「……それは、本当、なの?」
怒りのあまりだろう。途切れ途切れになったフレンジーヌの問いに男は頷く。
それを見て、侍女を下がらせたフレンジーヌは、イ・サに見せていたような表情を男に向けた。
「冗談だったらおまえを殺すわ」
その眼に宿る昏い光。そして歪んだ笑み。
こんなフレンジーヌの前ではたいていの人間ならば口を開くこともできないだろう。
だが、男はそんなフレンジーヌの物言いに慣れているようで、「申し訳ありませんが、このような冗談は申し上げません」と、淡々と首を横に振っただけだった。
「イ・サの差し金?」
「イ・サ伯は今のところ何もお関わりにはなっておりません」
「確かなの?」
「はい」
男が頷く。
フレンジーヌの目の険がすこし消えた。
このなんの特徴もない男は、よほどフレンジーヌの信頼を得ているように見えた。
「……おまえが言うのならそうでしょうね。
カームラの耳には?」
「まだ入ってはいないかと」
「ではショウエルは妃になる前の最後の自由な旅に出たと言いなさい。鬼姫らしい気まぐれで誰にも止められなかったと言えば、カームラが機嫌を損ねることもないでしょう。
いいこと。このことは絶対に外に漏らしてはいけないわ。何を聞かれてもそれで押し通しなさい。よくって?」
「承知いたしました」
「おまえになら安心して任せられるわ、ナンセ」
「ありがとうございます」
「礼など言わないで。おまえにしか安心できない自分が情けないのよ。___エルリックが裏切るとはね。私についた方が最後はいいカードを引けると教えてあげたのに。あの化物、化物のくせに恩知らずね」
そして、つい、とフレンジーヌが目立たない男___ナンセ___を見上げる。
「ついつい忘れてしまったわ。人には感情があるということを。私はそんなもの、ハイレッジ様が逝かれてからなくなってしまったもの。
____感情が人にあるのなら化物にもあるのでしょうね。私はあんな化物の心など知りたくもないけれど」
そして、自嘲するようにフレンジーヌがふっと笑う。
「私はもう死んだようなものね。化物にすら心があるのに、私にはないわ」
「お言葉ですがフレンジーヌ様」
「なぁに?」
「ハイレッジ様を思われている限り、フレンジーヌ様にはハイレッジ様への忠実な心がおありです」
「それは慰めているつもり?」
きろりとフレンジーヌがナンセを横目で見る。
飴玉のような、美しいけれど虚ろな緑の虹彩。
「そのような不敬なことは。事実を申し上げたのみです。_____それと、もう一つ」
「もう悪い知らせはいらないわ。厄介ごとなら井戸にでも叫んで」
「イザナル傭兵団が王都へ向かい始めております」
「なんですって?!」
フレンジーヌの表情にはじめて焦りが現れた。
「どうして奴にこのことが漏れたの?!あれは王政にかかわらないことを誓ったはずよ!」
「まだ理由までは探りきれておりません。ただの偶然かもしれません」
「偶然ではないわ。ショウエルは消え、エルリックは裏切り、イザナルは王都へと……イザナルをショウエルに会わせるわけにはいかない……!」
「できるだけの手段をもって排除いたします」
「ハイレッジ家のすべてを使いなさい!あの方との約束を守らなければ!」
「イザナル傭兵団との接触を避けるのはどちらのショウエル姫ですか?」
ナンセは、それが何事でもないように口にした。
つまり、彼も知っているのだ。
同じ顔をしたショウエルが二人いることを。
「逃げた方よ。でも、必ず生かして捕まえなさい。カームラの妃にはあれが必要なのよ」
母の仮面を脱ぎ捨てたフレンジーヌは、いとも簡単にショウエルを『あれ』と呼んだ。
それに黙ってナンセが頷く。
そして、静かに部屋を出て行った。
残されたフレンジーヌは手鏡を抱いてつぶやく。
「ハイレッジ様……」
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